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第四話 背中合わせの距離

ごく僅かに流血シーンがあります。

お気をつけください。


 何の前触れもなく突然勢いよく開いた扉の音に驚いて、嵐瑛は柄にもなく肩を震わせた。

 なぜなら、あの扉を開けられるのは封士だけであり、その封士は戒締という苦しくも質の悪い術を使うのだ。


「ほ、封士……どうした? ここから出す気になったか?」

「ならん!」


 一喝されてしまった。どうやら相当に機嫌が悪いらしい。一体外で何があったのだろう。

 嵐瑛が様子を窺っていると、封士は内側から封珠での鍵である鍵縛を施し、扉に鍵をかけると、嵐瑛から少し離れたところで、嵐瑛に背を向けて座った。


「封士?」


 訝しげに嵐瑛が呼びかける。


「今日から仕事が終わるまでここにいさせて貰う」


 もう落ち着いたのか、僅かに怒気を含んではいるが、普通の声が返ってきた。


「はぁ?」

「その代わりと言っては何だが」


 前置きをするが嵐瑛には話の筋がよく見えない。


「拡界、散鎖、牢縛」


 ズズズ、と音を立てて封珠の輪が広がり、嵐瑛に巻き付いていた鎖が消えて、月光だけが頼りの部屋に、淡い六本の光の柱が立った。その光に僅かに目を細める。


「これは……」

「その空間内でならお前は自由だ。まあ、それを自由というのなら、の話だがな」


 自嘲気味に封士は笑う。自分でもそれが自由などとは思っていないのだろう。だが、今できるのはここまでだと言うように、片眉を下げた。その表情が、どこか印象的だった。


「どうして……」

「ただの気まぐれだ」

「ああ……でも、ありがとう」


 礼には及ばん。と封士は手を振る。

 まだ本当の自由とは言えないが、これで相当楽になった。

 嬉しくてつい笑みを浮かべていた嵐瑛を見て封士はため息をつく。嵐瑛はそれに顔を上げて僅かに首を傾げた。


「封士?」

「お前を見ていると、本当に恐ろしいのは人の心だと改めて思うよ」


 困ったような顔をして封士は嵐瑛を見ている。


「封士? 外で何かあったのか?」


 悲しんでいると、なぜだか嵐瑛は思った。そのわけを知りたくて、嵐瑛は結界ぎりぎりまで寄って封士の様子を見ようとする。封士も、嵐瑛の傍により、結界にもたれ掛かり天井を振り仰いだ。

 嵐瑛は封士と背中合わせになるように腰を下ろし、それに倣って振り仰ぐ。


 天頂にかかる皓月の白い光が眩しかった。この六百年、何度となく繰り返してきた行為。その光の優しさに、そして、背中に感じる暖かさに心の底で何かが熱を持つ。


 壊れた歯車が、ゆっくりと回り出すような気がした。


 思考に囚われて自分の中に入っていきそうになった時、ふいに封士が声を発した。


「こうらん」

「え?」


 一瞬何を言われたのか判らず、嵐瑛は聞き返す。


「玲煌蘭。私の名だ。嵐瑛。嫌われ者同士、仲良くしようじゃないか」

「玲、煌蘭……何かあったのか?」


 もう一度尋ねると、封士が身じろぎをしたのが判った。


「ちょっとした嫌がらせだな」

「は? お前は呼ばれてきたんだろう? どうしてそんなもの受ける」


 今まで見てきた封士達と言ったら、讃えられ、崇められて反り返っていた。大した力もないくせに、口ばかりが達者な能なし達だ。そいつらに嫌がらせをするのならばまだしも、煌蘭がそうだとは到底思えない。


「どうやら偽封士だと思われているようだ。ずいぶんと嫌われたな」


 自嘲気味に煌蘭が笑んだのを背中越しに感じた。だが、それよりも、煌蘭の内容の方に引っ掛かる。


「こんな術をかけられるやつが偽物だと? こんな逸材を封士連が手放して置いておくわけないだろうが」


 一介の封士ごときに自分が戒縛できるわけがない。封珠をごまかすように修繕するのとはわけが違うのだ。

 自分のことでもないのに憤慨した嵐瑛に、煌蘭は笑った。それが、自嘲でも、何か企んでいるような笑いでもないことが嵐瑛には判った。軽やかに、楽しげに、煌蘭は笑い飛ばす。


