第五話 制約と自由
煌蘭は早朝、目覚めていの一番に嵐瑛の前で神殿に結界を張ってしまうと、そのまま気絶するように眠ってしまった。そして、再び目を覚ましたのは、もう夕日が落ちた後だった。
「お腹すいた……」
眠り続けていたので、ほぼ丸一日何も食べていないことになる。嵐瑛は空腹を感じないが、煌蘭はそうではないようで、何か調達してこようと立ち上がった。ちょうどその時、扉の外から控えめなノック音が聞こえてきた。
「誰だ?」
「貞でございます。お食事をお持ちいたしました」
煌蘭は、やった、と嬉々として扉に向かう。無邪気な笑顔に思わず魅入ってしまった。
「解錠」
煌蘭が扉を開けると、見知った神官が一人、申し訳なさそうに俯いて立っていた。他の神官よりも高位の神官服だと判る。
「貞神官長、どうぞお入りください」
にこやかに煌蘭が神官を招き入れる。神官から夕食のトレーを嬉しそうに受け取った煌蘭は、神官が中にはいるのを見ると弾む声で「鍵縛」と言い、再び扉に鍵をかけた。
「いっただっきます!」
アレは誰だ……。
楽しそうに夕食をぱくつく煌蘭を見て嵐瑛はしばし呆然とした。あの居丈高な少女はどこへ行った。そんなに飯が好きなのか?
「申し訳ございません!」
貞と呼ばれた神官が床に額をこすりつけるほどの勢いで床に座り込んでいる煌蘭に土下座をした。嵐瑛が煌蘭に目をやると、丁度口一杯に頬張った料理をどうにか飲み込んで、頭を上げてください、と言った。
「貞神官長は悪くありません」
「いいえ。私の監督不行届です。代表して謝罪いたします」
「いえ。よくあることですし。籠城には慣れていますのでお気になさらず。それよりも、涼封士に連絡は付きましたか?」
貞はようやく頭を上げると、安心したような顔で煌蘭を見た。
「はい。一週間以内に来るので、無茶をなさらぬようにとおっしゃっていました」
一瞬沈黙が降りる。乾いた煌蘭の笑い声が虚しく部屋に響いた。
「無茶、しちゃいましたね」
いや、あれは無茶を無茶とも思っていない顔だ。嵐瑛は半眼で煌蘭を見遣る。
ちらり、ちらりと貞が自分を見ているのに気付いた嵐瑛は僅かに顔をしかめた。
「あの……封士様……彼は……?」
「嵐瑛です」
紹介された嵐瑛は思わず膝の上に着いた頬杖からずり落ちてしまった。
「いや、そうではなく……」
「鎖でグルグル巻きにしておかなくていいのかと言いたいのだろう」
嵐瑛が軽く睨むと、貞はひくりと頬を引きつらせた。その瞬間、煌蘭から威嚇するなと思念が飛んでくる。目の前では笑っているというのに、やけに剣呑な響きだった。
「安心してください。どう頑張ってもあの結界内からは出られませんし、彼自体伝わるほど邪悪でもありません」
それに、と貞に向けていた笑みを崩し真剣な面持ちになる。
「これなら外の結界が破られても、この結界をもう一枚破ることは困難ですし、その間に鬼を伏縛してしまえばいいだけのことです。そして、万が一、私が死ぬようなことがあれば、この結界は内側からしか出られないものになります。たとえ、世界が滅んだとしても、この結界だけはここに残り続けるでしょう」
貞は煌蘭の気に呑まれて喉を上下させる。
嵐瑛は煌蘭の金茶の目が強い火を灯すのを間近で見ていた。それは。煌蘭の持つ火の封珠よりも鮮やかで美しい。
嵐瑛は体中が歓喜で震えるのがわかった。こみ上げる衝動を抑え込み、笑みの浮かぶ口元に手を当てた。感情が高ぶって涙が出てきそうになる。
ああ、やっと……。
理性ではないどこか。自分ではない誰かが頭の中で喝采を上げる。
嵐瑛はともすればおかしな事を口走りそうになりそうな程昂揚した自分を隠し、煌蘭に今まで通り話しかけた。
「おい、世界が滅べば鬼も滅ぶぞ? それに、何もない世界に残されても意味がないだろう?」
フッと金色の輝きを消して元の金茶に戻ると煌蘭は自然に笑んだ。
「たとえだ。たとえ」
煌蘭は嵐瑛に向けていた視線を身体ごと呈の方へ向ける。
「ここまで強気に言っておいて何なんですが、この精霊の封印を解いても構いませんか?」
「は?」
嵐瑛と貞の声が重なる。煌蘭は曖昧に笑むと言葉を続けた。
「はっきり言ってこれだけの力を何もせずに封印して押しとどめておくのはもったいないです。外に張ってあったこれまでの結界は、確かに強い。ですが、私が今日張った結界も、それには及ばずともすぐ壊されることはないと保障できます。ですから、壊される前に、私と嵐瑛が出て鬼を退治します」
『おい、俺は聞いていないぞ』
