第十三話 顛末
その日、縛部は騒然となった。あの、ほぼ伝説となっている瓏老師がやってくるというのだ。何の用かはわからないが、とにかく一大事だ。連絡を受けてから、てんやわんやの大騒ぎで、収拾がつかない。
縛部部長、限少架も慌てふためいて瓏老師を出迎える準備をした。
「瓏老師のお出ましです!」
仕官の一人が、声を張り上げて扉を開ける。
黒づくめの小柄な人物と、封士ではない長身の青年が入ってきた。
「これは瓏老師。ご用がおありならこちらから参りましたのに」
限が揉み手をして老師に近づく。老師はそれをフードの下からちらりと見ると、すぐに部内を見渡した。
「閉封士はいるか?」
若く、低めの凛とした声が聞こえてきたので、縛部の面々はわずかに動揺する。
瓏老師は老人ではなかったのか?
「おりますが……閉封士ここへ」
顔面を蒼白にさせて、男が一人、前に進み出る。細面で、幸の薄そうな顔だ。その目は老師ではなく、後ろの青年に注がれていた。
「この顔を覚えているか?」
老師は青年に向かって少し体をよじって問う。
「ああ。十年前、確かに見た顔だ」
青年が男を睨むと、閉は小さく悲鳴を上げた。
「閉封士、己は十年前、この精霊を封印しているテルト神殿に、封珠の修理に行ったな?」
閉は小さく顎を引く。
「けれど、修理は敵わなかった。そうだな?」
「は……はい……」
「それにも関わらず、修理は成功したと偽った」
「……」
閉の顔色が蒼白を通り越して真っ白になっていく。
「その帰り、一人の子どもがお前のことを追っていき、この精霊を解放しろと言った。けれど、お前は取り合わなかった。ここまでは相違ないな? そのあと、お前は何をした」
老師の声が一段と低くなる。
「な、何もしておりません」
老師はつまらなさそうに鼻を鳴らす。
「鬼に遭遇したと聞いたが?」
閉は、掌に掻いた汗を握り込んだ。そんなことを知っているはずがない。第一、証拠がない。
「そのような事実はありません」
「ならば、私が会ったあの娘が偽りを言ったとでも?」
抑揚のない声で老師は言う。
「生きて……っ」
思わず口走り、パッと口を覆う。
その反応に、老師の唇が弓なりに弧を描いた。
「ああ。お前が、森に置き去りにして逃げた子どもは生きていた。鬼の中で、心を闇に染め、鬼になり果てようとしながら」
「う、嘘だ! オレは鬼になど会っていない! 子どもなど知らぬ!」
閉がつばを飛ばしながら怒鳴る。それに老師はフードの下で眉をひそめた。
「口を改めよ、閉封士」
「だ、誰かの陰謀だ! オレをはめようとしている!」
「お前なぞ陥れて誰に何の得がある。己の分をわきまえよ」
あきれたように、老師は言った。
錯乱状態になった閉は、老師を指さしてわめき散らす。
「お、お前とて本物の瓏老師かわからぬわ! 彼の人が顔を見せぬのをいいことに、その名を騙っているのではないか!? どうだ、違うというのならその顔を見せてみろ!?」
「なぜお前に真贋を定められねばならん。それに顔を見せたところで、私が本物かどうか、お前が判るとも思えんな」
酷薄に瓏老師は嗤う。
「だが、そんなに見たいのならいいだろう」
ふわりと、フードがはずされる。いったん伏せられた、老師の目が閉を射抜く。金茶の瞳に見据えられ閉は更に恐慌状態に陥ってしまった。
「こ、こんな小娘が瓏老師だと? 我々を馬鹿にするのも大概にしろ!」
「口を慎め。閉封士」
ひやりとした視線と声が、閉に叩き付けられる。周りで見ている人の中には、その覇気に当てられて倒れるものが出た。閉もできることなら気を失いたかったが、金に輝く瞳がそれを許さない。
息ができない。妙な汗が流れ落ちる。
「拘縛」
いつの間にか老師の手に乗っていた封珠の中から、細い鎖が幾本も出てきて閉を拘束する。
「ろ、瓏老師! 人に向けての戒縛は……」
禁じられている、という限の言葉を遮って老師が声を上げた。
「これは対人間用の縛術だ。戒縛とは少し違う。後二年もすれば、縛術の応用として採用させる」