「術を見せてないからな。十九の小娘に何ができる、とでも思ってるんじゃないか?」

「目が腐ってるのか? そいつら」


 嵐瑛は呆れたように眉根に皺を寄せてコツンと結界に頭をぶつける。すると、コツンと、煌蘭も結界に頭を寄せた。丁度肩の辺りに振動が来る。


「言ってやれ、言ってやれ。だが、わからなくもないし、よくあることだから今更だがな。まあ、ここは割と普通の反応だよ。嫌味を言われる事なんてざらだ」

「そうなのか?」

「いろんな所に行くからな。今までで一番悪かったのは、人のこと娼婦か何かだと勘違いした輩がいたところかな」


 娼婦。生々しい言葉にぞくりとする。精霊である嵐瑛は、そんな言葉とは無縁の場所で生きてきた。


「……大丈夫だったか?」


 首だけ僅かに後ろを向く。表情など見えなかったが、くすぐったそうに煌蘭が笑っているのだけは感じることができた。


「もちろん」


 思わず胸をなで下ろすと、更にくすぐったそうに笑む。合わせた背中の温度が少しだけ上がった気がした。


「ここの神官達もな……信心が薄いのか、被害妄想ばかりたくましくって、半数近くが神の加護を受けていなかったよ」

「それで神官名乗ってていいのかね……」


 クスクスと煌蘭はかすかに声を上げて笑う。


「要はいればいいんだろ。神の加護があろうとなかろうと、神殿の機能を回していけるだけの人間がいれば」

「なるほど。それで、煌蘭はどうしてまだここにいるんだ?」

「ここの神官長は愚かな神官達とは違ったからな。ちゃんと私のことも信じてくれているみたいだし。鬼退治も依頼の内だしな」

「鬼退治? まさか昨日のあの?」

「そう。おそらくお前を喰いに」

「俺を?」


 嵐瑛は驚いて煌蘭の方を振り返る。離した背中が寂しいと思うのは、長い間こうして自分以外の誰かとふれあうこともなかったからだろうか。

 煌蘭も嵐瑛を振り返る。思いの外近いことに、その身を引いた。結界があると気が付いたのはその後だった。


「だからまあ、本当にどうしようもなくなったら解放してやるよ。ここから。鬼に喰われて死ぬなんてごめんだろ?」

「まったくだ」


 嵐瑛は険しい顔で腕を組む。いくら世界の滅亡を望んでいたって、己の死を望んでいたって、こんなところで死ぬなどごめんだ。それも、自分よりも遙かに劣る鬼に殺されるなどと。あの世であいつに顔向け出来ない。


「と言うことで、私はこれから精神統一のため、瞑想するから邪魔しないように」

「ええ? 唐突すぎやしないか? それ」


 立ち上がって離れていこうとする煌蘭の背に向けて言う。


「明日にはこの神殿の周りに張り巡らされた結界の外にもう一枚結界を作らなくちゃならないからな」

「……そんなことできるのか」


 いくら何でも一介の封士にそんなにでかい結界は作れないだろう。


「朝飯前」

「……煌蘭……お前本当に封位か? 封位よりもずっと……」

「封位だなんて言った覚えはないが」


 ニヤリと不敵な笑みを煌蘭は浮かべる。


「じゃあなんだ」

「玉位だ。今は」

「玉位!? それこそ嘘だろ? 一人で六人分の戒縛をしたり、滅玉したりするのにまだ玉位?」


 封士連は頭のおかしい連中になってしまったのか。もしも、この神殿の周りに一人で結界を張ることが可能なら、封位などと言う位ですら持て余す。そんな人間を未だ玉位に据えることのできるその神経が判らない。


「滅位とか封位とか名乗ると色々面倒だろ」


 ぼそりと呟かれた言葉は嵐瑛には届かなかった。


「は?」

「いや、こっちの話だ」


 嵐瑛に完全に背を向けてヒラヒラと手を振り煌蘭は離れていった。








 じっと自分を見る嵐瑛の視線を感じて、煌蘭はため息をつきたくなった。人前で術を行うこともあるので、それで集中を切らすことはないが、無言で見つめ続けられるのにいい気はしない。貞とは違い、どこか観察するようなものが混じっているので余計にだ。


