第六話 衝突
どうしてこんなにだだっ広い部屋なのに、コイツはこんなに近くにいるんだ。
煌蘭は目を覚ますとぼんやりとした頭でそう思った。
すぐ近くに嵐瑛が座って寝息を立てている。精霊でも寝るのだな、と埒もないことを考えていると、視線を感じたのか、嵐瑛がゆっくりと目を覚ました。金緑の目が彷徨うように揺れ、煌蘭を捕らえる。
「……おはよう精霊」
「……おはよう封士」
金茶と金緑が交叉し、相手の目に映る自分の金が相殺される。純粋な常磐色をとても綺麗だと思う。
「その目……」
嵐瑛から少しも目を逸らさずに、煌蘭はポロリとこぼした。
「私にくれないか?」
「……」
これは本気か。はたまた寝ぼけているのだろうか? 目をくれとは何だ。くりぬけとでも言うのか。俺に盲者になれと? それとも単なる冗談か。そんな嵐瑛の感情が流れ込んでくるようで何だかおかしい。
「……お前のその目をくれるなら……」
嵐瑛は口走ってハッとしたように口を押さえる。多分、煌蘭ならやりかねないとでも思っているのだろう。さすがに、目をくりぬくことまではしない。
「そうか。残念だ」
本気で残念そうに言ってやると、嵐瑛は顔をヒクリと引きつらせておののいていた。本当に人間のようでおかしい。精霊とは割と長い付き合いだが、それでも、日々発見の連続だ。
胸に手を当てて若干挙動不審げに視線をさまよわせている嵐瑛にクスリと笑いかけると煌蘭は立ち上がった。
「さあ、朝食でも食いに行くか」
「お前、ここに籠もってるんじゃないのか? 出て行ったら嫌がらせとか……」
心配そうな嵐瑛を見て、煌蘭は笑みを深める。本当にこいつは。
「嫌味の十や二十、大したことなど無い。あんな有象無象気にするだけ無駄というものだ」
「有象無象って……」
言いながら肩を落とした嵐瑛が、さっさと出て行ってしまった煌蘭の後を追ってきたのを感じて、煌蘭はこっそりと忍び笑った。
* * *
どうしてこんなに馬は元気なのだろう。煌蘭の元に行くと伝えたのが行けないのだろうか。少しくらい疲れを見せてくれてもいいじゃないか。と言うか、自分が疲れたから休ませて欲しい。
何故潰れない? こんなに走っていたら、馬だって潰れるだろうに。寧ろ、今すぐ潰れてくれ。
景斗は疾駆する馬の背に跨りながら、いっそこのまま落馬したいと思っていた。
そもそも、どうしてあいつは人外なものにばかり好かれるのか。もちろん、人間にだって不思議なくらい好かれる奴ではあるが、同じくらい敵がいるのではないだろうか。
止まることを知らない馬たちは、何も食べずに走り続けている。止めようとしても止まらない。止められない。
最初は馬上でままならなかった食事にももう慣れた。今なら馬の上で書き物だってできそうだし、眠ることだってできる。
このスピードで行けば当初予定していた一週間なんてとんでもない。明後日にはもう着いてしまう。
「明後日? 四日で着くってどうなんだ……」
今度呼び出されたら、象にでものってゆっくり行こうかと、埒もないことを考えてしまうのだった。
* * *
朝食の席に現れた煌蘭と嵐瑛を見て、神官一同は一様に顔を引きつらせた。煌蘭はともかく、嵐瑛にほとんどの視線が行く。
「ほ、封士殿、先日は申し訳ないことをした」
そう頭を垂れる神官の目は、ちらちらと嵐瑛を見ている。
「ふん。偽封士め。精霊までたらし込みおったか」
一昨日の泥棒神官だ。
一昨日ずっと縛り付けられておいてまだ言うのか。
