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19 静かな悪意

二人のダンスが終わる頃には、会場の空気がすっかり変わっていた。

 拍手とささやき声の渦が広がり、好奇の視線がまっすぐエマに注がれているのを、彼女自身もひしひしと感じていた。


(……こんなに見られてるなんて……)


 胸がざわつき、心臓は落ち着く間もなく早鐘を打つ。

 ふと、自分の手がまだライオネルの手に包まれたままだと気づき、思わず彼を見上げる。

 すると彼は、当然のようにそのまま彼女を見つめ返していた。


「まだ離すつもりはないよ?」


「えっ……?」


 エマの頬に熱が昇る。

 そんな彼女を楽しむように、ライオネルは口元だけで小さく笑った。


 その瞬間――


「ローズベリー嬢、お話よろしいかしら?」


 背後から響いたのは、氷のように澄んだ、だが芯の冷たい女声だった。

 振り返ると、深紅のドレスをまとった一人の令嬢が立っていた。マリアンヌ・クラレンス。第一王子との縁談が噂される、有力公爵家の一人娘だ。


「殿下の初舞踏の相手に選ばれるなんて、驚きましたわ。貴女、今日が初めての社交界でしょう?」


 微笑みを浮かべてはいるが、その目は獲物を狙う猛禽のように鋭く冷たい。

 優雅な言葉の裏に、はっきりとした敵意が滲んでいた。


「ご挨拶が遅れました。マリアンヌ・クラレンスと申します。殿下とも旧知の仲でして」


「おや、それは僕の記憶違いかな。君とダンスを踊った覚えも、お茶の一杯も飲んだ覚えもないが」


 ライオネルの淡々とした言葉に、空気が一瞬凍る。

 マリアンヌの口元がわずかに引きつくが、すぐに平然とした微笑みへと戻った。


「まあ、殿下ったら冗談がお上手。でも、誤解を生むようなお振る舞いはお控えになったほうが――」


「“誤解”されるようなことをしていないから気にしてないよ」


 ライオネルの声は穏やかなままだが、その言葉にははっきりとした拒絶の意思が込められていた。

 その堂々たる姿に、エマは息を呑む。

 ついこの間まで“レオン”として屋敷の廊下で軽口を叩いていた彼と、まるで別人のように思えた。


 だが――


「では、殿下は……その令嬢を、特別に扱っておいでなのですか?」


 静かに、だが鋭く問うマリアンヌ。

 その一言が場の空気をさらに張りつめさせた。


 エマが何か言おうとした、その瞬間。


「“特別”か。それは僕が決めることだ。君にとやかく言われる筋合いはない」


 静かで、だが揺るぎない声だった。

 その言葉が、まるで会場に投げ込まれた石のように、波紋を広げていく。


「本当に、あのローズベリー家の令嬢?」

「まるで名前も聞かなかったのに……」

「“特別”って、どういう意味……?」


 令嬢たちのざわめきが一気に広がるのがわかる。

 それは期待、羨望、そして妬みの混ざった複雑な気配だった。


(まって……私、こんなつもりじゃ……)


 胸の奥がぎゅっと締めつけられるような感覚。

 知らない世界のど真ん中に、突然放り出されたような息苦しさが迫ってくる。


 そのとき、ライオネルがそっとエマの手を引いた。


「……舞台の上に上がった気分はどう? 慣れないなら、ちょっとだけ裏に抜け出す?」


「……はい」


 エマは小さくうなずいた。

 ライオネルは彼女を人波の隙間へと導き、控えめに扉を開ける。

 二人はそのまま、会場の喧騒を背にして、バルコニーへと出る。


 そして――

 そこでエマは“それ”を見てしまう。


 会場の片隅。誰とも言葉を交わさず、ただじっと“こちら”を見つめる黒衣の男。

 目に映るすべてに無関心なようでいて、まるでエマの存在だけを見抜いているような、静かで冷たい視線。


(……誰?)


 胸の奥に、ぞわりとしたざわめきが広がる。

 それはまるで――再び何かが動き出す前触れのようだった。

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