04 怪しい青年
「……ママは、どこに行っちゃったの?」
少女の涙に濡れた瞳が、エマをじっと見つめる。
エマはそっと少女の肩に触れ、ゆっくりと頷いた。
(もしあの声の主がこの子の母親のものだとしたら)
この子の母親はもう、この世にはいない。
だが、そのことを今ここで少女に伝えるべきではない。
エマは優しく微笑み、言った。
「あなたのママが、あなたを心配してるの。だから、私にここへ来るようにって……」
少女は目を丸くする。
「……ママが……?」
エマは静かに頷いた。
「ねぇ、一緒にここを出ましょう? こんなところにずっといたら、ママがもっと心配しちゃうわ」
少女は少しの間、考えるように俯いた。
だが、すぐに首を横に振る。
「……ダメ。だって、ママが帰ってくるかもしれないもん……」
(やっぱり簡単には納得しないか……)
エマが次の言葉を探そうとした、その時。
――ギィ……
静まり返った屋敷の中で、床板が軋む音が響いた。
(……誰か、いる……!?)
エマは咄嗟に少女を抱き寄せる。
音の方へ視線を向けると、奥の廊下からひとりの青年が現れた。
簡素だが小綺麗な服装。そして整った顔立ち。
その佇まいには、ただの庶民ではない何かを感じさせる。
青年はエマと少女を見て、一瞬驚いたように目を見開いた。
「……ここで何をしている」
エマは警戒しながらも、冷静に問い返す。
「あなたこそ、ここで何を?」
青年は一瞬考え込むような素振りを見せたが、すぐに口を開いた。
「市民から苦情が出ていて、その調査だ」
エマは青年の言葉を疑わしげに聞いた。
「市民からの苦情……? この屋敷に?」
確かに幽霊騒ぎの噂は市場で聞いたが、それを公式に調査するような立場の人間が来るとは考えにくい。
青年は僅かに目を細め、エマを見つめる。
「君こそ、どうしてこんなところにいる?」
エマは一瞬、答えを迷ったが、嘘をつく必要もないと判断した。
「……この子を迎えに来たの」
エマの腕の中で、少女が青年をじっと見つめている。
「あなたは……お城の人?」
少女のかすれた声に、青年の表情がわずかに動いた。
「なぜそう思う?」
少女は怯えたようにエマの服の裾を握りしめながら、迷うように口を開いた。
「……ママが……言ってた……」
「なんて?」
「お城の人が、この家をよく思ってないって……だから、気をつけなさいって……」
かすれた声で告げた少女の言葉に、エマの胸がざわめいた。
(お城の人……つまり、王宮関係者がこの屋敷を問題視していた? どういうこと……?)
青年はしばらく考えるように沈黙した後、小さく息をついた。
「……とにかく、ここに長くいるのは危険だ。君たちをここから出す」
「待って」
エマは少女を抱きしめながら、青年をまっすぐ見据えた。
「何か知っているのなら教えてほしい。この屋敷で何があったの?」
青年はしばらく考えるように沈黙した。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……ここはもう、誰も住んでいないはずの場所だ。だが、最近になって人影を見たという噂が広まっている」
「幽霊騒ぎのこと?」
「そうだ。だが、それだけじゃない」
エマが問い返すと、青年は一瞬ためらうように目を伏せた。
「……詳しくは言えない。だが、ここに近づかない方がいい」
「どうして?」
「それは……とにかく危険だからだ」
言い淀んだ青年の表情には、どこか迷いがあった。
(何かを隠している……?)
エマがさらに問い詰めようとしたその時――
――ギィ……
屋敷の奥から、微かに軋む音がした。
三人の間に緊張が走る。
「……誰か、いる?」
エマが小声で尋ねると、青年は素早く周囲に目を走らせた。
「……いや、分からない。だが、ここに長居すべきじゃない」
エマは腕の中の少女を見下ろす。
彼女の小さな体は、まだ震えていた。
(この子を、ここに置いておくわけにはいかない)
「……分かった。まずはこの子を安全な場所に連れていくわ」
そう決めた途端、エマの背後でまた――
バタンッ!
突然、奥の扉が閉まった。
エマは思わず息をのむ。
青年も鋭く視線を向ける。
「……やっぱり、何かいるな」
彼の言葉には、先ほどまでとは違う、確信めいた響きがあった。
エマは少女を抱きしめながら、ゆっくりと息を整えた。
屋敷の中に漂う、異様な静けさ。
まるで、見えない“何か”がこちらを見つめているような――そんな錯覚さえ覚える。
(やっぱり……この屋敷には、まだ“何か”がある)
真相は、まだ闇の中にあった。