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ふつう不適合者

作者:

 ガタンガタンと電車が通過する音が、天井から聴こえる。

「決まった?」

 テーブルの向かいに座る雨深(うみ)ちゃんに声を掛けられ、僕は我に返った。駅の高架下に新しくできたベーカリーカフェ。モーニングプレートを頼むと、パンが食べ放題というシステム。今はモーニングメニューから、スープの種類を選んでいた。

「ううん~、雨深ちゃんは決まった?」

「2種類まで絞ったけど…」

メニュー表とにらめっこをする様子を見て、僕は小さく笑う。雨深ちゃんは年齢の割に見た目が若い。誰も彼女が齢三十を超えているなんて思わないだろう。僕より一回りも年上だが、どこか抜けていて天然なところが可愛い。どれと迷ってるの?と訊くと、この限定のとこっちの、とメニュー表を僕の方に向ける。

「じゃあ、僕がミネストローネにして、雨深ちゃんが限定のにして、シェアしよお」

 手を挙げて店員さんを呼び、僕が注文を伝える。雨深ちゃんがありがとうと言いながら、急に触れてきた。

「金髪、だいぶ色落ちてきた」

「美容院行かないとだけど、時間なくて」

「入籍準備と引っ越しでばたばたしたもんね」

 僕達は明日入籍する。一生結婚する気なんてなかったのに、人生分からないものだ。住居は悩んだ末に賃貸の一軒家を借りた。一階がキッチンとリビングのワンフロア、二階に三部屋ある築浅の物件だ。

「荷物は明日届くんだっけえ?」

「明日の午前だっけかな、忘れた」

相変わらず適当だなあ。この適当なところが彼女のいいところであり、悪いところだ。

他愛の無い話を続けていると、プレートが運ばれてきた。スープやキッシュ、数種類のパンが盛り合わせになったボリュームたっぷりのプレート。雨深ちゃんはスマートフォンのカメラで写真を数枚適当に撮った後、そのレンズを僕に向けた。僕がプレートを持って、ウインクで決め顔をする。雨深ちゃんも撮る、と僕はスマホに手を伸ばす。

「いい、いい。需要無いから」

「僕があとで見返すもん」

 雨深ちゃんは僕の手を払いのけ、テーブルの中央に置かれたカトラリーケースからフォークを取り出す。僕はフォークを受けとりながら、カイは雨深ちゃんの写真欲しいと思うけどなぁとぼやいた。黙って食べて、とぴしゃりと言って、雨深ちゃんはキッシュをナイフとフォークで丁寧に切り分ける。小さな口でキッシュをほおばると、僕を見て、笑顔になった。

「美味しいっ…」

 その顔を見て、自然と僕も笑みがこぼれる。純粋なこの笑顔がたまらなく好きだ。

中に何が入ってるんだろう、と雨深ちゃんが具材がぎっちり詰まったキッシュをフォークで切り分け、中身を確認する。

「カイに言ったら、作ってくれるかな」

「今は言うのやめとけば~。雨深ちゃんが食べたいなんて言ったら、そこに時間費やしそうだもん」

確かにと雨深ちゃんは少し残念そうに、そして残りのキッシュを大事に噛みしめるように食べ進めた。


 僕が雨深ちゃんと会ったのは二年前。高校卒業後、正社員としては就職せずに、アルバイトを掛け持ちしていた。児童養護施設で育ったから、両親の顔は知らない。高校卒業後は施設には居られないから、築四十年以上の狭いアパートで独り暮らしが始まった。生きる理由もない。二十歳で死のうと決めていた。意味はなくて、キリがいいな、くらい。

 バイト先の居酒屋に近いからという理由で週二回入るようになったカフェに、よく来るお客さんが雨深ちゃん。一人で来てカウンターに座り、スタッフのマミさんと話していることが多かった。名前は知っていたけれど、個人的に話をしたことはなかった。

「その金髪って何回くらいブリーチしたんですか?」

 平日の昼間。ワンオペタイムに雨深ちゃんが現れて、いつも通りカウンターに座り、目の前でデザートの仕込みをする僕に話しかけてきた。

「へ」

 驚きのあまり、素っ頓狂な声が出てしまった。急にすみません、と口元に手を当てながら、謝られて、僕はぶんぶんと首を横に振った。

「えっと、二回、です。根本は、リタッチしてますけど」

「二回でこんなに綺麗に染まるんですね。髪も傷んでなくて、すごいです」

「めっちゃ傷んでますよ!触ります?」

 僕はカウンター越しに頭を近づけた。毛先に雨深ちゃんの指が少し触れる。

「ほんとだ。見た目だと全然わかんない」

 ふわりと優しい笑顔を浮かべた雨深ちゃんを見て、僕は失礼なことをしたのではないかと我に返った。謝ろうとした時に、マミさんが現れた。そこからはマミさんが隣に座り、安定の長話が始まってしまって、その間に割っては入れないから僕は静かに仕込みを再開する。雨深ちゃんに触られたことを思い出して、頬が紅潮するのが分かり、僕はバレないように俯きながら仕込みをした。