軽く睨まれて限は身を縮める。清廉過ぎる気は、刺すように痛かった。
間違いない。この人が瓏老師だ。この力は封位上級封士よりも、長老会の老封士達よりも更に上。桁外れに違っている。
「閉封士。ここに鬼を封じた封珠がある」
老師は手の上に拳大の封珠を乗せてにやりと笑う。
「解」
「瓏老師、何を!?」
限が悲鳴のような声を上げた。
光とともに戒縛されたままの鬼が現れた。背は天井よりも尚高く、窮屈そうに身をかがめる。忌々しげに辺りを見回し、大人の腕ほどもありそうな鎖に抵抗していた。
「この鬼は、お前が見捨てた少女と共にいた。これが、お前が見捨てた少女の心の闇と知れ! 黒鬼戒解!」
戒縛が解かれると、鬼は一直線に兵に向かっていく。
周りから息をのむ音が聞こえた。何人かの解部玉位封士が戒縛をしようとするが、鬼はのびてきた鎖をことごとく引きちぎっていく。
鬼は閉をつかみあげると、にやりと笑い、その大口を開いた。
「老師! おやめください、老師!」
限は老師にすがろうとするが、精霊が立ちふさがる。鬼に喰われそうになっている閉は泡を吹きながら白目を剥き、失禁して気を失った。
「黒鬼、もういい。戻れ」
煌蘭の言葉に、落とすようにして閉を放すと、鬼は嬉しそうに煌蘭の元へと戻った。
「よし。うまいぞ。よくやった」
「やりすぎだ。あれを見ろ」
「知るか。あんな下郎」
かりかりと鬼の頭をなでながら、煌蘭は侮蔑の目で閉を睥睨する。
「ろ、瓏老師、その鬼は一体……」
限はおどおどと煌蘭に尋ねる。
「先に言った通りだ。伏封の後、調教した」
「そ、そのようなことが可能なので?」
「可能だから、こうして従っているのだろう?」
煌蘭は再び鬼を封珠に戻すと、限に向き直った。
「閉封士の階位を剥奪する。テルト神殿に謝罪しに行けと伝えろ。そこで許しが出たのなら、再び試験を受けることを許可する」
パッと、辺りを見回す。封士達は畏れてピンと背筋を伸ばした。
「お前達、縛位が与えられたかと言って慢心するな。世間ではどういわれているか知らないが、私は、玉位以上のものでなければ一人前の封士と見なさない。特に、基礎縛術のうち、素縛のみしか習得していない者は精進せよ。三ヶ月後、縛位封士全員、縛術試験を行う。少なくとも伏縛、できれば禁鎖を習得せよ。それができない者は繰位、または解位に落とす」
「そ、そんな……」
「無能の役立たずはいらぬ」
煌蘭は冷たく断じた。
「ろ、老師、たとえあなたでも、それは言い過ぎではありませんか?」
煌蘭は大人の頭ほどの封珠を持ってにっこりと笑う。次の瞬間には金の瞳をきらめかせ、全員を睨んだ。
大量の細い鎖が封珠から飛び出し、全員を拘束する。
「そんな……詞なしで!?」
煌蘭は冷ややかな目で全員を睥睨し、つまらなさそうに鼻を鳴らした。
「この位もできずに私に意見するなど一億年早い。その術は早ければ六時間で解けるだろう。己で解けた者は私の元へ来い。試験を免除、特進させてやろう。せいぜい自分の無力さを思い知るんだな」
煌蘭はフードをかぶり直し、ばさりとローブを翻して部屋から出ていってしまった。
その後、誰一人として術を解くことのできなかった、老師縛部襲撃事件は、ある一つの成語となった。『老師の鎖』これは、己の力に驕る者は必ず上のものが見ていて、(解けない鎖を解けと言う)難題を突きつけられ、己の無力さを痛感する、と言う意味である。
「……煌蘭、やり過ぎじゃないか?」
解部棟から外へと向かった煌蘭に、嵐瑛はため息をつきつつ言った。
「やり過ぎ? どこが。ヤツは一人の少女の十年間を台無しにしたんだぞ? この位なんだと言うんだ。鬼の中に少女を置き去りにし、虚偽の報告まで行った。投獄されないだけマシだ」
煌蘭は、憤慨しながらも、一仕事やったような満足げな顔をしている。
「お前が本当にここのトップなんだな」
感嘆するように漏らした声に、煌蘭は軽い笑い声を上げる。
「今更それを実感するのか?」
「今更って言ったって、俺、ここに来てまだ一週間だぞ? 実感なんて出来るわけないだろうが」