その厚顔無恥な言葉に場が凍り付く。貞がたしなめるが、発言した神官は取り合わずに煌蘭を睨み付けてきていたが、煌蘭は平然としていた。
「何を……」
前に出ようとする嵐瑛を押しとどめて、煌蘭は挑戦的に笑む。
「精霊まで、とはどういうことです?」
「お前の身分を保証したという封士もお前がたぶらかしたのであろう?」
ふん、と煌蘭は鼻を鳴らして馬鹿にしたように笑う。
「涼封士を? 私が? 神に仕えるものが、ずいぶんと下世話な詮索をするものだ」
「何だと……?」
「己の言葉、私だけでなく涼封士をも侮辱するものと言うことを心得よ」
それまでの笑みを引き。真っ直ぐに神官を見る。その声は常よりもずっと低かった。
神官達はその覇気に平伏してしまいそうな衝動に駆られながらも、下唇を噛み締めて堪えた。
「だ、だが、封士殿の旅券には何の身分も示されてなどいなかった」
「それがどうした」
それが煌蘭にとっての普通だ。旅券に身分など書いてあったことは今まで一度たりとも無い。
「そ、それで、貴殿の言を信じろと言うのも無理な話だ」
「涼封士の言葉も信じられぬか」
「その封士とて、本物かどうか」
「なるほど。ならば、その通りに伝えよう」
いつの間にか朝食の乗ったトレーを手にしていた煌蘭はクルリと踵を返す。
「そうだ、ひとつ。貞神官長には申し訳ありませんが、この精霊は私が貰い受けます」
「おい、俺は聞いていない」
今まで傍観していた嵐瑛が煌蘭の肩に手を置いた。煌蘭は軽く肩をすくめて微笑む。
「言っただろう? 鬼退治が終わったら自由にすると」
「貴様はその邪悪な精霊を野に放つと言うのかっ?」
激昂した神官が、椅子を蹴倒して立ち上がった。
それをだるそうに首を巡らしただけで見遣ると、煌蘭は鼻で笑った。
「邪悪な精霊? あなたの方がよっぽど邪悪なのではないか? 神に仕えるものよ」
カッとして頬に朱を上らせた神官は、煌蘭に向かうと手を振り上げた。
「煌蘭、いい加減にしろ」
嵐瑛は神官の腕を掴んで煌蘭を睨む。それに対して煌蘭はひょいと肩をすくめると、悠然と食堂を出て行った。
ゆったりと歩く軽やかな足音と、それを追う足音が回廊に響く。
「煌蘭、煌蘭!」
「なんだ。うるさいぞ、嵐瑛」
少し遅れて煌蘭の後を追う嵐瑛の声には、僅かにだが怒気が含まれていた。
「どうしてあんな言い方をする。わざと神官達を怒らせて楽しいか」
「別に。本当のことを言ったまでのこと。何が悪い」
「悪いとは言っていない。もっと他に言い方があるだろう? 神官どもの神経を逆撫でするようなことをわざわざ言って、お前の立場が悪くなるだけだろうが」
「知らんな」
「お前なぁ……」
ふてぶてしい態度の煌蘭に嵐瑛は思わずため息をつく。
「そんな事ばかりやっていると、友達を失くすぞ?」
「不思議と友達は多いよ」
ニヤリと笑う煌蘭に、何故か負けた気分になる。嵐瑛はわかるように舌打ちをすると、煌蘭に背を向け、逆方向へと歩き出した。
煌蘭から声が掛かることはなかった。
煌蘭に腹を立てながら、嵐瑛は廊下を進む。姿を消すこともしていないので、嵐瑛の姿を見た神官達は皆、壁に張り付くように道を開けていく。その事が、嵐瑛を更に苛々させた。イタズラの一つでも出来たら気が晴れるだろうに、首に下がる封珠がそれを阻む。
せっかく自由だというのに、これでは前の方がまだよかったのではないか。少なくとも、生命の安全は保障されていた。
今なら、神官が数に頼んで襲ってきたら一溜まりもない。神官達がその事を知るよしもないことが救いだろうか。
