表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/85

25 初めての温もり

「エマ嬢、そろそろ参りましょう。……マリアンヌ嬢、無理はなさらずに」


 ライオネルの声が静まり返った控え室の空気を揺らした。


「……はい。そうですね……マリアンヌ様のご負担になってもいけませんし」


 エマは小さく頷くと、そっと視線をベッドに向ける。

そこでは、ようやく落ち着きを取り戻したマリアンヌが、安らかな表情で横になっていた。


 軽く会釈をし、見守っていた医師に一礼して、エマとライオネルは静かに部屋を出る。


控え室の扉が閉まり、背後で静かな音を立てたとき、エマは小さく息を吐いた。


 胸の奥に残るのは、言葉にならないざわつきと、マリアンヌの顔にちらついた“怯え”の記憶。

 その正体はわからない。ただ、あれは決して夢の中の出来事だけではない――直感がそう告げていた。


 「……一度、頭を冷やしたほうが良さそうですね」


 横にいたライオネルが、穏やかな声で言う。


 「そうですね。……少し、外の空気を吸いませんか?」


 提案に、彼は目を細めて頷いた。


 「ご一緒しても?」


 「ええ。むしろ……ひとりだと、少し怖い気もしますから」


 それは冗談半分、でも嘘ではなかった。



━━━



 夜の庭は、静かだった。

 音もなく流れる噴水の水音と、時折揺れる木々の葉擦れだけが、世界を包んでいる。


 エマとライオネルは、言葉少なに並んで歩いた。足元の石畳がしっとりと夜露を含み、遠くに月がぼんやりと浮かんでいる。


 「……夢の話、気になりますか?」


 先に口を開いたのはライオネルだった。エマはふっと目を伏せる。


 「はい。でも、今は……無理に考えても、きっと、混乱するだけですから」


 「それも賢明な判断ですね。物事は、時に時間が整理してくれます」


 「……王子らしからぬ、のんびりしたお言葉ですね」


 軽口を返すと、ライオネルは珍しく「ふっ」と笑った。


 「侍女たちには“気難しい殿下”と呼ばれているので、少しは印象を和らげておこうかと」


 「それは……成功ですね。さっきまでの真面目な雰囲気と違って、まるで別人みたいだわ」


 エマも思わず笑っていた。その笑みが自然に出たことに、自分でも驚く。


 「あなたが笑うと、風が和らぐようですね」


 ふいに、ライオネルが囁くように言った。


 エマは一瞬、言葉の意味がわからずに彼を見つめる。けれど、彼の視線は真っ直ぐにこちらを向いていて、悪びれた様子もなかった。


 「……お上手ですね。そういう言葉、何人の令嬢に?」


 「あなたが、初めてです」


 静かで、揺るがない声だった。

 その熱に、エマの胸が、そっと揺れる。


 「……空気、冷たいですね」


 エマが誤魔化すようにそう呟くと、すぐ隣を歩いていたライオネルがふと立ち止まり、こちらを見下ろした。


 「少し、肌寒いかもしれませんね」


 彼の声は低く、穏やかだった。けれど次の瞬間、その肩にかけていた上着をするりと外すと、ためらいなくエマの肩にそっとかけてきた。


 「えっ……あ、あの……!」


 思わず声が上ずる。けれどライオネルは視線を外さず、ただ静かに言った。


 「こんなふうに誰かに上着を貸したくなったのも……初めてです」


 その言葉に、エマは何も言えなくなった。


 上着からふわりと漂う香りに、胸の奥がざわつく。甘すぎない、でも心を掻き立てるような香り。生地のぬくもりに包まれて、体より先に心が温まっていくのを感じた。


 「……ありがとうございます。でも……ライオネル様こそ、お寒くないですか?」


 そう尋ねると、彼は少しだけ微笑んだ。けれどそれは、どこかぎこちない、慣れない笑みだった。


 「平気です。僕は……鍛えてますから」


 そう言って、冗談めかすように自分の腕をぽん、と軽く叩いてみせる。


 「ほら、意外と頑丈なんですよ? 見た目よりは」


 ふっと、エマの口元に笑みが浮かぶ。


 「……意外です。そういうふうに笑ったり、冗談を言ったりするあなた」


 「……僕も意外です。こんなふうにあなたに話している自分が」


 言い終えた彼は、どこか照れたように目を逸らす。けれどエマの方も、彼の顔を見ることができなかった。視線を足元に落とし、胸の高鳴りをごまかすように息を吸い込む。


 ふと、歩幅が合っていることに気づいて、足元を見たまま少し顔が熱くなる。


 そのとき、ふいにライオネルの手の甲が、エマの指先にかすかに触れた。


 「……っ」


 互いに驚いたように手を引きかけたが、次の瞬間、ライオネルの指がそっとエマの手を軽く包んだ。強くは握らず、ただ温度を伝えるように。


 「……冷たくなってる。嫌でしたら、言ってください」


 囁くような声。けれど、拒めるはずがなかった。


 エマは小さく首を横に振る。


 それだけで、彼の手がほんの少しだけ、きゅっと強くなった。


 ――これが、夢ならどうしよう。


 そんな不安と甘さが胸に渦巻く。


 ちりり、と庭の奥で木々が揺れる音がした。


 エマは無意識に足を止めた。ライオネルもまた、同じように振り返る。


 「……今、音がしませんでしたか?」


 「ええ。……動物かもしれませんが」


 ライオネルの目が夜闇を探るように細められる。だがその表情は、一瞬だけ、ほんのわずかに険しさを含んでいた。


 けれどそれ以上、言葉にはしなかった。いまは、まだ――。


 ライオネルがそっとエマの方を向いた。


 「……もう少し、歩きましょうか」


 「……はい」


 ふたたび歩き出す。彼の手の温もりと上着の香りが、夜の冷たさを忘れさせてくれていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