 その日から、なんとなく話をするようになった。年齢が僕より十個上の二十九歳であること、ここから車で一時間かかる場所に住んでいること、大学卒業後は正社員として就職し、僕とは違うちゃんとした人生を歩んでいること。

「僕なんて高校卒業してフリーターだよ?」

「正社員が偉いわけじゃない。人間性の方が大事」

 少しでも距離を詰めたくてタメ口で話したいと提案したら、すんなりと受け入れてくれた。雨深ちゃんは心が広くて、一緒にいると自己肯定感が上がる言葉をたくさんくれた。僕が自分の名前は女の子みたいで嫌いだと言ったら、「ホロ」というあだ名もくれた。性別を感じさせないその名前が僕はすぐに大好きになった。

「でも学歴をコンプレックスに感じるなら、今からでも専門学校とか通ってみたら?」

「え~、僕、頭悪いから無理だよお」

「そんなことない。要領良いし」

「あ!じゃあ、雨深ちゃんも一緒に勉強しよ!資格の勉強してるって言ってたじゃん!」

「分かった、分かった。一緒に勉強しよう」

 僕は単純に、雨深ちゃんと過ごす時間が欲しかっただけで、学校に通いたい気持ちなんてこれっぽっちも無かった。雨深ちゃんが残業じゃない平日は、僕達の出会ったカフェで一緒に勉強をするようになった。進学先の相談にも乗ってもらい、看護専門学校を目指すことにした。手に職をつけられて、更に指定の病院に就職すれば学費が免除される。就職先も保証され、更に学費も払わなくていいなんて、貧乏な僕にとっては最高の進学先。

 毎日が楽しくて仕方なかった。勉強時間確保のために、居酒屋のバイトを減らした。夕飯は雨深ちゃんがお金を出してくれたが、メモをしておいて、働き始めたら必ず返そうと思っていた。

 その日は土砂降りで、じめじめとした湿気が肌にまとわりつく嫌な天気。いつもみたいにカフェの一番奥のL字に座る席で、二人で各々勉強を進めていた時に、雨深ちゃんがスマホの画面を上に向けたまま、トイレに立った。しばらくしてスマホの画面がパッと明るくなり、通知の文字を見て僕は勉強の手を止めた。

――私が死ぬまで、百二十日。

 それは雨深ちゃんが教えてくれたカウントダウンアプリの通知だった。受験日を入れておけば、あと何日か毎日教えてくれるよ、といわれて、僕もダウンロードしたアプリ。

「百二十日…?」

 僕はスマホを取り出し、カレンダーを開く。今日から百二十日後は十二月二十一日。

雨深ちゃんの三十歳の誕生日。

勉強を再開する気には到底なれなかった。焦りで冷や汗が額を伝う。雨深ちゃんはいつも笑顔で、愚痴や悪口を言っている姿は一回も見たことが無い。太陽のようにギラギラした明るさではないけれど、隣にいるとぽかぽかして温かい気持ちになれる。そんな彼女を何がそうさせたのか、僕には検討もつかなかった。雨深ちゃんがいない世界なんて嫌だ。

 僕はカウントダウンアプリに、「期限」という項目を追加した。設定した日は、もちろん十二月二十一日。勉強と並行して、必死に雨深ちゃんを生かす方法を模索した。

 そんな時に出会ったのが、馨都という男だった。

 マミさんが平日なら女性も入れるゲイバーがあるから行ってみたいと、僕を誘ってきたのが始まりだった。バイト先の人とプライベートで遊ぶことがない僕に、根気よく誘ってくるのはマミさんだけ。いつもだったら断っていたが、毎日雨深ちゃんを生かす方法を考えているのに、全くいい考えが浮かばずに煮詰まっていて、少し気分転換をした方がいいと思い、平日バイト終わりに、僕はマミさんと一緒に噂のゲイバーに行った。カフェから歩いて十分程度の六階建ての細長いビルの四階。古びたエレベーターを降りると、暗くて細い廊下の先に黒い扉があり、店の前には「Bar Astilbe」と書かれた看板が立っている。僕が恐る恐る扉を開くと、意外と店内は広く、平日にも関わらず客でにぎわっていた。唯一空いていたカウンターの隅に二人で座る。スタッフから注文を聞かれ、マミさんはジントニック、僕はウーロン茶を頼んだ。お酒が大好きなマミさんはその後何杯もお酒を頼み、いつの間にか他のテーブルで別の客と盛り上がっていた。バーなんて普段来ないから、僕はちびちびと烏龍茶を飲みながら、豆菓子を食べて時間を潰す。

