39 王宮の図書室
翌朝、エマはスケッチブックをバッグに忍ばせ、馬車で王宮の図書室を訪れた。
この図書室は王族や高官だけでなく、特別な許可を得た貴族にも開放されており、王国の歴史、魔術、芸術に関する一級の文献が所蔵されている。エマは閲覧許可証を提示し、貴族家系に関わる画家の記録を探し始めた。特に、“D・L家”の名を含む資料を重点的に調べていく。
やがて、棚の隅に革張りの重厚な記録帳が目に留まった。
『王国肖像画師ギルド・記録集 第四巻』
(“D・L家”…やっぱり、“ド・ラ・ヴァール家”のことだわ)
エマは息を詰めながら該当のページを開いた。
「D・L家令嬢セリーヌの肖像画制作において、画家エリオット・マールは依頼を辞退。理由は“不可解な現象により、顔の描写が繰り返し失敗するため”。以後、当人の肖像画は制作中止となり、画家は職を辞した。」
その下には、エリオットによる走り書きのようなメモも引用されていた。
「目を描こうとすると、筆が止まる。輪郭をなぞると、絵具が弾かれる。まるで、彼女の存在自体が――“描かれること”を拒んでいるかのようだった。」
(セリーヌ……セリーナではなく? けれど、“ド・ラ・ヴァール家の令嬢”なのは間違いない……)
エマはスケッチブックに描かれた女性の服装に目を移した。今の流行とは異なる、十数年前の様式だった。
(もしかして、セリーナ様には……姉妹がいた?)
そのとき、背後から静かな声がした。
「……ローズベリー嬢?」
振り返ると、そこにはマリアンヌが立っていた。意外そうに、けれどどこかじっとりとした目でエマを見ている。
「こんなところでお会いするなんて。おひとりで調べ物かしら?」
「ええ……少し、気になることがあって」
エマはとっさに本を閉じかけたが、マリアンヌの視線は既にスケッチブックの絵に注がれていた。その瞳がわずかに見開かれる。
「……その絵……見覚えがあるわ」
「ご存知なのですか?」
「ええ。昔、父の書斎で一度だけ。王宮の使用人たちが“触れてはいけない絵”だと囁いていたのを、なんとなく覚えているの。描いた画家が、精神を病んで筆を折った……とか」
マリアンヌは微笑んでみせたが、その表情はどこか引きつっていた。
「……でも、不思議ね。あなたがその絵を持っているなんて。なぜ?」
「差出人不明で、私のもとに届いたんです。昨夜のことでした」
少し間を置いて、エマは口を開いた。
「――マリアンヌ様。セリーヌ様という方をご存知ですか?」
マリアンヌの目が、わずかに揺れた。
「……その名前、どこで?」
「資料の中で見かけました。セリーナ様のご血縁の方ですか?」
マリアンヌはゆっくりと椅子に腰を下ろし、しばらく沈黙した後、ぽつりと語り始めた。
「セリーナには……姉がいたの。セリーヌという名前の。でも、ある日突然姿を消して、それきり。彼女の名も存在も――まるで最初から“なかったこと”にされたのよ」
「なかったこと、に……?」
マリアンヌはそっと唇をかんだ。そして、視線を伏せながら言葉を継ぐ。
「……あなたのデビュタントの夜、倒れたとき――夢を見たと言ったこと、覚えておいでかしら?」
その言葉に、エマは静かに頷く。
「……古くて長い廊下を歩いていて、壁にはずらりと肖像画が並んでいるの。でも、どれも顔が塗り潰されていて……その奥で、誰かが言ったの。“戻ってきたのね”って」
彼女はふと、我に返ったようにエマを見た。
「夢だなんて、馬鹿みたいだけれど……時々、ふと思い出すの。あれが本当に“ただの夢”だったのかって」
その言葉に、エマは背筋が冷えるのを感じた。
(夢ではなく、過去の亡霊が――“あの子が戻った”と、言っていたのなら……?)
「マリアンヌ様、そのセリーヌ様がもし、誰かの姿を借りて“戻ってきている”としたら……それは、誰の姿だと思いますか?」
エマは静かに問いかけた。
マリアンヌは突飛な質問に困惑したように眉をひそめたが、やがて、じっとエマを見つめて答えた。
「……そんなことが、もしあるのだとしたら――セリーナよ。“あの子”は、姉の名前を継いだの。そうすれば、すべてが帳消しになるとでも思ったのかしら」