頭の中に直接話しかける。その声が咎めるような強いものになるのを感じたが、そんなことは構わなかった。
『言っていない。今決めた。自由になれるんだ。異存ないだろう?』
煌蘭は飄々とした物言いでそのようなことを顔に出さずに音にせず告げる。
「はあ……ですが、鬼が来る前に精霊に逃げられたのでは……」
貞は怯えたように嵐瑛を見る。精霊に逃げられて封印していた事への報復を恐れているのだ。
「大丈夫。お任せください。絶対に逃がしません」
煌蘭の目に灯る自信の灯に魅せられて安心したように貞は頷いた。
* * *
猛スピードで馬を走らせていた景斗はぶるりと身震いした。
何だかこれから面倒なことになりそうな気がしてならない。
行きたくない。行きたくないが、行かなければ痛い目を見るのは火を見るよりも明らかだ。
そんな乗り手の心とは裏腹に、馬は何故か更に加速していく。鼻息も荒く、目をランランと輝かせ、手綱を握る景斗などはお構いなしにどんどん進んでいく。
道連れにした部下達の馬の足音が少し遠くに聞こえる。けれど、逃げはしまい。いや、逃げられまい。彼らもまた、煌蘭に痛い目をみせられたことのある者たちだ。彼女の関わる命に進んで反目する愚か者ではない。
ホーホーとフクロウの声が遠く低く小さくなっていくのを聞きながらただひたすらに目的地までひた走る。
ああ、月に笑われている気がするのは何故だろう……
* * *
貞が出て行った部屋で、嵐瑛は煌蘭を半分睨み付けるようにしてみていた。煌蘭はその視線を軽く流して対峙する。
重い沈黙の中、先に口を開いたのは嵐瑛だ。
「どういうつもりだ?」
「さっき言った通りだ。そこから解放してやると。嬉しくないのか? 出せ出せとうるさかっただろう」
嵐瑛の気迫のこもった声に恐れもせずサラリとかわす。その顔には余裕の笑みさえ浮かんでいる気がする。
「俺は封印が解けたら逃げるぞ」
「私は逃がさないと言ったんだ」
きらりと双方の金が光る。
「封士よ。お前が何を言おうと俺に勝てはしないぞ?」
「やってみないとわからないだろう? 精霊よ」
腕を軽く組んで見下ろす嵐瑛を煌蘭はニヤリとした笑みでもって受けて立った。
「お前は頭が切れると思ったが、他と何ら変わらんな」
「他の無能と一緒にしないで貰おうか」
立ち上る封力が強く濃く、密度を増していく。それを目の当たりにして、嵐瑛は不覚にも唾を飲み込んだ。解放された後ならともかく、今この状況ではあの封力には敵わない。
煌蘭が左掌を上に向けると、その上に煌蘭を取り巻いていた封力が収束していく。
「……言葉なしに凝玉だと?」
封士は言葉を媒介にすると聞く。そうでなければ桁外れに封力が強くかつ精神力があるもので、よほど自分の力に自信のあるものだ。
「言ったはずだ。気持ちの問題だと」
「気分の問題だとは聞いたがな」
次の瞬間にはその手の上に、嵐瑛の見たことのない形の小さな封珠と純白の組紐が乗っていた。
予想とは違ったものの出現に驚いて、煌蘭の手に乗るものを凝視する嵐瑛に煌蘭はほくそ笑む。
「玉じゃないのか?」
ポツリと嵐瑛は漏らした。
封珠とおぼしきものは、まるでよく曲がる一本の細いガラス棒を曲げて、複雑に絡み合わせたかのような形をしていた。ゆったりと絡み合ってかろうじて球体になっているが、所々隙間だらけで、いびつな球体だった。名匠が設えた精巧なガラス細工だと言っても誰も疑わないだろう。これを封珠と呼ぶのかどうかは微妙だが、他に呼び方もない。こんなものは初めて見た。
「封力は人の持つ力だ。元々形があるわけじゃない。球体である必要がどこにある」
煌蘭は封珠の隙間に純白の組紐を通した。ピンと張られた柔らかなひもが封珠の重みでたわむ。
「硬質である必要がどこにある」
「そのひもも封珠なのか?」
「ああ。滅多にやらないがな。封紐とでもしておこうか」
煌蘭が、結界を張っている封珠の一つを一瞥すると、そこから素早く光の鎖が飛び出して嵐瑛を絡め取る。
煌蘭が一歩結界の中に入ってきた。それまで強く感じることのなかった気配がより一層色濃く感じられ、背筋が震える。
「何故入ってこられる」
「私の術に私が拒まれるわけがない」
薄く笑って、煌蘭は肩をすくめる。
「詭弁だ」
嵐瑛は唸るように次げ、歯噛みした。
前はこの結界を壁にして座っていたというのに、そんなことがあるか。
「だから言っているだろう? 気合いの問題だ」
「……気持ちだろ」
唸るように嵐瑛は言う。
煌蘭が近づくと、鎖に引かれ、前のめりになった。