「どうしてあいつはあんなに自信家なんだ」
煌蘭の尊大な笑みと言葉が脳裏を過ぎる。
彼女は決して愚かではない。逆に聡明なのだろう。自分の発言が自分の立場を悪くしているのだと気付いているはずなのに、わざわざ大人達に喧嘩を売る。
チビで細くて、掴めば折れそうな形をしているくせに、バカみたいに態度がでかい。オマケに、無駄に能力ばかりあるから思い上がっているのだ。
嵐瑛が憤慨していると、急に胸にのし掛かって来るような陰湿な気を感じた。鬼が来た時とは違う、何か別のものが神殿内に満ちている。
嵐瑛は気分が悪くなった。普段なら、この程度の邪気で気分が悪くなるなど考えられないが、今は煌蘭の封珠により力が抑えられている。
嵐瑛はほとんど未知と言っていいその感覚に胸を押さえた。昨日施された封珠に偶然触れる。指先から暖かいものが広がっていくのを感じ、徐々に楽になってきた。その事に驚いて、いつの間にか握り込んでいた封珠に目を落とす。
「何で……」
「おや、そこを行くのは、嵐瑛殿、ですか?」
後ろから声がかかる。後ろを振り返ると、微笑みながら神官が立っていた。
「確か……」
「神官長の貞です。先ほどは神官が失礼しました」
「ああ、いや……俺は別に構わない。それに、あんたが謝ることでもないし、こっちこそ、煌蘭がわざわざ神経を逆撫ですることを言った」
「それこそ、あなたが謝ることではないでしょう?」
クスリと貞は笑う。その姿に、昨晩嵐瑛を恐れて顔を引きつらせていた影はない。嵐瑛は訝しげに貞を見遣った。それを正しく酌み取った貞は苦笑する。
「あなたのことは、封士様が大丈夫だとおっしゃっているのですから、大丈夫なのでしょう」
そんな頭から信じていいのか、と思わず嵐瑛は心配になってしまう。
「あの方は不思議な人ですね」
追いついた貞と肩を並べてゆっくりと歩き始める。貞が隣に並んだことで、僅かに体が楽になった気がした。彼の神に仕えるが故の神聖な気なのだろうか。煌蘭も見込みがあると言っていたのはこの神官だけだ。
「不思議? 不遜の間違いだろう?」
ははは、と貞は声を上げて笑い、そうですね、と穏やかな顔で同意する。
「けれど、あの人の言葉は良くも悪くも真っ直ぐに心に届く。だから皆腹を立てるのです。大人なのですから、子どもの戯言と、流してしまえばいいのにもかかわらずに」
「ああ、確かに」
真っ直ぐに目を見て、辛辣なまでの飾り気のない言葉を吐く。そこには一切の偽りはない。ただ真っ直ぐに心の奥に突き刺さるのだ。
「あの方は、鏡のような人です。今日の神官達とのやりとりを見てそう思いました」
「鏡?」
「善意には善意を、礼には礼を、悪意には悪意を返して相手に接する鏡。まあ、それも彼女の一面に過ぎないのでしょうけれど」
鏡などと言う生やさしいものではない。神官が放った悪意ははね返されて倍くらいにはなっていた。
「そして、真実をその目に映す」
「真実……」
貞は嵐瑛の目を見て一つ大きく頷く。
「玲封士は言っていたでしょう? 神官に向かって、あなたの心の方が邪悪だ、と」
「それは……」
思わず悪かったと口をつきそうになる。けれど、やはり自分が謝ることではないと思い、口を噤むが、眉間に皺が寄っていたようだ。貞が取りなすように言う。
「ああ、嵐瑛殿がそのような顔をなさらないでください。玲封士の言っていたことは真実でしょう」
「真実?」
