30 温室にて
王宮の門をくぐると、石畳を打つ馬車の音がやけに大きく響いた。エマは膝の上で手を組み、視線を窓の外に向ける。
(……やっぱり、場違いじゃないかしら)
豪奢な噴水を横目に、馬車が緩やかに止まる。扉が開かれると、控えの侍女が恭しく頭を下げ、エマを出迎えた。
「ローズベリー伯爵令嬢エマ様ですね。温室へご案内いたします」
エマは小さく頷き、慎重に裾を持ち上げながら馬車を降りる。春の日差しが肌に心地よいが、胸の奥の鼓動は次第に早まっていった。
王宮の奥、庭園のさらに奥に位置する温室は、貴族たちの社交の場というより、限られた者だけが訪れる静謐な空間だった。
案内の侍女に導かれてガラス張りの扉をくぐると、そこは花々の香りが立ち込める別世界。赤、白、黄色……色とりどりの花が咲き乱れ、陽光を透かした天窓が、きらめく光のカーテンを作っている。
そして――その中央に、彼はいた。
白いシャツに、金糸をあしらった濃紺の上着。軽く腕を組み、足元の草花を眺めていた青年が、エマの気配に気づいてゆっくりと振り向く。
「来てくれて、ありがとう。エマ」
一瞬、胸の奥が熱を持つ。だがエマはそれを押し隠し、深く礼をした。
「ご招待、光栄です。ライオネル殿下」
彼はやや困ったように微笑んだ。
「……そう堅く呼ばないでほしい。特に二人の時は。それに今日は、公務ではなく“個人的な話”だから」
「……個人的な、ですか」
ライオネルが促すと、二人は温室の奥に設えられたベンチへ向かった。
香り立つ花々に囲まれながら、ライオネルは真剣な面持ちで切り出す。
「先日の件――古びた屋敷で起きた一連の事件について、報告しなくてはならない」
エマは静かに耳を傾けた。
「エミリー・ウェルナーの父親……エリオット・ウェルナーは逮捕された。国家への背信、横領、そして……」
ライオネルは言葉を区切る。
「妻であるマーガレット・ウェルナー夫人の命を奪った罪でも、裁かれることになる」
エマは思わず息を呑み、胸を押さえた。
ライオネルは、そんな彼女に少し間を置いてから、続けた。
「夫人は、夫の不正に気づき、王宮に告発しようとした。しかし、それを恐れた彼に……屋敷の地下に閉じ込められた後、命を奪われた。……その後、痕跡を隠されていた」
「……そんな……」
エマは言葉を失った。
小さな少女――エミリーが、どれほど孤独の中にいたかを思い、胸が締めつけられる。
「……そして。彼女の父だけではない。背後に、もっと大きな存在がいる。……高位貴族の誰かが、資金の流れを操っていた。今回捕まえたのは、あくまで末端にすぎない」
エマはぎゅっと手を握った。
「エマ、君にこれ以上危ない橋は渡らせたくない。……でも、君が巻き込まれた以上、知っておいてほしかった」
エマは小さく息を呑んだ。
その不安を、ライオネルは逃さなかった。
彼はエマの手を、ぎゅっと強く握った。
そして……次の瞬間、
まるで感情を抑えきれなかったかのように、
エマの手を自分の額に、そっと当てた。
「……怖いなら、怖いと言ってくれ」
ライオネルは目を閉じた。
震えるように、小さく息をついた。
「……君を守りたいんだ。誰よりも」
その声は、抑えてもなお溢れるほど、真剣だった。
エマは驚きと戸惑いで動けず、ただライオネルの温もりを感じていた。
長い沈黙。
「……すまない。驚かせたな」
苦笑混じりにそう言いながら、ライオネルの手が解けていこうとする、その時――
(……あたたかい)
エマは思わず、自分でも気づかないうちに――
そっと、ライオネルの手に指を重ねた。
ほんの小さな仕草だった。
けれど、それは確かな、静かな応えだった。
ライオネルは驚いたようにエマを見た。
そして、微笑んだ。
どこか、ほっとしたように。
「エミリーは、今、安全な場所にいる。……ただ、心の傷は深い。少しでも、癒える時間を与えたいと思っている」
エマは小さくうなずいた。
ライオネルの手を、まだ離せなかった。
彼もまた、離そうとはしなかった。
「……この事件の本当の黒幕を――。慎重に、だが必ず追い詰める」
強く、静かな決意。
エマの指先に、それが伝わる。
沈黙が訪れた。
花々の香りが、二人の間に漂う。
ふと我に返ったエマは、ようやく手を離そうとした。
その瞬間、顔がぱっと熱くなるのを感じた。
(……わたし、何を……)
慌てて手を引こうとするエマに、ライオネルは優しく微笑み、一度ぎゅっと握り、そっと手を放した。
「……ありがとう」
その小さな声は、誰よりも優しかった。
エマは顔を赤らめながら、ぎこちなく会釈をした。
胸の奥が、いつまでも静かに、熱く波打っていた。




