18 初めてのダンス
エマの視線は、差し出されたその手に釘付けになった。
あの日、たくさん見たはずの手だ。エミリーを助けた時、屋敷の廊下を並んで歩いた時も、男達から逃げた時も、この手は彼女の隣にあった――だが、今のそれは、まるで違って見えた。
あくまで自然に、だが拒むことなど許されぬような、堂々たる所作。
エマに声をかけてきたルシアンは、青ざめた顔で静かに身を引き、令嬢たちが息を呑む。
そんな中、エマは自分の心臓の音が聞こえてしまいそうで、胸の奥をぎゅっと押さえたくなる。
「……はい。光栄です、殿下」
かろうじて搾り出した声に、ライオネルは微笑を深め、エマの手を取った。
そして――その指先に、唇を添える。形式に過ぎないとわかっていても、呼吸が止まりかけた。
(レオンが……第二王子……)
脳裏に、彼と過ごした時間が一気に蘇る。あの時の言葉、表情、沈黙の意味――ようやく、全てがひとつに繋がった気がした。
「では、参りましょうか」
彼に導かれるまま、エマは足を踏み出す。
煌びやかな広間の中央――舞踏会の主役たちが踊る、まばゆい光の輪の中へ。
心臓が跳ねるように高鳴る。けれどライオネルの手はあくまで穏やかで、彼の微笑みは不思議と安心をくれた。
「緊張しないで。君の足を踏むような下手ではないよ、たぶん」
「……そこは“絶対に踏まない”って言うところじゃないんですか?」
小さく笑ったエマに、ライオネルは満足げに目を細めた。
「生憎、今まで誰かとダンスを踊る機会がなかったものでね」
ライオネルが悪戯っぽく笑う。
やがて、二人の身体が音楽に合わせてゆったりと動き出す。最初はぎこちなかったステップも、ライオネルのリードに導かれるうちに自然と息が合い、エマの緊張も徐々にほどけていく。
「……驚いたかい?」
ダンスの合間、ふっと低く囁くように彼が言った。
「もちろんです。まさか、あの“レオン”が王子だったなんて……」
「君の顔も、なかなか面白いものだったよ。目がまるくなってた」
「ひどいです……本当に驚いたんですから」
エマは頬を膨らませ、けれどどこか緩んだ笑みを浮かべていた。
気づけば、さっきまであれほど気になっていた視線の数々が、遠く思えた。
確かにまだ注目は集まっている。だが、今は目の前の彼の方が、ずっと強く彼女の世界を占めていた。
「でも……どうして黙っていたんですか?」
「第二王子は何かと複雑な立場でね。それに“王子”だと知ったら、君は僕に協力してくれなかったかもしれない。そう思った」
「……そうかもしれません。でも、私は……」
言いかけて、エマは言葉を飲み込んだ。
言ってはいけない気がしたのだ。少なくとも、今この場所では。
音楽が一度、クレッシェンドを迎える。
二人はくるりと回りながら視線を交わし、ゆるやかな旋回の中で互いの距離がほんの少しだけ縮まった。
やがて、曲が終わる。
しかしライオネルは手を離さず、そのままエマを見つめた。
「君とまた踊れて、嬉しいよ」
その一言に、エマは思わず視線を落とす。
(……私も、少しだけ……そう思ってしまった)
頬にわずかに差した紅が、舞踏会の灯にやわらかく照らされていた。




