46 セリーヌの日記
エマがそっと日記帳を開くと、ふわりと古紙の匂いが立ちのぼった。ページの端は黄ばみ、ところどころ文字が薄れていたが、丁寧な筆跡で綴られた文章は、今もなお確かに読み取れた。
最初のページには、こう記されていた。
《この日記は、セリーヌ・ド・ラ・ヴァールとして生きた証。わたしという存在が、せめてこの中にだけでも残りますように》
隣で、セリーナが小さく息をのむのが聞こえた。
「やっぱり……セリーヌ。私の記憶の中にいた、あの人……」
彼女の声はかすかに震えていた。
エマはそっと目を伏せ、ページをめくる。日記には、幼い日の出来事が綴られていた――父に褒められた日、庭で妹と花冠を編んだこと、そして、母親の冷たい視線。何気ないけれど、ひとつひとつが切実な記憶のかけらだった。
けれど、日記が中盤に差しかかると、文体に変化が現れる。
《最近、父と母の話を聞いてしまった。わたしは「望まれなかった子」なのだと。名を与えられただけで、本当は“ド・ラ・ヴァール”の人間ではない、と》
《本当の娘が生まれたら、わたしは必要なくなるんだって。セリーナが生まれたとき――父は笑っていた。母は、わたしを見ようともしなかった》
セリーナの体がわずかに強張り、息を呑んだ。
「私が……生まれたとき……」
彼女の瞳が揺れる。その奥に、幼い記憶の欠片がきらりと浮かび上がっていた。
エマは黙ってその視線を受けとめ、さらにページをめくる。
《わたしの存在は、妹の影になって消えていく》
《それでも、セリーナだけは――わたしを“お姉ちゃん”と呼んでくれた。それが、どれほど救いだったか……》
《でも、もうだめみたい。父と母は、わたしを“療養”と称して屋敷から遠ざけるつもりらしい》
《きっと、もう……戻ってこられない》
その先の数ページは、無惨に破り取られていた。まるで、何かを消し去ろうとするかのように、乱雑に。
そして、残された最後のページに、震える文字でこう綴られていた。
《わたしはここにいる。閉じ込められて、忘れられて、それでも……消えたくない。セリーナ――わたしを、忘れないで》
その瞬間、エマは確かに感じた。
――鏡の向こうから、何かが見ている。
セリーナは唇を噛みしめたまま、ゆっくりと鏡へ近づいた。
「セリーヌ……あなた、ずっと……ここで……」
鏡に映る彼女の姿が、ふっと変わる。もう一人の“セリーナ”――いや、確かに“セリーヌ”が、鏡の中から真っ直ぐに彼女を見つめていた。さっきまで浮かべていた微笑みは消え、どこか懇願するような表情に変わっている。
セリーナは、まるで吸い寄せられるように手を伸ばし、鏡にそっと触れた。
「私、覚えてる……ちゃんと、覚えてるわ。もう、忘れない。あなたは……確かに、ここにいたのよ」
その瞬間、鏡面がわずかに揺らいだ。そこから、ほのかに温かな光が滲み出し、部屋の空気に溶け込むように広がっていく。
それはまるで――
長い冬の終わりに射す、やわらかな春の陽差しのようだった。
そして静かに、“彼女”の姿は鏡から消えた。
「ありがとう……」
どこからともなく、そんな声が聞こえた気がした。
部屋には再び静寂が戻っていた。
けれどその空気は、入ってきたときよりもずっと軽やかで、澄んでいる。
「……終わった、のかしら?」
セリーナがぽつりと呟くと、エマはそっと頷いた。
「ええ。……でも、本当の意味で終わらせるには、これからです」
「これから?」
「この日記……セリーヌ様の想いが残っている。誰かが彼女のことを知り、向き合ってあげなければ。そうしないと、“なかったこと”にされてしまう気がするんです」
セリーナはしばらく黙っていたが、やがてそっと日記を胸に抱きしめた。
「私が、やるわ。妹としてではなく、一人の人間として。私がこの手で、彼女の居場所を取り戻す」
エマは微笑み、彼女の肩にそっと手を添えた。
「……きっと、喜んでいますよ。セリーヌ様」
部屋の奥に佇む姿見は、今はただ、ふたりの姿を静かに映しているだけだった。