「隣ええ?」

 低く甘い声が僕に問う。声の方を見ると、黒髪の青年が立っていた。おしゃれなバーに似つかわしくない、白Tシャツにカーゴパンツというラフなスタイル。

どうぞと言うと、彼は隣に遠慮なく座り、スタッフにハイボールと慣れた様子で注文をした。

「お酒苦手なん?」

 自己紹介もせずに、僕の飲み物を見て、訊いてきた。

「十九なんで」

え!?そうなん!?という大きな声にびっくりして、僕は肩をびくりと震わせた。

「俺、二十五やけど、同い年くらいかと思ったわ。見えへんな。名前はなんていうん?」

自分の名前も言わない奴に、言いたくない、とぶっきらぼうに答えると、彼は僕のあからさまな態度に笑った。

「けいと。漢字がむずいねんけどな」

 彼が自分のスマホを出し、メモ帳アプリで自分の名前を打った画面を見せてくる。馨都。確かにこの漢字は全く思い浮かばない。名前を聞いてしまった手前、僕も言わなきゃいけなくなったが、本名をそのまま伝えるのは気が引けた。

「…ホロ」

「ほろ?」

 雨深ちゃんだけが呼ぶ特別なあだ名だけど、見ず知らずの男に本名を呼ばれるより、雨深ちゃんがつけてくれたあだ名で呼んでもらった方がいい。

「ホロはこういう場所は初めて?あんま慣れてへん感じしてんけど」

あの人が来たいって言ったから付き添い、と振り返ってマミさんの方を見ると、男性客と大いに盛り上がっている。

「彼女?」

「ううん、バイト先の先輩」

「ホロは、彼女か彼氏おるん?」

 なぜ両方の可能性を問われたのかと不思議に思ったが、ここはゲイバーだったと思い出して納得した。馨都はゲイなのだろうか。この整った顔立ちなら、男女問わずモテそうで、相手に困らなそうだ。

「…好きな人はいる」

どんな人?と、手に顎を乗せ、僕をのぞき込む。距離感がバグってるのはお酒が入ってるからだろうか。僕は馨都から目線を外し、遠くを見ながら答えた。

「一緒にいるとぽかぽかする人」

「へぇ…男?」

「年齢とか性別とか関係ない。僕はその人が好きなだけ」

「そうやな。すまん、すまん。俺もな…俺はゲイなんやけど、ゲイってだけで男全員好き~みたいなんすぐ言われてん。性別ってめんどいよな」

 くしゃっとした笑顔は最初の印象とだいぶ違って、子供のようで可愛らしかった。雨深ちゃんへの思いを、誰かに伝えたのは初めてで、聞いてもらえたことに少し心を許してしまい、連絡先を聞かれた時に思わず教えてしまった。

 馨都からは毎日のように連絡がきた。今日は何しているのか、何か楽しいことは合ったかなど、僕の日常をたくさん聞かれ、適当に一日一通程度の返信をしていた。ご飯の誘いも何度もあったが、ずっと断っていた。だけどある日、俺も誰か連れてくから、ホロもその好きな人連れてきて、皆でご飯いこーや、と初めて複数でのご飯の誘いの連絡をもらった。馨都が連れてくる友人はきっとゲイで、雨深ちゃんを連れて行っても恋愛には発展しないだろうと踏んだ。それが僕の人生の大誤算。

「初めまして。馨都の兄の高槻 季界(たかつき きかい)です」

 金曜日の夜、仕事終わりのスーツ姿の好青年が、僕と雨深ちゃんの前に座った。いかにも営業マンという感じ。半袖のワイシャツから見える腕は適度に鍛えられていて、すらりとした長い脚はスーツが良く映えていた。兄と言ったが、馨都とは顔も雰囲気も正反対。