笑われたことに表情だけをムッとしたものに繕いながら嵐瑛は言う。
そうか? と煌蘭は軽く首を傾げ、大きくのびをした。
「まあ、私だって、ここに来てもう五年になるが、未だに何かの冗談なんじゃないかと思う時があるよ」
しみじみと言いながら先を歩く煌蘭の小さな背中を眺めて、嵐瑛は煌蘭の言葉に引っかかりを覚えて首を傾げた。
「ん? 景斗は、お前が老師になったのは七年前だと言っていたが?」
ああ、と振り向いて煌蘭は苦笑する。
「名目上はな。老師に就任してから二年は放浪していたから実質五年前からなんだよ」
なるほどな。と嵐瑛は頷く。
「ああ、そうだ。嵐瑛。私の執務室には来るなよ?」
「は? なんで」
煌蘭が目覚めてからここ四日、執務室に戻ることなく、煌蘭は仕事を片づけていたので、嵐瑛はその執務室がどこにあるのかすら知らない。
「うん……まあ、何となくな。いいか? 何があっても来るんじゃないぞ」
煌蘭は言葉を濁す。何だからしくないと思った。
「まあ、いいが……」
腑に落ちなかっがが、嵐瑛は頷く。これ以上食い下がったとしても最初の質問で煌蘭が答えなかったのなら、この先も答えを得られる気がしないからだ。
「煌蘭。お前は、この国をどう導く?」
急な話の転換に、煌蘭は訝しげに眉を顰めた。
「あ? なんだ藪から棒に。そんな話してたか?」
あった長椅子に適当に腰を下ろし、煌蘭は嵐瑛を見上げる。
「いいから」
「……私は為政者ではないからな。この国を導くだとか、そんな大それたことを考えてはいないよ。だが、人、精霊、魔霊、鬼、霊獣、自然……この世にある生きとし生ける物全てが、手を取って仲良く、とは言わないが、自分の居場所を追われることなく生きていける世界に出来たらいいと思う」
「何で、手を取って仲良くじゃないんだ?」
「残念だが、万人に好かれる人間など存在しないように、万物が仲良く暮らせる世界は来ないよ」
煌蘭は初夏の太陽輝く空に手をかざした。
「……なぜ」
「人間が人間である限り、人は壊すのをやめない。人と自然は相反する物だ。人は自然を殺す。自然を守りたかったら、人間が死滅するのが一番手っ取り早い方法だろうが、そうもいかん。だから、最低限互いの領分を侵さない。これが共存する手だよ」
封士はその架け橋になれればいいと思う。実際、封士の仕事の中には、新たに土地を開く時、その土地の精霊との交渉がある。交渉無しに自然の領分を侵した場合、人間には手ひどい報復が待っている。特にここ、龍国ではそれが顕著だ。
「嵐瑛。お前は、人と自然、どちらも傷つかず手を取り合っていける世界が来ると思うか?」
少し考えて、嵐瑛は煌蘭の隣に腰を下ろした。
「……来ると思っていたよ。もう、六百年も前の話だがな」
一度絶望してしまった。あの想いは、もう、戻らない。
「そっか」
煌蘭は座ったまま、両手両足を広げのびをした。その仕草が酷く幼くて嵐瑛は知らず笑みをこぼす。
瓏~老~師~……。
遠くで泣きそうな誰かの声が聞こえる。
「お。お呼びのようだ。長老に知れたかな?」
舌を出していたずらっ子のように笑う煌蘭は、ここ封士連に来てから見なかった顔で、知らず嵐瑛はその小さな頭に手を伸ばしていた。
「嵐瑛?」
「俺はここにいるから、無理するなよ?」
煌蘭は目を丸くして一瞬キョトンとすると、ふわりと笑って頷いた。
「うん。出て行きたくなったらちゃんと挨拶していけよ」
またな、といって煌蘭は駆け出す。その背中に嵐瑛は苦笑をこぼした。
「どこにも行かないって、言わなかったか?」
その声は遥か先を元気に走る煌蘭にはもう届かない。けれど、それでいい。言葉で伝わらないことは態度で示そうと嵐瑛は初夏の風吹く蒼穹に誓った。
天暦二〇二七年、煌蘭と嵐瑛の出会いは、後に唯一の老師として封士史に名を残す瓏煌蘭と、伝説の風の王の物語のほんの序章にすぎない。
これにて封縛記~緑風の誓い~ は終了します。
次回から封縛記第二章~紅水の花嫁~ の連載を開始しますので少々お待ちください。