訝しむように嵐瑛は貞を見た。貞は神妙な面持ちで、両手を組んでいる。
「鬼たちが来るようになってから四ヶ月。今、一部の神官達に異変が起きているのです」
「異変、とは?」
「今まで快活だったものが陰鬱になったり、穏やかだったものが怒りっぽくなったり、心優しかったものが残忍になったりと、心に魔が住み着いているとしか思えません。神殿全体にも影響が出始めていて……」
「あんたは平気なのか?」
少なくとも十年前に見た時と変わっていないように見える。
「ええ。封士様がいらっしゃるまでは私もずっと体調不良に悩まされていたのですが、あの方がいらっしゃって、この封珠を授けていただいてからは今までの体調不良が嘘のようで」
貞が取り出した封珠は、嵐瑛が見てすぐにわかるほどに清廉な気を放っていた。触れれば焼けてしまいそうなほど強い力が封じられている。空気に解けてしまいそうなほど透明な封珠は、間違いなく、煌蘭が作ったものだ。これほどの封珠はそうそう簡単には作れない。
「ですから、私は玲封士を信じているんです。彼女は本物だ。だから、あなたを邪悪じゃないと言った彼女の言葉を信じます」
「俺じゃなくて、か?」
嵐瑛は無表情の中に、僅かに苦笑を滲ませながら尋ねた。
「ええ。彼女を」
貞は悪気もなくにこりと笑う。
――もう人を殺めぬ、と言ったのは嵐瑛、お前だ。
煌蘭のその言葉を聞いた時、走り抜けたのは何よりも深い歓喜の念だった。
なんの見返りも、打算もなく、煌蘭は直接言葉にはしなかったが、嵐瑛を信じると確かに言ってくれた。邪悪な精霊と誰もが恐れた自分を、彼女は最初から恐れてはいなかった。そして、その真っ直ぐな言葉は貞の心をも動かしていた。
『煌蘭』
無性に声が聞きたくなった。呼びかければきっと、少し不機嫌な声で言うのだ。
『なんだ?』
と。違わぬ答えに嬉しくなる。
『別に。呼んだだけだ』
『用もないのに話しかけるな』
用がないわけではなかったが、声が聞きたかったなどと言えば、すぐに首が飛びそうだ。もしくは、思い切り呆れられるか。
『……外に出ないか?』
『……今、どこにいる?』
長い沈黙の後、少しだけ和らいだ声がした。
『さあ?』
適当に歩いていたので、本当に自分の居場所がわからない。
ちゃかすように返すと、また沈黙。きっと向こうでため息をついているのだろう。
『すぐ帰ってこい』
ああ、やっぱり呆れた声だ。
「貞神官長、俺はここで部屋に戻る」
「そうですか。玲封士に申し訳ありませんでしたとお伝えください」
「ああ」
貞から離れると再び澱んだ空気がまとわりつくが、もう気にならなかった。
嵐瑛のいない間に一人で朝食を終えた煌蘭は、することもなくて、封珠作成し、鬼を伏縛するための封珠に力を込めていた。
『煌蘭』
暫くすると、嵐瑛が名を呼んだ。せっかく調子よくやっていたのに、と思うと、声も自然と不機嫌なものになる。
『なんだ?』
『別に。呼んだだけだ』
『用もないのに話しかけるな』
思わず口をついて出そうになった、首を絞めるぞ、と言う言葉は仕舞って置いた。
『……外に出ないか?』
ふと、嵐瑛の様子がおかしいように思う。声が今にも泣きそうだ。不安に揺れている、と言うのだろうか。
『今どこにいる?』
『さあ?』
迷子にでもなったか? 精霊が? あり得ない。
煌蘭は、深くため息をついた。
『すぐ帰ってこい』
返事はなかったが、本当にすぐ帰ってきそうだ。煌蘭は知らず小さく笑い、封珠をしまい込むと扉の外に出て嵐瑛を待った。