31 花咲く庭に開かれた秘密
温室の扉を開け、春の日差しに包まれながら、エマとライオネルは並んで歩き出した。
花々の香りに満たされた空間を抜け、やがて控えの馬車へと向かう。
そのときだった。
視線の端に、ふと、見覚えのない人影が映った。
古びた石畳の角に、ひとりの年配の男が立っている。
灰色の上着に、白髪まじりの髪。
片方の目尻には、小さな傷跡。
けれどその顔は、穏やかな微笑みをたたえ、遠くから親しみを込めるように、エマに会釈を送ってきた。
思わず、エマは足を止めた。
小さく会釈を返す。
「あの……あそこにいる、灰色の上着を着た優しそうな方は、どなたですか?」
ライオネルが、訝しむようにそちらを振り向く。
「……灰色の上着?」
ライオネルが繰り返す。
エマは慌てて説明を付け加えた。
「ええ。白髪で、目尻に小さな傷があって……こちらを、微笑んで見ていらっしゃいました。……王宮の方ですよね?」
ライオネルは、わずかに息を呑んだ。
表情を変えぬまま、静かに答える。
「……それは、リチャードだ」
「リチャード様……?」
「リチャード・グラント。俺がまだ子どもの頃、ずっと側にいてくれた執事だ。穏やかで、でも時には厳しく叱ってくれて……俺にとっては、家族のような存在だった」
ライオネルの声に、一瞬だけ懐かしさがにじんだ。
けれどすぐに、かすかな哀しみが重なる。
「でも――彼は、もういない。七年前に、病で亡くなったんだ」
エマは、ぱちりと瞬きをした。
「……そんな、はず……」
確かに、そこに“いた”のに。
そして――エマはその場に立ちすくんだ。
(やってしまった――)
血の気が引くのを感じた。
(バレてしまった……)
心臓が、鈍く痛んだ。
(また……だ)
胸がぎゅっと縮こまる。
(きっと、前世のときと同じ。……気味悪がられ、誰にも受け入れられず、独りになってしまう)
脳裏に、あの孤独な日々がよみがえる。
何もかも諦めて、誰にも頼れず、ただ、独りで。
(……結局、私は――誰にも受け入れられない)
怖くて、顔を上げられなかった。
両手を、無意識にぎゅっと握りしめる。
だけど。
ライオネルの声は、そんなエマの震える肩を、そっと包み込んだ。
「……怖がらなくていい」
その声音には、責めも、疑いも、恐れもなかった。
ただ、静かに、優しさだけがにじんでいた。
エマは、恐る恐る顔を上げた。
春の風が、小さな花びらを巻き上げる。
光の粒子が、二人の間をふわりと漂った。
ライオネルはまっすぐにエマを見つめ、微笑んだ。
「君には、俺たちには見えないものが見えるんだろう?」
ライオネルは言葉を続ける。
「……屋敷でも、君は何度か、不思議な場所に目を向けていた。誰もいない空間に、まるで誰かがいるかのように」
エマは息を呑んだ。
「それに……何も聞こえないのに、君だけが応えるように立ち止まって、耳を傾けていたこともあっただろう?」
ライオネルはやわらかく笑みを浮かべる。
「今日、君がリチャードのことを言い当てたとき、確信したんだ。君には、本当に――俺には見えないものが、見えているんだって」
ライオネルは、そっとエマの肩に手を置いた。
優しく、だが確かに支えるように。
「……これからも、隠さなくていい」
エマは目を瞬かせた。
「え……?」
小さな声が、自然に漏れる。
ライオネルは、静かに微笑む。
「君が見ているものを、俺は見ることはできないかもしれない。けれど――」
ライオネルは、そっと手を握るようにして言葉を続ける。
「君が信じるものを、俺も一緒に信じたい」
春の風がまた、花びらをひとひら、二人の間に運んできた。
エマは唇を震わせる。
信じたい。でも、怖い。
怖い。でも、信じたい――そんな、痛いほどの想いが胸に広がった。
ライオネルは、そんなエマの心を見透かすように、やわらかく言葉を重ねた。
「君の力も、君自身も――俺は、絶対に否定したりしない」
その声は、まるで誓いのようだった。
エマは胸を押さえた。
その手のひらに、あたたかいものが流れ込むようだった。
――怖れた孤独ではない。
――見捨てられる絶望でもない。
ただ静かに、ただそっと、
存在ごと抱きしめるような、あたたかい光が、そこにあった。
ライオネルは一歩、エマに近づいた。
「……大丈夫だ」
短く、けれどどこまでも力強い言葉だった
エマの頬に、ほろりと涙が伝った。
けれどその涙は、悲しみからではなかった。まるで心の氷が溶けていくような、あたたかいものだった。
「……ありがとう」
かすれた声で、エマはようやくそう言った。
ライオネルは、静かに頷く。
それだけで十分だった。
沈黙が、優しく二人を包む。
ほんの少しの間、世界が止まったようだった。
――けれどそれは、決して孤独な静けさではなかった。
春の花々が、そっと揺れた。
ひとひらの花びらが、エマの髪にやさしく触れた。
あの日、誰にも届かなかった孤独な心が、今、初めて誰かに届いた気がした。




