25 初めての温もり
「エマ嬢、そろそろ参りましょう。……マリアンヌ嬢、無理はなさらずに」
ライオネルの声が静まり返った控え室の空気を揺らした。
「……はい。そうですね……マリアンヌ様のご負担になってもいけませんし」
エマは小さく頷くと、そっと視線をベッドに向ける。
そこでは、ようやく落ち着きを取り戻したマリアンヌが、安らかな表情で横になっていた。
軽く会釈をし、見守っていた医師に一礼して、エマとライオネルは静かに部屋を出る。
控え室の扉が閉まり、背後で静かな音を立てたとき、エマは小さく息を吐いた。
胸の奥に残るのは、言葉にならないざわつきと、マリアンヌの顔にちらついた“怯え”の記憶。
その正体はわからない。ただ、あれは決して夢の中の出来事だけではない――直感がそう告げていた。
「……一度、頭を冷やしたほうが良さそうですね」
横にいたライオネルが、穏やかな声で言う。
「そうですね。……少し、外の空気を吸いませんか?」
提案に、彼は目を細めて頷いた。
「ご一緒しても?」
「ええ。むしろ……ひとりだと、少し怖い気もしますから」
それは冗談半分、でも嘘ではなかった。
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夜の庭は、静かだった。
音もなく流れる噴水の水音と、時折揺れる木々の葉擦れだけが、世界を包んでいる。
エマとライオネルは、言葉少なに並んで歩いた。足元の石畳がしっとりと夜露を含み、遠くに月がぼんやりと浮かんでいる。
「……夢の話、気になりますか?」
先に口を開いたのはライオネルだった。エマはふっと目を伏せる。
「はい。でも、今は……無理に考えても、きっと、混乱するだけですから」
「それも賢明な判断ですね。物事は、時に時間が整理してくれます」
「……王子らしからぬ、のんびりしたお言葉ですね」
軽口を返すと、ライオネルは珍しく「ふっ」と笑った。
「侍女たちには“気難しい殿下”と呼ばれているので、少しは印象を和らげておこうかと」
「それは……成功ですね。さっきまでの真面目な雰囲気と違って、まるで別人みたいだわ」
エマも思わず笑っていた。その笑みが自然に出たことに、自分でも驚く。
「あなたが笑うと、風が和らぐようですね」
ふいに、ライオネルが囁くように言った。
エマは一瞬、言葉の意味がわからずに彼を見つめる。けれど、彼の視線は真っ直ぐにこちらを向いていて、悪びれた様子もなかった。
「……お上手ですね。そういう言葉、何人の令嬢に?」
「あなたが、初めてです」
静かで、揺るがない声だった。
その熱に、エマの胸が、そっと揺れる。
「……空気、冷たいですね」
エマが誤魔化すようにそう呟くと、すぐ隣を歩いていたライオネルがふと立ち止まり、こちらを見下ろした。
「少し、肌寒いかもしれませんね」
彼の声は低く、穏やかだった。けれど次の瞬間、その肩にかけていた上着をするりと外すと、ためらいなくエマの肩にそっとかけてきた。
「えっ……あ、あの……!」
思わず声が上ずる。けれどライオネルは視線を外さず、ただ静かに言った。
「こんなふうに誰かに上着を貸したくなったのも……初めてです」
その言葉に、エマは何も言えなくなった。
上着からふわりと漂う香りに、胸の奥がざわつく。甘すぎない、でも心を掻き立てるような香り。生地のぬくもりに包まれて、体より先に心が温まっていくのを感じた。
「……ありがとうございます。でも……ライオネル様こそ、お寒くないですか?」
そう尋ねると、彼は少しだけ微笑んだ。けれどそれは、どこかぎこちない、慣れない笑みだった。
「平気です。僕は……鍛えてますから」
そう言って、冗談めかすように自分の腕をぽん、と軽く叩いてみせる。
「ほら、意外と頑丈なんですよ? 見た目よりは」
ふっと、エマの口元に笑みが浮かぶ。
「……意外です。そういうふうに笑ったり、冗談を言ったりするあなた」
「……僕も意外です。こんなふうにあなたに話している自分が」
言い終えた彼は、どこか照れたように目を逸らす。けれどエマの方も、彼の顔を見ることができなかった。視線を足元に落とし、胸の高鳴りをごまかすように息を吸い込む。
ふと、歩幅が合っていることに気づいて、足元を見たまま少し顔が熱くなる。
そのとき、ふいにライオネルの手の甲が、エマの指先にかすかに触れた。
「……っ」
互いに驚いたように手を引きかけたが、次の瞬間、ライオネルの指がそっとエマの手を軽く包んだ。強くは握らず、ただ温度を伝えるように。
「……冷たくなってる。嫌でしたら、言ってください」
囁くような声。けれど、拒めるはずがなかった。
エマは小さく首を横に振る。
それだけで、彼の手がほんの少しだけ、きゅっと強くなった。
――これが、夢ならどうしよう。
そんな不安と甘さが胸に渦巻く。
ちりり、と庭の奥で木々が揺れる音がした。
エマは無意識に足を止めた。ライオネルもまた、同じように振り返る。
「……今、音がしませんでしたか?」
「ええ。……動物かもしれませんが」
ライオネルの目が夜闇を探るように細められる。だがその表情は、一瞬だけ、ほんのわずかに険しさを含んでいた。
けれどそれ以上、言葉にはしなかった。いまは、まだ――。
ライオネルがそっとエマの方を向いた。
「……もう少し、歩きましょうか」
「……はい」
ふたたび歩き出す。彼の手の温もりと上着の香りが、夜の冷たさを忘れさせてくれていた。