「嵐瑛……言いたいことがあるなら言え」

「いや。別にないが……邪魔してないだろう?」


 そんなに見つめておいて何を言うか。


「視線が邪魔だ」

「そんな……」


 嵐瑛にそうとわかるようにわざわざ大きくため息をついて嵐瑛の方を見る。


「もういい。瞑想しようとしまいと大して変わらん」

「じゃあ何でしているんだ?」

「気分の問題だ」


 言い切った煌蘭に嵐瑛は疲れたようにガックリと肩を落とす。

 不意に嵐瑛の動きが止まった。その視線を追っていくと、嵐瑛を封じるための支柱を立てている封珠が目に入った。僅かに緑色に色づいている。元は無色透明だったから疑問に思っているのかも知れない。


「……封珠は封士の本性を映すというが誠か?」


 そう来たか。


「さあ、どうかな。毒々しい紫と言う色も見たことがあるから、私は嘘だと思っている」

「……凄い色だな、それは……」


 想像したのだろう。難しい顔をして嵐瑛は封珠を見つめている。自分でも、毒々しい紫の本性とはどんな本性だろうと思ったことがあるので、その気持ちはよく判る。


「お前の封珠は美しいな」

「何の色もない、ガラス玉のようなものだ」


 二本の指で軽くつまめるほどの小さな封珠を手甲から出す。そんなことは煌蘭にとって、息をするよりもずっと簡単なことだった。


 そっと掲げて月光に透かす。


「純度の高いクリスタル。今まで見てきたどの封珠よりも俺はそれが好きだ」


 なんの打算もない、素直な言葉に嬉しくなる。今ではそう言ってくれる人も少なくなった。


「ありがとう。私もこれを一番気に入っている。力を封じた時、他の色の混ざらぬ純粋な色を見ることができるんだ」


 煌蘭は手甲から幾つかの封珠を取り出して結界に近づき嵐瑛に見せた。


「これが、火、水、土、風、木、光だ。手を出せ」

「何を……」

「いいから」


 煌蘭は手を結界の中に入れ、戸惑っている嵐瑛の手を取ってその掌の上に封珠を乗せた。嵐瑛は何かに驚いたように目を丸くしている。どうも、封珠を見てのことではない。その視線の先にある自分の手を追って、納得した。


 なぜ、結界の中に手を入れられるのかと問いたいのだろう。だが、煌蘭にとって、そんなことははっきり言ってしまえば瑣末なことだった。自分の張った結界に、何故自分が入れないかと言うことの方が謎だ。ほとんどの封士は自分の結界だろうと煌蘭のように自由に出入りすることはできないのだが、煌蘭にはそちらの方がよく判らない。


「中を覗いてみろ」


 嵐瑛の驚きをよそにイタズラ前の子どもの顔で笑う。嵐瑛は言われるまま、首を傾げながら火の封珠を覗いた。煌蘭もギリギリまで顔を近付けて一緒に封珠を覗く。

 封珠の中では小さな炎がほのかに赤く色づいて、柔らかな光を放っている。


「あ……」

「どうだ? 凄いだろう?」


 封珠の中で火が赤々と燃えている。通常、封珠の中に力を封印する時には、単に属性を伴っただけのエネルギーを封じるので、封士の封力と勝手に混ざり合ってしまう。だから、火を封じると言ったら玉が赤く染まるだけなのだ。これが形あるものの封縛となると本当に形のまま封じることになるのだが、煌蘭の封珠は形のない火や水や風や光も同様に封じている。


「普通に素縛すると封力と混ざり合ってしまうから、解の時に力が三分の二に減ってしまうんだ。残りの三分の一は封珠に残ったままになってしまう。だが、これなら、精霊の祝福と同様、封じた時のままで力を使える」

「凄いな……今の封士はこんな事もできるのか?」


 嵐瑛の言葉に得意になって話していた煌蘭は少し不機嫌そうに眉根を寄せた。


「これは私が研究して編み出したんだ。他は知らん」


 返せ、と手を出すと、嵐瑛は思いの外あっさりと煌蘭に封珠を返した。そして、考えるように顎に手を当てると煌蘭が封珠をしまうのを見ていた。


「そうだな……ここ数十年、俺を戒縛し直す奴の質、落ちていたしな。ひびを表面だけ撫でるように薄皮一枚張って直したと豪語するが、全く治ってないし、やることだけは大げさで、何度も本当に封士なのか? と思っていたんだ」

