第十話 理由
嵐瑛に抱きかかえられながら見た光景はあまりに痛々しかった。
「くそ爺! あの封士をつれてこい! 八つ裂きにして殺してやる!」
涙を流す貞の横で、女がわめいている。髪を振り乱し、まさに鬼の形相だ。貞はこの女が自分の娘だといっていた。この三日間、一体どんな気持ちでそばにいたのだろう。
「貞神官長」
横抱きにされたまま、煌蘭は憔悴しきった貞を見下ろす。
「嵐瑛、降ろしてくれ」
久しぶりに地に足をつける。少しふらついたが、すかさず嵐瑛が支えた。
「出たな、封士! あたしをここから出せ! もう一度勝負しろ! 今度こそ殺してやる! その精霊はあたしのものだ! 誰にも渡さない!」
「どうしてこの精霊に拘る」
訪ねても、その精霊は自分のだ、渡さない、とわめくばかりだ。煌蘭は一つ息を大きく吸い込むと、金緑の瞳に強い火を灯して女をみた。
「貞莠冰!」
びくりと女・莠冰の肩がふるえ、初めて真っ直ぐに煌蘭を見た。
「あ……」
悪い夢から覚めたように、彼女の目に人としての感情が戻る。煌蘭は地面に座り込んで、莠冰と目を合わせた。
「もう一度聞くぞ? どうしてそこまでこの精霊に拘るんだ?」
莠冰は数度口を開閉させると、迷子になった子どものように視線を泳がせながらポツポツと話し始めた。
* * *
莠冰は父親に黙って、風の精霊の再封印の儀式を覗きに来ていた。
父親の貞帷干は、封印されている風の精霊のことを幼い莠冰に寝物語として何度も話してくれた。
風の精霊は、世界を壊そうとしていたのだという。それを、偉い封士が封印して、六百年間ずっとテルト神殿が管理しているのだと教えてくれた。
帷干は、莠冰が生まれるずっと前から神官で、神官にもならない神官見習いの時分から再封印の儀式に参加し、今回、それを目にするのは四回目なのだという。
帷干が莠冰に聞かせる精霊の容姿は、まるでおとぎ話の王子様のような感覚で莠冰にすり込まれてきた。だから、一度でいいからその精霊を見てみたかったのだ。
別に、遠くからちょっと見るだけだもん。
莠冰は神官で犇めく封印の間に潜り込んだ。だれも、莠冰などを目にもとめず、一方向を見つめている。莠冰は懸命に潜り込みながら、いつの間にか最前列に出ていた。
まずいことに、帷干の側に出てしまい、彼がちらりと視線を落として目を見開いた。しかし、父は仕方ないな、と言うように目を細めると、莠冰を小さく手招きして自分の所へと呼んだ。ここが一番見やすい。
黒い装束を着た男が、一人、座り込んで何かをしている。
「我が封力よ。かの封珠を補い、更なる力によりて、この邪悪なる精霊を封印せよ」
ぶつぶつと何か唱えている。唱えるだけで一体何ができるのだろうか、と莠冰は首を傾げた。
なにやら、男から微妙な空気を感じるのだが、何とも頼りない。
腕を大仰に振り回したり、立ち上がってクルクル回ったりとせわしない。その光景はあまりにも滑稽で、莠冰は吹き出しそうになった。
「……馬鹿か」
小さな呟きにハッと顔を上げる。封士の動きがあまりにも奇抜だった為に、すっかり当初の目的を忘れていた。
広間の中心に座り、六方に置かれた封珠から伸びる鎖で拘束された青年が一人、冷ややかな目で封士を見ていた。片膝を立て、その上に肘を置いて、いかにも面倒臭そうだ。
けれど、莠冰にはそんな格好よりも、彼のその目に惹かれた。
なんて綺麗な目なのだろう。木々の葉よりもずっと鮮やかな常磐色の瞳の中に、キラキラとした金色が混ざり込んで複雑な色で輝いている。
欲しい……。
