36 閑話 デビュタントの夜(ライオネル視点)
エマ・ローズベリー。
彼女のデビュタントの日、俺も参加することにした。
第二王子という立場ゆえに、幼い頃から策略の道具にされそうになったり、時には命を狙われたりもした。
だからこそ、社交界には極力関わらないようにしてきた。目立たず、波風を立てず、ただ静かに己の役目を果たす――それが俺のやり方だった。
だが今回は違う。ただ「彼女のことが気になる」という、それだけの理由で足を運んでいる。
しかも、部下が集めた情報にあった“当日のドレスはペールブルー”という一文を見て、無意識にロイヤルブルーの正装を選んでいた自分に気づいたとき、思わず苦笑した。
どうかしている。本当に。
***
「第二王子、ライオネル・アレクシス・グレイ殿下!」
司会の声が響くと同時に、一斉に視線が集まる。
その熱量と緊張感に慣れていないわけではないが、やはり不快なものだ。だが、それも束の間だった。
会場の隅――彼女を見つけた瞬間、世界が静止したかのようだった。
周囲のざわめきも、光も、すべてが色褪せていく。ただ、彼女だけが鮮やかにそこにいた。
薄く微笑んでいるが、瞳は笑っていない。
そしてその隣には、どこかの貴族の令息。どうやらしつこく話しかけられているらしい。
胸の奥に冷たい何かが落ちる。
自分でも驚くほどの怒りが込み上がってきた。
気づけば、俺の足は彼女のもとへと動いていた。
「――失礼。彼女は私と話があるので。」
低く落ち着いた声で、割って入る。
令息が驚いたようにこちらを見たが、俺は構わずエマに視線を向けた。
「エマ・ローズベリー嬢」
彼女の名を呼ぶと、その瞳がぴくりと揺れた。
その反応に、胸の奥がかすかに熱くなる。――覚えていてくれたのか。
「改めてご挨拶を。僕の本名は、ライオネル・アレクシス・グレイ。身分を偽っていたこと、どうかお許しを」
一瞬、彼女が息をのんだのがわかった。
その顔に、驚きと、どこか安堵のようなものが混ざっているのを見て、少しだけ肩の力が抜けた。
周囲の視線が鋭くなるのを感じる。令嬢たちの羨望と探るような視線。
だが、今はどうでもよかった。
ただ、彼女の最初の舞踏を、自分のものにしたい――そう思った。
俺は平静を装い、出来るだけ自然な所作で、手を差し出す。
「よろしければ、貴女の初舞踏の相手に、僕を選んでいただけるだろうか?」
その瞳が、今度こそ真正面から俺を見た。
そして彼女がそっと手を重ねたとき、確かに胸の奥が静かに高鳴った。
彼女に絡んでいた令息が青ざめた顔で静かに身を引く。先ほどの怒りが鎮まるのを感じる。
周囲の視線が集まる中、俺は彼女だけを見ていた。
「……はい。光栄です、殿下」
細く震えるその声に、思わず胸の奥が熱くなる。
彼女の手をそっと包み込んで、ゆっくりと唇を指先に添える。
形式だ。だが、それでも心を込めずにはいられなかった。
指先の熱――それは彼女のものか、俺のものか。
もう、どちらでもよかった。
「では、参りましょうか」
そのまま彼女を導いて、煌めく広間の中央へと歩き出す。
不安げな足取り。けれど、俺の手を頼ってくれている。それが嬉しくて、自然と口元が緩んだ。
「緊張しないで。君の足を踏むような下手ではないよ、たぶん」
わざと軽く言ってみせると、彼女が小さく笑った。
「……そこは“絶対に踏まない”って言うところじゃないんですか?」
その返しが嬉しくて、自然と目を細めた。
「生憎、今まで誰かとダンスを踊る機会がなかったものでね」
本当のことだった。
社交の場など、表向きの駆け引きばかり。心を預けられる相手など、誰もいなかった。
けれど、今は違う。
彼女と踊っているこの時間だけは、他の何にも代えがたい。
音楽が始まり、彼女をそっと抱くようにリードする。
最初は少しぎこちなく、それでも彼女の呼吸が俺に合わせて整っていくのがわかる。
この時間が永遠に続けばいいと、心から願った。
「……驚いたかい?」
囁くように尋ねれば、彼女が小さく頷いた。
「ひどいです……本当に驚いたんですから」
拗ねたような声すら、彼女は魅力的だった。
この舞踏会のざわめきの中で、彼女の声だけが真っ直ぐに響いてくる。
音楽が盛り上がりを迎え、二人はくるりと回る。
ふと見上げた彼女と、視線がぴたりと合う――その瞬間、すべてが止まったように感じた。
そして、曲が終わる。
けれど、俺は手を離さなかった。
この時間が終わるのが惜しくて、ただ彼女を見つめる。
「君とまた踊れて、嬉しいよ」
それは嘘でも気まぐれでもない。
心からの本音だった。
彼女がふいに視線を落とし、頬に淡く紅を差す。
その姿に、思わず胸が鳴った。
――ああ、やっぱりもう戻れない。
彼女の存在は、もう俺の中で「興味」などという言葉ではとても足りなかった。




