序章
荒野。
その場所はそういっそ差し支えないほどに荒れ果てていた。元は美しく荘厳な神殿が建っていたというその場所は、完全なる廃墟と化している。
白亜の壁は薄汚れ、エンタシスの支柱は無惨にも折れている。建物は中から倒壊したように全てが外側へと吹き飛んでいた。
轟々と吹き荒れる風は身を切るほどに冷たく鋭い。
石の飛礫が、まるで紙か何かのように竜巻に巻き込まれクルクルと回っていた。
あらゆるものを巻き上げる風の中心は、そこだけが凪いだように静かだ。
風の中心には、一人の青年が不敵な笑みを浮かべ立っている。彼の周りの凪に偶然に入った飛礫はまるで塵のように消えていった。
そこにだけ、恐ろしいほど濃密な力が本人の意志によって押しとどめられていた。これを爆発させれば地図からこの国の半分は消滅するだろう。
青年は、静かに怒っていた。人間に、この世の全てに。この世界そのものに怒っていた。
理性を失い破壊を尽くし、立ち塞がる全てをなぎ倒してきた。
彼は、自分を取り囲む六人の男女をその深く緑色に輝く瞳で見回した。
彼らも、青年を阻む他愛もない障壁に過ぎない。
六人はみな一様に黒い装束を纏い、手の甲に直径五センチほどの石を付けた手甲をはめている。手の上には各々色の違う、大人の拳大ほどの玉を持っていた。
「どうした、封士ども。俺を封印するんじゃなかったのか?」
できるものならやってみろ。
青年は揶揄を含んだ声で言う。けれど、その声のどこにも優しさは感じられなかった。
青年の目が輝き、風は彼の意思でいっそう強くなった。正気を失ったその輝きは、どこまでも剣呑で、背筋を凍らせる。青年は彼らをいたぶるのを空虚に楽しんでいた。
ジリッと六人は風の勢いに押されて後退した。
「……残念ながら、我々の封力ではお前を封印することはできぬ」
足りない。この精霊と対峙するには力が足りなすぎる。
そんなことは、誰に言われずとも己らが一番判っていた。けれど、ここで止めることが出来なければ、この龍国はおろか、世界が滅ぶだろう。それは予想や、予期などと言った生ぬるい物ではなく、すでに確定事項だった。
青年とこうして対峙することが出来るまで、一体どれほどの犠牲を払っただろう。どれほどの自然が失われただろうか。どれほどの命が失われただろうか。それを思うと、命に代えてでも彼をここで止めなければならない。
忌々しそうに封士の一人が呟いた声が、荒れ狂う風の中、それでも青年の耳には届いたようだった。
「はっ。六人もの封位の封士が集まって俺一人を封印できぬとはな」
なんとふがいない。
青年の目はどこまでも色が深く、気を抜けば吸い込まれそうだ。けれど、その瞳はどこまでも冷淡で、憎しみ以外何もない。
嘲笑う青年に恨みのこもった目を向けて封士の一人は続けて言った。
「だがお前をここに留め置くことはできるぞ」
あるものは刀印を結び、あるものは両手を打ち合わせ、あるものは複雑に印を結んだ。
命をかけてでも。いや、命を捨ててでも守らなければならないものがある。
友を、家族を、愛する人を。そして、この世界を。
己の命だけあっても、しょうがないのだ。
「なに?」
青年の目が怪訝に細められた。
「禁鎖戒縛!」
六人の声が一つになり、それぞれの持っていた玉から光の鎖が飛び出した。あっという間に青年の体に巻き付いて行く。きしり、と鎖は青年を絡め取った。
封士の手を離れた玉は床に落ち、まるで楔を打ったかのように、そのままその場から動くことはなかった。
鎖が青年をしっかりと拘束すると、唐突に風が収まった。光の鎖は質量を持った本物の鉄鎖となって青年の動きと力を押しとどめている。それでも、青年の強い力は完全には押さえきれず、未だ強い風が吹いていた。
青年は引き倒されそうになるのをかろうじて堪え、封士達を睨んだ。
「お前ら……何を……」
強く金緑の目が輝く。視線の先には、すでに事切れた者が五人。後の一人は血を吐いて地に両手をついていた。
「禁鎖は……一時的に光の鎖で拘束し……戒縛は……その、拘束を、半永久的に継続、させる、術だ……神、であっても、この戒めは解けぬ……」
だが、と更に血を吐いた男は思う。
恐らくこの封印はあと千年もしないうちに解けるだろう。吹き続ける風がその証拠だ。歯噛みをして、男は倒れ込んだ。
暗くなっていく視界の中、どうか、と願う。
どうか、この世界を救ってくれるものが現れるように……。
彼の心を、受け止め、包むことのできる者が現れるように……。
男は、力なく目を閉じ、その生涯を終えた。
「ふざ……けるな!」
青年が思い切り力を解放すると、再び強い風が巻き起こる。しかし、彼を取り囲む六つの玉が光ると共に、力が吸い取られていくような感覚に、青年は眉をひそめ、片膝を着いた。
青年は憎々しげにギリリと唇を噛み、苛烈な光をともした金緑の目を事切れた六人の封士たちに向けた。
「……何十年、何百年かかろうとも……必ず世界を壊してやる」
怨嗟の言葉を吐きかけながら、青年は遠く寂しげに輝く月に祈るように手を差し伸べた。
――――六百年後――――
「これは……?」
