24 マリアンヌの夢
ひとしきり涙をぬぐったあとも、マリアンヌはどこか落ち着かない様子だった。
言葉を選ぶように何度か唇を開き、けれど結局、何も言えずに閉じてしまう。
普段の彼女ならありえない、ためらいの仕草だった。
「……少し、外の空気を吸いたいわ」
ぽつりとつぶやいたマリアンヌに、エマとライオネルが顔を見合わせる。
「医師の判断を仰ぎましょう。無理はなさらないほうが――」
ライオネルが諭すように言ったが、マリアンヌは静かに首を振った。
「大丈夫。ただ……少しだけでいいの。……このままだと、夢の中に戻ってしまいそうで……」
その言葉に、エマの胸がわずかにざわついた。
(夢の中に戻る……?)
マリアンヌは何かに怯えているように見えた。
彼女は微笑もうとしたが、すぐに視線を伏せ、わずかに肩を震わせる。
「……ごめんなさい。ほんの少し、怖い夢を見ていたの。寒くて……誰かが、呼んでいたような……でも、思い出せなくて……」
その言葉に、エマの胸がすっと冷えた。
(……誰か、が呼んでいた?)
だが、すぐに医師が穏やかな声で制した。
「マリアンヌ様、今はまだ無理をなさらないように」
「……はい」
マリアンヌはおとなしく頷き、そっと目を伏せた。
その沈黙の中で、アメリアが改めて顔を覗き込んだ。
「でも、本当に良かった……もう大丈夫だから。ね?」
「……ええ。あなたがいてくれて、安心しました」
マリアンヌの言葉に、アメリアは嬉しそうに頷く。
一方でマリアンヌはエマにちらりと視線を送り、やや意外そうに問いかけた。
「そういえば……ローズベリー嬢も、ここに?」
「はい。偶然、居合わせて……心配で付いてきてしまいました」
「そう……それはご親切に。ありがとう」
言葉こそ礼儀正しかったが、ほんのかすかな探るような色が見えた。
「……そろそろ、わたしたちは退きましょうか」
セリーナが小さく言った。
「ええ。マリアンヌ様、またのちほど、お部屋に伺いますね」
レティシアがそっと微笑み、アメリアも名残惜しそうにマリアンヌの手を握り直す。
「本当に、もう無理しないでね? 今日はもう……ゆっくり休んで」
「……ありがとう」
三人は一礼し、扉の方へと向かう。
━━━
扉が静かに閉まると、控え室の空気が一瞬、ぴんと張り詰めた。
数名の医師たちが控え室の隅で控えていたが、互いに目配せし合うと静かに距離を取り、必要以上の動きを見せないよう配慮していた。
それでもなお、室内には重い沈黙が落ちていた。
マリアンヌはソファの上で、じっと自分の手を見つめていた。白く繊細な指先を、まるで“それが本当に自分のものか”確かめるかのように。
エマはそっと隣に腰を下ろし、囁くように声をかけた。
「……少しは、落ち着かれましたか?」
「……ええ、ごめんなさい。取り乱してしまって……」
かすれた声でそう言いながら、マリアンヌはゆっくりと顔を上げた。瞳にはまだ、薄く不安の色が残っている。
「先ほど……夢を見たと、おっしゃっていましたね?」
エマの問いに、マリアンヌはわずかに頷いた。
「……でも、それが夢だったのかどうか……はっきりしないんです。あまりに生々しくて……それに、すごく冷たかった」
「冷たかった?」
ライオネルが問い返す。その声にマリアンヌは反応し、彼を一瞥した後、少し躊躇ってから口を開いた。
「……暗い廊下を、一人で歩いていました。壁には古い肖像画が並んでいて……でも、どれも顔が塗りつぶされていたんです」
エマの心臓が、小さく跳ねた。
「廊下の突き当たりに扉があって、中に入ると……誰かが立っていました。でも……顔が、なかったんです」
「顔が……なかった?」
「ええ。姿はあるのに、顔だけが空白のように消えていて……その人の声だけが響いていました。“戻ってきてしまったのね”って。はっきりと。だけど……それが誰に向けた言葉だったのか、わからなくて」
言いながら、マリアンヌは頭を抱え込むようにうつむいた。薄いドレスの布越しにもわかるほど、肩が細かく震えている。
「……わたし、何か……間違ったことをしたんじゃないかって。誰かの怒りを買ったような、そんな感覚がずっと離れなくて……」
エマはそっと手を伸ばし、マリアンヌの背に触れた。
その瞬間――
空気が、ふいに冷たくなった。
「……!」
ほんの一瞬、耳元をかすめるような息遣いが聞こえた気がして、エマははっとして辺りを見回した。部屋の端では医師たちが小声で何かを確認し合っているが、彼らの動きには異常はない。
(今の……気のせい?)
ライオネルが静かにエマを見つめていた。まるで、彼女の動揺をすでに見抜いているかのように。
(違う。今のは……)
「エマ嬢?」
その声に、エマは我に返った。ライオネルの落ち着いた声音が、現実へと引き戻す。
「……いえ、何でもありません。少し、気が張っていたのかもしれませんね」
そう言いながらも、胸の奥に残った違和感は消えなかった。
医師たちの気遣うような視線が向けられる中で、エマはただ静かに目を伏せる。
――何かが、始まろうとしている。