煌蘭は嵐瑛の首に抱きつくように封紐を掛けると、嵐瑛の目の前で紐の端と端を寄り合わせ、握り込む。ややして手を開いた時にはつなぎ目一つない一本の輪になった。
煌蘭は嵐瑛から二、三歩後退すると、満足そうに笑み、解、と何気なく呟いた。それと同時に、嵐瑛に巻き付いていた鎖も、取り囲んでいた封珠の結界も消えた。
目を瞬かせる嵐瑛をよそに、煌蘭は今まで嵐瑛の周りに結界を張っていた封珠を取り上げ、細い、細い月の光にかざす。
「ああ、綺麗な色だ」
この地の風よりも鮮やかで力強い若葉色の風が封珠の中で渦巻いている。自分のことを軽んじているとしか思えない態度に嵐瑛はきつく眉間に皺を寄せながら煌蘭に詰め寄り、その細い腕を掴んだ。
「こんなもので俺を封じられると思っているのか!」
「やってみるがいいさ」
その瞬間、強い風が吹き、嵐瑛の髪を吹き上げてはためかせる。けれど、すぐにしぼむように凪いでしまった。
「何?」
「その封珠、何のために隙間だらけにしていると思う?」
楽しんでいるような煌蘭の目とかち合い、居心地の悪くなった嵐瑛はフイ、と顔を逸らした。
「……封紐を通すため」
「それもある」
やけっぱちな気持ちで言ったのだが、微妙に当たったようだ。
「封珠一つでは確かにお前の力を留めきることはできない。もっと時間があればかなり強い封珠を作るんだがな。留めることが出来ないのなら、留めなければいい。その隙間はお前の力を全て受け流すぞ?」
「そんなことできるはずがない」
「実際にできている。自分の目を疑うか?」
「ならば、こんなものちぎって……」
「止めておけ。首が飛ぶぞ。忘れたか? それも封力でできていると言うことを」
いかにも弱そうな封紐に手をかけると、煌蘭の揶揄のない声が返ってきた。
嵐瑛は訝しげに煌蘭を見る。その瞳は思いの外真剣なものだった。
「その封紐は封珠から禁鎖の鎖を紐として具現したものだ。そう言えば、判るか?」
「まさか……」
嫌な予感に目を見開く。
「そう。私の心一つで首を落とすまで絞め続けるぞ? 無理に外そうとしても同じだ」
想像したのか、顔を真っ青にして、サッと紐から手を外した。
「悪趣味な奴め……」
「だが、大いに役立つぞ? ついでに言うと、この神殿から出ても絞まるからな。私と一緒なら神殿の外に出ても構わないが、その時は半径五キロ以上離れても絞まる」
ころころと掌の上で嵐瑛の封珠を転がす煌蘭は至極楽しそうだ。
「これのどこが自由だ」
「制約のない自由など不自由でしかないぞ?」
恨めしげに睨んでくる嵐瑛に、煌蘭はフッと相好を崩す。
「鬼退治が済めば外してやるよ」
「そうして俺はまたここに逆戻りというわけか?」
冗談じゃない。いいように使うだけ使うのか。精霊は道具ではない。
「いや? どこへなりとも行けばいい」
お前の思うところへどこへでも。それこそ風のように。
思いもよらぬ返答に、嵐瑛は目を丸くして言葉も出ない。
煌蘭はその顔を見て、困ったように笑い、掌で弄んでいた封珠をしまう。
煌蘭は残り五つの封珠も拾い集めて手甲へとしまった。
「私はもう一眠りする。その封珠を付けていればそこの扉は出入り自由だから、神殿内を好きに歩くもいいだろう。ただし、姿は消していけ。神官共が騒ぎ立てると面倒だ」
煌蘭は部屋の端により、また小さく丸まる。暫くすると寝息が聞こえてきた。
本当に寝たのか?
嵐瑛は音も立てずにゆっくりと煌蘭の元へ行く。
「風などなくとも、女一人殺すことなど容易いというのに……」
なんて無防備なのだ。今なら己の首が飛ぶ前に絞め殺すことができるだろう。首を折ることだって可能だ。
殺すことができるというのに……。
嵐瑛はそっと赤茶の髪を撫でる。
なのに一向に殺す気が起きないのは何故だろう。
自分よりも少し短いそれはサラサラとして柔らかい。
そう言えば、六百年一度として人に触れていなかったのだな、と今更ながら思った。
「もう人を殺めぬ、と言ったのは嵐瑛、お前だ」
ハッとして煌蘭の顔を見ると、輝く金茶とかち合った。背筋が粟立つ。
そう、殺せるわけがない。こんなに真っ直ぐで、その命を燃やすように生きている彼女を。
「信じるというのか? 俺の言うことを」
「お前が過去に何をしたかなどどうでもいい。何が嘘で何が真かくらい判るつもりだ」
ジワリと、胸の中にあたたかな何かが広がる。くすぐったいような何か。六百年前にもあった愛しい気持ち。
「……偽りだったら?」
声がかすれる。柄にもなく緊張していた。
「そこまでの人間だったと言うことさ」
再び寝息を立て始めた煌蘭の横に腰を下ろし、笑みを浮かべて嵐瑛もまた久々の眠りについた。