「生でええ?先に頼んでもうたけど」

「うん、大丈夫よ」

 一見強面だが、喋り方や仕草は穏やかでどちらかというと女性よりなのが印象的だった。。

「ホロ、ほんま焼肉でよかったん?」

 僕は馨都との間でちらちら燃える炎に目をやる。

「お酒飲めないのに、居酒屋行っても楽しくないもん」

 馨都は納得したように頷き、好きなの頼みーやと、僕と雨深ちゃんの前にお肉のメニューを広げた。

「雨深ちゃん、好きなお肉とかある?」

タンかなぁ…、と雨深ちゃんがメニューのタンを指す。僕は焼肉に行ったことが無いから、この時タンとは舌ベラであることさえも知らなかった。

「ここのお店はねぎタン塩が有名よ」

 手元のお絞りで手を拭きながら、季界さんが教えてくれた。

「一回、会社の人と来た事があって、その時にお店の人が言ってたのよ」

「…雨深ちゃん、それにする?」

「うん、そうしよっか」

 他にも盛り合わせやキムチ、サラダなどを一通り頼んだ。注文を終えると同時にドリンクが届き、みんなそれぞれ手に持って、乾杯をする。

「お疲れ様ですってことで、かんぱ~い」

 ろくにこちら側の紹介を季界さんにせずに、馨都が乾杯の発声をする。僕は安定の烏龍茶。雨深ちゃんはレモンサワーを頼んでいた。

「ウミさんいくつなん?」

「こら、会ったばっかりの女性に失礼でしょう、馨都」

 季界さんの常識ある制止に、雨深ちゃんは大丈夫と言った。

「二十九」

「二十九!?見えへん。てか、あれや、同じ年やん」

 馨都が季界さんを指さすと、自分と同い年ということに驚いているようだった。こちらからしたら、季界さんが二十九ということに驚きだ。落ち着いた仕草や見た目からして、もう少し上だと思っていた。この時、僕は心にざわつきを覚えた。結婚適齢期で、好青年で、左手薬指には指輪もしていない。

「季界さんもゲイ?」

 今考えてみたら、家族にカミングアウトをしているのか確認もせず、俗にいうアウティングをしてしまったようなものだ。僕の急な質問に季界さんは鉄砲玉を打たれたように驚いた顔をしたが、そのあと柔らかい笑顔を浮かべた。

「私はゲイじゃないわ。恋愛対象は女性よ」

 恋愛対象は女性。ということは、雨深ちゃんも恋愛対象になる。とはいえ、横を見ると、雨深ちゃんにはその気が全く無いのか、まだお肉が届いていないのに追加で頼むお肉選びを始めていた。その姿にほっと胸をなでおろすが、不安は完全には無くならない。季界さんの容姿や穏やかさは、きっと世の一般女性には高評価だ。

「ウミさんは、今付き合ってる人おるん?」

 スタッフの人からお肉を受け取りながら、馨都が話を逸らすように聞いた。横ではまた失礼なことを…と季界さんがため息をついていたけど、僕が聞いてほしいことを代わりに訊いてくれているのだろう。

いない、と雨深ちゃんは端的に答え、お肉を網にどんどん乗せていく。僕達と馨都達の間が煙でいっぱいになった。すぐに火が通るタンを裏返しながら、壁際の数種類のタレを皆に手際よく渡していく。渡しながら、焼きあがったタンを皆のお皿に置いて配っていった。

「ウミさんも、お肉早く食べてください。美味しいですよ、ここのお肉」

 界さんがそう言いながら、美味しそうに肉を頬張る姿を見て、雨深ちゃんもお店の特製だれをつけて口に運ぶ。

「っ…美味しい…!」

 口を押えながらも、その顔には隠し切れない笑顔が溢れていた。その素直な感情表現に、僕は生唾を飲み込む。あまりにも可愛すぎる。僕は手が止まっていることに自分で気づかず、馨都にちょ、ホロ!焦げてんで!と言われて、焦ってお肉をひっくり返した。頬の紅潮は、この煙のせいではないことは分かっている。初めて喋った時と一緒だ。僕はひたすらお肉を焼いていく。

 僕の顔は目の前の馨都にはバレバレだったのだろう。雨深ちゃんが僕の方を向かないようにと、別の話題を振ってくれた。

「俺らもウミちゃんって呼んでええ?」

「いいですよ」

「あ!あだ名つけてや!ホロもウミちゃんがつけたあだ名やろ?俺らにもつけてーや」

 雨深ちゃんは困ったような表情をしたが、期待に染まる馨都の瞳に耐えかねて、分かりましたと返事をした。その返答に、馨都は分かりやすくガッツポーズをする。雨深ちゃんはしばらく思案すると、口を開いた。