「ここに来る前に調べたが、ここ百年ほど派遣された者は皆、縛位の者ばかりだった。それ以前はほとんど玉位以上だったんだが……」


 縛と玉の位には天と地ほどの差がある。

 縛位には縛術の素縛を習得していればなることができる。解から操、縛へと昇位するのは簡単だ。解術や操術は基礎で覚えることも少ない。けれど、縛術はそれこそたくさんの基礎術があり、様々な縛術を覚えなければいけない。それに応用を加えると、玉位以上の者でもその全てを理解して習得している者は少ない。同じような術でも、微妙に効果が違っていたりするのだ。


 縛術の基礎ができるようになれば、封珠を作るための訓練を受けることができる。けれど、この基礎術を習得することを途中で挫折してしまう者は決して少ないとは言えない。封珠を一つでも作ることができれば玉位に上がることができるのだが、そこまでたどり着ける人材が少ないのが現状だ。


「じゃあ、煌蘭はどうしてここへ来た。玉位なんだろ?」

「……あまりにもお前の声がうるさかったから滅玉してやろうと思ったんだ」

「は? 嘘だろう?」


 嵐瑛は訝しげに眉を顰めて煌蘭を疑う。


「本当だ。神官長に伏封しなくていいと言われたから何もしていないだけだ」

「……つまり、許可が下りればいつでもやると?」

「そう言うことだ」


 嵐瑛が驚愕して目を零れそうなくらいに見開く。せっかくの美形が台無しだ。


「ふ……」


 その顔があまりにも滑稽で、突然煌蘭は吹き出し、腹を抱えて笑い始めた。

 これのどこが邪悪な精霊だというのだろう。精霊だというのにあまりにも人間くさいではないか。外で人の足を引っ張ろうとしている神官共何かよりもずっと信じることができる。

 ひとしきり笑うと、目元の涙を拭いながら、息も絶え絶えに煌蘭は嵐瑛に向き直った。


「す、すまない……あ、あまりにも、間抜け面だったから……」

「……それは謝っているのか? 喧嘩売ってるのか?」


 未だ肩を振るわしている煌蘭を嵐瑛は半眼で見下ろした。


「悪い、悪い。だが安心しろ。今はお前を伏封するつもりも、滅玉するつもりもない」

「本当だろうな?」


 訝しむ嵐瑛に煌蘭は不敵な笑みを返した。


「ああ。気が変わらなければな」


 嵐瑛は何か言いたげに息を吸い込むと、それをそのまま音にすることなくため息をついた。こうやって、少し諦めたようにため息をつかれるのは好きではない。そう言えば、景斗も良くこうしてため息をつく。その度にどついてやりたくなる。どうして何かする度にいちいちため息を吐かれなければならないんだ。言いたいことがあれば言えばいいのに、何も言う前から諦められるのは腹が立つ。










 唐突に、煌蘭は黙り込んでしまった。なにやら不服そうな顔をして俯いている。嵐瑛は、一体どうしたのかと、声を掛けようか迷った。やぶ蛇になる可能性をひしひしと感じていたからだ。何に対するやぶ蛇なのかは判らないが。


