02 幽霊屋敷騒動
昼下がりの街。
エマはデビュタントのための仕立て直しを終え、侍女のサラと帰り道を歩いていた。
本来なら、護衛の騎士も同行するはずだったが、今日は「市場での仕立て直しだけだから」と理由をつけて、サラだけにしてもらった。
(どうせ試着して、すぐ帰るだけだもの。護衛なんて大げさだわ)
市場での短い買い物程度なら、護衛なしでも問題ない。
それに、目立ちたくなかった。
騎士が付き添っていれば、それだけで周囲の注目を集めてしまう。
エマは前世のように好奇の目を向けられるのが恐ろしかった。
***
道端で、露天商たちが世間話をしているのが耳に入る。
「また幽霊騒ぎかい?」
「誰もいないはずなのに、人影が窓から覗いていたって話さ」
「馬鹿馬鹿しい。あそこはもう何年も空き家だろ?」
「でも、あの屋敷の主が突然消えて以来ずっと変なことばかり起こってるんだぞ」
「あんな気味の悪い屋敷にゃ誰も近づかないよ。おおかた浮浪者でも住み着いてるだろうさ」
(幽霊……?)
こんな噂、普段なら気にも留めない。
でも、今回は――
『……お願い……助けて……』
かすかに響く声が、耳元をかすめた。
今にも消え入りそうな悲鳴にも似た――しかしそれは、悲痛なほど切実な声だった。
ざわつく市場の喧騒に紛れそうなほどの小さな声。
だが、確かに “こちらに向かって” 呼びかけていた。
エマは視線を向ける。
そこには、街の外れにひっそりと佇む一軒の古びた屋敷があった。
壁には絡みつくように蔦が這い、窓は埃と雨垂れで鈍く曇っている。
まるで、人の気配を拒むかのように。
それでも――
「……?」
屋敷の二階の窓。埃まみれのガラスの向こうに、誰かが――何かが確かに、こちらを見下ろしていた。
だが、一瞬のまばたきの間に、その気配は消えてしまった。
(……確かめなきゃ)
吸い寄せられるように、エマの足が屋敷の方へと向かう。
「お嬢様どちらへ?」
(そうだった。サラが一緒だったんだわ)
「サラ、ちょっとお願いがあるの」
「はい?」
「市場の入口にあるパン屋さん、そこのクロワッサンがすごく美味しいらしいの。私とあなたの分を買ってきてくれない?」
「クロワッサン……ですか?」
「その間、私はこの先の本屋を見てるから」
「本屋に行かれるなら、私もご一緒します」
「それはダメよ!その……お昼時だから、きっとすぐに売り切れちゃうわ」
「……ですが、お1人で歩かれるのは……」
「大丈夫よ、本屋はすぐそこだもの」
エマは軽く笑ってみせた。
サラは少し考え込んだが――
「ねぇ、お願い。ずっと食べてみたかったの」
普段あまりワガママを言わないエマの追い打ちが効いたようだ。
「……分かりました。すぐに行って参ります。もし私が遅くなりましてもお嬢様は本屋でお待ちください」
そう言い残し、早足でパン屋へ向かって行った。
(あのパン屋はいつも行列が出来ているし、これでしばらくは戻ってこないわ。ごめんね、サラ……)
そしてサラの背中が完全に見えなくなった瞬間、エマは誰にも気づかれないように人混みに紛れながら、その方向へと歩き出した――。