じっと見つめていると、その視線を感じたのか、精霊は封士から目を外して莠冰のことを見た。綺麗な瞳が莠冰をひたと見つめる。意志というものに形があるのなら、この眼差しこそがそれだ。
心臓を射抜かれたような気がして、莠冰や胸元をギュッと握った。
顔が熱い。体中の熱という熱がそこに集まったみたいだ。
莠冰は精霊の目から強い力を感じた。それに比べて封士の力などゴミみたいなものだ。
永遠かとも思えるほどの時間は、一瞬で終わりを告げた。精霊はつまらなさそうに視線を逸らしてしまった。
もっと見て欲しい。もっと自分のことをその綺麗な目で見て欲しい。
莠冰はそう強く願った。
「さあ。これで邪悪な精霊の再封印の儀式は終わりました。百年は問題ありません!」
滑稽に踊り続けていた封士は、自信ありげに胸を張りながらそう言った。しかし、莠冰には残念ながらそうは思えなかった。この封士が、一体何をやったのかさっぱり判らない。そもそも、儀式は本当にこれでよかったのだろうか。
しかし、そんな莠冰の疑心の方が間違っているのだというように、神官達は感嘆の声を上げた。馬鹿じゃないの。と莠冰は毒づく。
「ねえ、お父さん」
莠冰は小さく呼びながら、父の手を引いた。
「ん? どうした」
「あの精霊、自由にしてあげちゃ駄目なの?」
「あの精霊は悪い精霊だからね。それはできないよ」
帷干は困ったように笑顔を浮かべながらクシャリと莠冰の頭を撫でた。
「本当に悪いの? あのおじさんの方が、ずっと気持ち悪いよ?」
「駄目だよ。そんなことを言っては。せっかく来て頂いたんだからね」
優しく諭すように言われて莠冰は小さく頷いた。
莠冰は神殿の外で封士が来るのを待っていた。
封士が逗留している三日の間、莠冰が封士と接触する機会は一度も訪れなかったからだ。だが、帰る時ならば、見送られて神殿から出ればそのチャンスもある。
ゆっくりとした馬蹄の音が聞こえてきて、莠冰はスッと立ち上がった。
「封士様!」
呼びながら駆け寄ると、封士は馬を止めて莠冰を見た。
いかにも不健康そうな、目つきの悪い男だ。その目はどこか澱んでいて悪寒がする。
「封士様、お願いがあるんです」
封士は迷惑そうに眉根を寄せるが、莠冰は意気込んで封士を見上げ言う。
「お願いします。あの精霊さんを解放してください」
「何を馬鹿な」
ふん。と封士は鼻を鳴らし、止まって損をしたと言わんばかりの態度で馬を進める。
莠冰はそれでもその後を追い追い掛けた。
「お願いします。だって、あの精霊さん、絶対悪い人じゃないです。悪い人が、あんな綺麗な目、してないもん」
そう、この封士の方が、よほど悪い人に見えた。
「お願いします。封士様!」
パタパタと追い掛けるが、封士は一向に馬を止めようとしない。それどころか、走らせようとする。
「封士様、待ってください! 待ってよ!」
懸命に莠冰は追い掛けた。いつしか、草原を抜け、森へ入ってしまっている。
既に日は落ちて、辺りは暗い。封士はずっと先にいる。
「封士様! 封士様ぁ!」
渾身の力で莠冰が叫ぶと、封士が止まった。ここぞとばかりに莠冰は走り出し、封士のもとへ辿り着く前に足を止めた。
ぞわりと、総毛立つ。得体も知れない恐怖に、身体がガタガタと震えだした。
赤い光が、幾つも封士と莠冰を取り囲んでいる。
「ほ、封士、様……」
「お、鬼……」
封士が裏返った声を上げる。
莠冰はジリッと下がった。怖い。本能からの恐怖に、身体が動かない。
急に封士の乗っていた馬が嘶いた。暴れ回り、封士が振り落とされ、莠冰の近くに落ちてきた。