「そうだ」


 唐突に声を上げたので、嵐瑛は少し驚いて煌蘭のことを見返した。その顔には、先ほどの不満げな表情は消えている。


「どうした? 何かまずいことでもあったのか」


 いいや。違うよ、と煌蘭は笑って手を振った。


「最近少し日にちの感覚がなくて忘れていたんだが、実は今日誕生日なんだ」


 誕生日、と言われて一瞬何のことだか判らなかったのは、精霊にはそう言う概念がないからだ。生まれた日などいちいち数えるような物好きは少ない


「……は? 誰の」

「私のに決まっているだろう? 祝え」


 祝えと言われても、と嵐瑛はとまどう。だが、目をキラキラさせて何か待っている煌蘭にとりあえず、この場に一番相応しい言葉を言うことにした。


「おめでとう……?」


 満面の笑みを浮かべた煌蘭は嬉しそうな声でありがとうという。昨日出会ったばかりの精霊に言われて嬉しいものだろうか。


「……今日はいつだ?」


 最近、と言うよりも、生まれた時から日付の感覚などない。季節の感覚ならあるが。


「今日は四月十五日だ」

「二十歳?」

「いや。十九だ」


 なるほど、昨日十九と言ったのは一日前倒して言ったことになる。


「……随分嬉しそうだな」

「嬉しいさ。今日まで生きて来られたことを全てに感謝したい気分だ」


 何を大げさな。誕生日など、特別な日ではないではないかと嵐瑛は思う。

 所詮、精霊に誕生日など存在しない。生まれた季節は認識出来ても、細かく何日までとは把握出来ていないのが普通だ。気付いた時にはここにあった。それが精霊のあり方だ。


「家族には祝って貰わないのか?」

「まあ、封士連にいたら祝ってくれただろうな」


 祝われないのは当然か。煌蘭の体は一つしかないのだし。ここにいるんだから祝われないだろう。


「……寂しくないか?」


 ふいにもたげた疑問をそのまま口に出して嵐瑛はハッとして口を押さえた。そんなこと、俺が聞くようなことじゃない。けれど、煌蘭は全く意に介さないように返してきた。


「ん? 別に平気だ。それに、全く忘れ去られたわけでもないし」

「は?」

「お前が祝ってくれただろう?」


 しばし呆然とした嵐瑛は数度目をぱちぱちとさせて、その意味を理解すると、カッと頬に朱を登らせて立ち上がった。


「お、お前が祝えって言ったんだろ!?」

「まさか素直に祝うとは思わなかったんだよ」


 ケタケタと笑い出す。先ほどの満面の笑みは、この笑いがこみ上げた結果か。と遅ればせながら嵐瑛は気が付いた。


「……煌蘭、そろそろ眠らなくていいのか? 明日に響くぞ?」


 若干不機嫌に、そっぽを向いて嵐瑛は言う。煌蘭は目尻に溜まった涙を軽く拭いながら頷いた。


「ああ、そうだな。嵐瑛、もう少ししたら外が騒がしくなるかもしれないが、気にするな。私は自分で起きるから、今朝のような起こし方はするなよ? 戒締するぞ?」


 そういって煌蘭は少し離れた場所に丸くなると、五分もしないうちに寝息を立て始めた。


「全く。黙ってればそれなりなのに」


 あどけない寝顔を遠くから見て、あぐらの上に頬杖を付くと、嵐瑛は呆れたように笑った。



 数時間後、俄に扉の外が騒がしくなったことで嵐瑛は目を覚ました。どうやら、珍しく眠っていたらしい。鎖が無くなってからと言うもの、封印内はとても過ごしやすかったので眠ってしまったのだろう。

 嵐瑛はサッと煌蘭に視線をやる。よっぽど疲れていたのだろう。目を覚ます気配はない。それでもガタガタとなる扉の音は耳障りだった。


 嵐瑛は小さく舌打ちをする。これではいくら何でも目を覚ましてしまう。

 そんな心配もよそに、激しくなる騒音も罵声も気にせずに、煌蘭は身動き一つせず眠ったままだった。









     *            *             *








 ジュルジュルと何かをすする音が森に響く。雲に遮られていた月光が辺りを照らすと、口を血で真っ赤に染めた五体の鬼が同胞の体をすすっていた。


 それを見ている女も顔色一つ変えずに、スッと近づくと、細く白い指先で鬼の口に付いた血をすくい上げ、口に含む。口の中に広がる鉄臭さに酔いしれながら凄絶に笑んだ。


 鬼は女に触れようと手を伸ばす。軽やかな足取りでその手を躱した女は鬼を魅了する蠱惑的な笑みを浮かべる。


「もっと。もっと強くなって。あの結界を壊すのよ。あの忌々しい結界を」


 再び雲が月を隠すと、そこは何も見えない闇に転じた。


 鬼の咆吼が森に響き渡る。


 森に住む動物たちは瘴気を感じない安全な場所に避難していたが、その凄絶な咆吼に身をすくめた。










 翌日、朝靄もまだ晴れぬ早朝に、神殿で変化が起きた。今まで中に封印された精霊の力でもって張り巡らされていた結界の周りに、この土地の風の力の結界が張り巡らされた。


 精霊の霊力の漏れるような結界とは違い、邪悪なものは何も入れぬように施された清廉な結界だ。


 この地に棲む動物たちはその変化を本能で感じ取り、救いを求めて、ゆっくりと移動を開始した。




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