凛とした声が誰もいない部屋に響く。手に持つ紙がかさりと音を立てた。黒いフードによってその顔は伺えない。
『ここから出せ!』
ズキンと頭が痛んだ。誰かが頭の中に拡声器を仕込んで叫んでいるようだ。
『出せ! 出せ! 俺をここから出せ!』
こんな風に脳内に直接声を送れるのは霊獣しかいない。彼らは元が動物なだけに、言葉を発する、と言うことが出来ないので、脳内に直接言葉を贈ってくるのだ。
けれど、これは何かが違う。
「くそ、何だ……」
頭を抱え軽く振るが、声は止まない。
『出せ! 出せ! 出せ!』
頭痛に頭を抱えて唇を噛み締めた。
「……これのせいか?」
影は手に持った紙を見下ろした。これに触れた時から声が響き始めたのだ。
《依頼書
場所:芳州萄棕地方テルト、テルト神殿
依頼内容:封珠の修繕・封縛》
芳州と言えばここ、龍国の南に位置する、草原と森林の州だ。
「……行ってみるか……」
黒いローブを翻し、誰にともなく呟くと、人影は颯爽とその部屋を出て行った。
* * *
「涼部長! たたたたたたた大変です!」
後ろに砂埃を巻き上げながらまだ十六歳ほどの少年が走って来る。涼封士と呼ばれた二十三、四歳ほどの青年は書類から顔を上げて少年を見ると、訝しげに眉をひそめた。
「どうした? 閲仕官。そんなに急いで」
閲と呼ばれた少年はすごい顔をしていた。思わず涼は身を引いてしまう。
頬は駆けてきて上気しているが、全体的に青くなっているので、微妙な色だ。器用なことをするものだと、涼は純粋に心の内で感嘆した。
「い、いいいいい今、長老会から連絡があって……」
息がのどに絡まったのか喘ぐように息をつく。見ていてかなり哀れになった。
「いいから落ち着け、なんなんだ。一体」
閲を落ち着けるために、涼は立ち上がって背中をさすってやった。
「す、すみません。ですが、久しぶりのことに驚いてしまいまして……」
思わぬ涼の気遣いに驚いたのか、落ち着きを取り戻し始めた閲は、しっかりと涼の目を見た。涼はその目を見てギクリと身を強張らせる。
そこに、涼は見てしまったのだ。その目の中に、絶望の二文字がクッキリと書かれていることを。
「ま、まさか……」
嫌な汗が背筋を伝う。ここ一年ほど全く動きがなかったので、油断していた。いや、油断と言うより、安心しきっていたと言ってもいい。なんて愚かなことを、と頭の中で一際冷静な自分が喋る。
「瓏老師が、瓏老師が……」
その目には涙すら浮かんでいた。いつ溢れて流れ出しても、恐らく涼は驚かない。なぜなら彼も、同じ気持ちだからだ。
「脱走したのか!?」
「は、はいぃっ」
なんと言うことだ。この忙しい時期に行方をくらますなんて。いや、忙しい時期など関係ない。ここは毎日忙しいのだから。
「いつからいないんだ?」
「い、一週間ほど前だそうです」
「何でそんなに長い間いないことに気付かないんだ!」
「全仕官長のところに処理済み一週間分の仕事が届いて、しかも、五日分の休暇届が出ていて、長老会も気にしなかったそうで……」
「うちにも処理済みの仕事が届いていたんだろう? 何故その時に知らせない。完全に怪しいだろうが」
申し訳ありません、と地面に引っ張られたのかと思うほどの勢いで閲が頭を下げた。
「まさか、今になって脱走するだなんて思いませんでした……」
「あぁ、もういい! 探せ! 滅部の封士及び滅部、封部の仕官を総動員して、草の根分けて探し出せ!」
瓏老師は滅部以下の人間には名前しか知られていない。ほとんど伝説と化しているような人物だ。着任したのは七年前、封士連で仕事を始めたのはほんの五年前だというのに、数々の伝説を作り出した。今では、その名を知らぬ者はいない。けれど、その素顔を知っている者は極限られていた。
滅部だって涼をからかいに顔を出すから知られているのだ。滅部と封部以外の者の捜索隊も探しようがない。
もう、一週間も前から姿を消している。見つかる確率はゼロに近いが、あがいたっていいじゃないか。
「で、ですが、今は皆、天手古舞いで……」
変に声が裏返っている。
「瓏老師を探し出したら全部押しつけて構わない。あの人なら私達が一週間かけてやる難しい術も一瞬でやってしまう。あの人の封力は、封位封士数百人分だ!」
「ですが、私はまだ命が惜しいんです! 涼部長!」
ガッシリと閲は涼にしがみつく。男にしがみつかれても嬉しくない。涼はそれを思い切り振り払った。
「死にはしない! ……たぶん」
たぶんと言うしかない。あの人の怒りは生かさず殺さず精神攻撃だ。時たま手も出るが。と、言うより、気の弱い者が向かい合えば、一睨みで萎縮して動けなくなってしまうだろう。もしかしたら気絶するものも出るかも知れない。もれなく蛇に睨まれたカエル気分を味わえるというものだ。
「責任は私が負う! いいから伝令!」
「はいぃっ」
半泣きになって走り去る閲を見送って涼は疲れたように椅子に座り込んだ。
「どうして……どうして長老会はいつもおれにあいつのことを押しつけるんだ……」
毎回毎回瓏老師に関する厄介ごとは自分にまわってくる。何故なんだ……。
涼は瓏老師が自分に何かあったら全て涼に一任する、と言っていることを知らない。