莠冰は縋るように封士に駆け寄りしがみつく。
赤い光が馬に集まる。どう、と馬が倒れ、闇を切り裂くような断末魔の悲鳴が響いたかと思うと、ばりばり、ぐちゃぐちゃという不気味な音が鳴り響く。漂ってきた血腥さに吐き気がした。
莠冰は恐怖に腰を抜かした。
「ひ、ひぃぃ!」
封士が情けない悲鳴を上げ、立ち上がろうとする。莠冰はそれに縋り付いた。
「置いてかないで!」
「煩い! 放せ!」
投げ飛ばすように振り払われる。莠冰は図らずも鬼のただ中に落ちた。封士は莠冰を置き去りにして脱兎のごとく逃げていく。
ギロリと、血腥い鬼達の瞳が莠冰へと注がれた。
「ひっ」
莠冰は悲鳴すら上げられずに身を縮ませる。
鬼が囲むようにして莠冰に迫った。
「あ、あたしなんて、食べても、お、おいしくな……」
座り込んだ莠冰と同じくらいしか大きさのない鬼が、莠冰に腥い顔を寄せ、じっと見つめる。
【チカラダ】
不意に、自分ではない誰かの声が聞こえて、莠冰はパチパチと瞬きする。
【チカラダ】
鋭い爪を持つ鬼の手が莠冰の肩に食い込み、悲鳴を上げる。
「嫌だぁ!」
びくりと鬼が戸惑うように震えた。その隙をついて、莠冰はバタバタと暴れる。
「ごめんなさい、ごめんなさい。食べないで、あたしなんておいしくない。食べないで。お願い、ごめんなさい。何でも言うこと聞くからぁ!」
【ナンデモ?】
鬼達の動きが止まる。まさか、この頭の中に響いてくるような声は鬼の声なのか?
「何でも、言うこと聞く。だから……っく、た、食べないで。殺さないで……」
しゃくり上げながら、何度も何度も懇願した。
【ナラバ、ワレラノハナヨメトナレ】
「花、嫁……って、お嫁さん?」
思わぬ提案に莠冰は恐怖も忘れてキョトンと問い返した。そうだそうだと、頭の中に響く。
「なったら食べない?」
【ハナヨメハワレラニサイダイノチカラヲモタラス。ワレラノナカデイキツヅケル】
だから喰う、と鬼は言った。ヒッと莠冰は息を呑む。
「や、やだ……」
【ナラバ、イマクウ】
「やだ!」
どっちにしろ、喰われるというのか。
「……判った。お、お嫁さんになる。でも、十年待って」
【ジュウネン】
「十年経ったら、大きくなってるし、いっぱい食べれるよ?」
その間に、いくらだって逃げ出すこともできる。あの神殿に入ってしまえば、鬼の脅威もない。
【……ワカッタ。ジュウネンマツ】
その言葉に思い切り安堵のため息を漏らすと、わらわらと鬼達が寄ってきた。
「な、なに!?」
【ワレラノハナヨメ。ワレラガスミカニツレテイク】
「や、やだよ!」
抵抗は虚しく、鬼達は莠冰を担ぎ上げてどんどん森の奥へと入っていく。莠冰は悲痛な叫び声でいつまでも帷干を呼んでいた。
莠冰は、それから機会があれば何度でも逃げだそうとした。けれど、そのたびに鬼に見つかり捕まってしまう。何度も、何度も逃亡を繰り返し、失敗するたびに莠冰の心は折られた。じわじわと闇に染まっていくのが判る。それが恐ろしくて、更に闇へと落ちていった。
鬼と共に過ごし、鬼の瘴気に当てられ、鬼の瘴気を纏うようになったころ、莠冰の心は一筋の光も差さないまっ暗な闇に染まっていた。
自分を、こんな風にした封士が憎かった。そして、あの精霊が憎かった。
あの封士を負わなければ、あの精霊を見なければ、こんな事にはならなかったのに。
冷ややかな想いが心の中で燃える。何もかもが憎かった。何もかもが恨めしかった。
そして、約束の十年後、莠冰は鬼を従え、神殿を襲い始めた。