16 社交界の洗礼
華やかな音楽が響く中、舞踏会場は優雅な喧騒に包まれていた。
幾重にも連なるシャンデリアが光を反射し、白と金の世界を照らし出す。
アナウンスの声が響いた瞬間、母・クラリッサにそっと背中を押され、エマはゆっくりと会場に足を踏み入れた。
(うわぁ……やっぱり、すごい人の数……)
目に飛び込んできた光景に、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
頬に微笑を浮かべながらも、手のひらにはじんわりと汗が滲んでいた。
(ちゃんと笑えてる?変に見えてない?)
(あぁ、もう帰りたい……)
――でも、今日ばかりは逃げられない。
エマが広間に入ると、さっそく周囲の視線が一斉に集まった。
ローズベリー伯爵家の令嬢。名は知られていても、実際に姿を見たことのある者はほとんどいない。
貴族たちの目が“新顔”を値踏みするように光る。
少しでも気配を消そうと、エマは人混みから少し離れた片隅へと移動し、静かにグラスを傾けた。
笑みを保ちながらも、肩の力は抜けず、どこか居心地の悪そうな空気を纏っていた。
――その時だった。
数人の令嬢たちが、わざとらしく彼女のすぐ近くへやってきた。
扇子で口元を隠しながらも、声のトーンはやけに明るく、明らかに“聞こえるように”話している。
「ねえ、あれがローズベリー家の令嬢?……本当にいたのねぇ。てっきり“想像上の娘”かと」
「社交の場なんて初めてでしょう? まるで迷い込んだ子鹿みたい」
「ふふ、ずっと屋敷にこもっていたそうよ。人付き合いも挨拶もできないなんて噂、あながち嘘じゃなかったのね」
「見てごらんなさいよ、あの立ち居振る舞い……お人形みたい。飾られているだけで、中身が空っぽって感じ」
「うちの弟にも近づかないように言っておかないと。何を考えているかわからない子って、怖いもの」
「“社交界の異物”って言葉、ぴったりだと思わない? お母様が言ってたわ、“そういう子は目立たずに終わるのが一番幸せ”って」
エマはグラスを置き、そっと吐息をついた。そして――ゆっくりと、令嬢たちの方を見やる。
その視線に気づいたのか、彼女たちは芝居がかった笑顔を浮かべた。
「まぁ、ローズベリー令嬢。こんな近くにいらしたなんて気づかなくて。お元気そうで何より」
「こういう場所、初めてでしょう? でも安心なさって。皆さん優しくしてくださいますわ。……“うわさ通り”でなければね?」
小さな笑い声が、わざとらしく弾ける。
エマの背筋がひたりと冷たくなる――まさにその時だった。
「まぁ、あなたがエマ・ローズベリー嬢? 写真よりずっと華奢でいらっしゃるのねぇ」
声をかけてきたのは、社交界の女王と名高いマリー・ド・ブレナン侯爵令嬢。
その存在感に、周囲の空気がさっと変わった。
「お噂はかねがね……。光栄ですわ」
オードリー夫人に教わった“目だけで微笑む技”を思い出し、エマは優雅に微笑む。
マリーとは幼い頃に少しだけ顔を合わせたことがあったが、それ以来の再会だった。
「ふぅん……そのドレス、悪くないわね。あら、でも胸元が少し寂しいかしら。わたくしだったら、もう一粒、ダイヤを足すけれど?」
(出た……これが貴族の会話……!)
「その分、私の笑顔で補おうと思いまして」
「まぁ、お上手」
マリーがくすくすと笑って去っていくと、その後ろ姿を見送るようにして周囲の視線が一斉に集まる。
小さなざわめき。さっきまでエマを侮っていた令嬢たちが、面白くなさそうに視線を逸らした。
“社交界の女王”の認めた相手に、それ以上のあてつけはできない。
――どうやら、あの返しは“合格”だったらしい。
エマはマリーの助け舟に気づいていた。
彼女は毒舌で名高いが、それは優しさを隠すための仮面だ。小さな頃に見た、あのさりげない気遣いは今も変わっていない。
ほんの少し、エマの胸に温かな光が灯った。
――たとえ小さな一歩でも、今日は確かに前に進めた気がした。




