44 閑話 オードリー夫人の日常
午後の陽光が、庭のバラの花弁にやさしく注ぐ。
ローズベリー伯爵家の屋敷は今日も静かで、屋内の空気は紅茶のように温かく、甘い安らぎを湛えていた。
『まぁまぁ、今日も退屈で――』
ふわりと舞うように現れたのは、オードリー夫人。
透き通る桃色のドレス、光沢のある靴、指には幻のような宝石の指輪。まるで舞踏会の途中で抜け出してきたかのような、優雅な亡霊だった。
彼女はお気に入りの長椅子に腰を下ろし、誰もいない応接間で語りかける。
『エマったら、お出かけだなんて。せっかく昨日アドバイスした新しいヘアスタイル、使ってくれたかしら? ええ、絶対似合うはずなのよ、あの子には少し冒険が必要ですもの!』
カップもポットも存在しないのに、そこには確かに紅茶の香りが漂っていた。
霊の作る幻のティータイム。しかし、その幻想の空間が、ふと微かなざわめきとともに揺れる。
「……?」
オードリー夫人がわずかに視線を上げたその時――
屋敷の門扉が開き、エマ・ローズベリーが帰ってきた。優雅な足取りで庭を抜け、玄関に向かう。
『まぁ! 帰ってきましたわね!』
夫人はぱっと表情を明るくし、扉の前へと浮かぶように向かう。
『エマ、おかえりなさいませ! 今日のドレス、素敵ですこと! わたくしのおすすめより地味だけれど、それはそれで控えめな魅力がありますわ! それで? テイラーさんのところでは何か新作の――』
エマは笑顔で「ただいま」と答え、侍女のサラと共に廊下の奥へと消えていく。
が、その後ろから――何か、黒いものが、粘つくような気配と共に屋敷の敷居を越えようとしていた。
オードリー夫人の笑顔が一瞬だけ静かに消えた。
(……まぁ。今日の“お土産”はちょっと悪趣味ですこと)
濁った影。怨念。歪んだ顔。地縛の念が濃く、狂気と未練が絡み合っていた。
『ここは、貴方のような者が来ていい場所ではなくってよ』
その一言と共に、空気が変わる。
温かな午後の陽射しは掻き消され、空気が張りつめた。
まるでサロンの一角だけが深い深い海の底に沈んだかのような、重く冷たい気配が満ちる。
『無遠慮に入り込んで……失礼にも程があるわね。貴方のような下等霊が、ローズベリー家の敷居を跨ぐなど、身の程をわきまえなさいな。』
手のひらをかざし、オードリー夫人は微笑んだ。
『名もなきものよ。霧へと還りなさい――跡形もなく。』
声が静かに響くと同時に、空間が軋んだ。
霊気が裂け、闇の影が悲鳴をあげる。見る間に形を失い、音もなく、霧のように消えていった。
……静寂が戻る。
『ふぅ。まったく、ああいうのは困りますわ。帽子のひとつも被らず、礼も挨拶もなく……最低限の教養くらい持って来世で出直してきなさいな』
夫人はふたたび笑顔に戻り、ふわりとスカートの裾を整える。
ちょうどその頃、奥の廊下ではエマがサラと笑いながら話していた。
「パン屋さんでね、子どもに手を引かれてるおじいさんがいて――」
その笑顔を見て、オードリー夫人は心の中でそっと呟く。
(エマ、貴女は知らなくてもいいこと。わたくしが全部、片づけておきますわ)
紅茶の香りがふたたび広がる。
応接間へ戻りながら、オードリー夫人はおしゃべりを再開した。
『それにしても、デビュタントに履く靴、そろそろ決めないといけませんわね? 音がしすぎるのは下品だけれど、音がまったくしないのもつまらない。踊るたびに“軽やかに鳴る”靴、そう、それがいいのですわ!』
今日も彼女は優雅に、気ままに浮かんでいるのだった。