「カイとケト…でどうでしょうか」

 僕と同じ、名前を短くしただけだが、雨深ちゃんの提案に、季界さんは顔の前で小さく拍手をした。

「凄くいいと思うわ」

「あだ名も決まったことやし、敬語も禁止な~」

 その食事会を機に、雨深ちゃんとカイとケトと僕は定期的に食事をするようになった。塾講師のバイト経験があるカイは、勉強会にもたまに顔を出してくれて、僕のために分かりやすい参考書や問題集を買ってきてくれることもあった。お金を払うと言っても、僕がもし入院したらホロにお世話になるかもしれないから、これはその時の先行投資なのと、要はお金は要らないと遠回しに言われていた。

「ホロは賢いね。凄く覚えが早くて驚いちゃう」

 カイは雨深ちゃんのようにすぐに僕を褒めてくれた。今まで施設にいても、馬鹿だと罵られ、学校では先生に嘲笑され、クラスメイトとは距離を置かれていた。国語のテストで満点を取った時には、施設育ちの奴がこんないい点を取れるわけがない、誰かの答案をカンニングしたんだろう、と先生に呼び出され、それ以来テストは白紙で出した。誰も周りに自分の性別も能力も認めてくれる人がいなかった。急にこんなに優しい世界に包まれて、優しさの供給過多だ。

「ホロは国語が得意なのね。特にこの心情の部分はいつも満点」

過去問の丸つけを終えたカイが答案用紙の長文読解の部分を指さした。

「ね、ホロ、すごい。長文読解が得意なのは、人の気持ちに寄り添えるってことだよ」

 雨深ちゃんの言葉が僕の胸をきゅっとさせる。赤くなった顔を隠すように、僕はそんなことないよと言ってトートバックから別のテキストを探すふりをした。

 

ある日、雨深ちゃんが仕事で急に来れなくなった日があった。台風が近づいていて、カフェの外は土砂降りの雨。お客さんもほとんどいない店内で、いつもの場所に座って、カイが買ってくれたテキストを広げる。こんな天気じゃカイも来ないだろうと思った時、全身ジャージ姿のカイが現れた。

来ちゃったと言って、いつも雨深ちゃんが座る席に腰を下ろす。カイも雨深ちゃんが今日来れないことは知っているはずだ。

「そういう服も、着るんだねえ」

 僕が下から上まで舐めるように見る。全身ブラックのよくみるスポーツブランドのジャージも、すらりとした背格好のカイが着るとハイブランドの洋服に見えた。

「今日は雨深ちゃんがいないからよ」

 その言葉にどきりとする。いや、薄々分かっていたことだ。カイも僕と同じ理由でこの勉強会に参加している。気になる人には、かっこつけたいものよねと、長い指を絡めて、その上に顎を乗せる。

「…ケトからどこまで聞いてるの?」

 ケトが僕の気持ちをどう説明しているのかは知らない。僕の鋭い眼光に、カイは少し驚いた様子を見せたが、すぐにその表情は柔らかい笑みに変わり、一言、全部とだけ言った。

「でも、ホロの口から聞いたわけじゃないでしょう?ちゃんと聞いてみたくて」

 僕はテキストを閉じた。今日は勉強会じゃなくなった。

「好きだよ…カイは、雨深ちゃんに気持ちを伝える?」

「そうね」

「いつ?」

「さぁ、この後すぐかもしれないし、もう少し様子を見るかもしれないし…」

 曖昧に濁されて、僕はむすっとした。大人の余裕を見せつけられていることも腹立たしい。整った顔立ち、社会人として自立している経済力、雨深ちゃんと同じ年代を生きている彼相手に僕の勝ち目はない。

「聞きたかったのはそれだけ?それなら、帰る」

 これ以上ここにいても、惨めになるだけだ。テキストやペンケースをバックに入れて、立ち上がろうとしたところ、カイの問いに引き留められた。

「ホロは雨深ちゃんとどうなりたいのかしら?恋人になりたいの?」

 雨深ちゃんと…。ずっと近くで見ていたい。ぎゅっと抱きしめたい。あの笑顔をずっと守り続けたい。それをするためには、「恋人」という関係性になるほかなくない?

「当たり前じゃん」

 僕はカイの腕を振り払い、傘もささずに走ってカフェを出た。


 カフェを出て、そのまま向かったのは雨深ちゃんの勤務先の駐車場。駅前の二十階建てビルの十三階が職場で、車はいつも地下駐車場に置いていると言っていた。車番は覚えていないが、フロントガラスのところに、僕があげたカフェのマスコットキャラクターのぬいぐるみを置いてくれている。雨に濡れた髪をかきあげ、はじからチェックしていくと、突き当りの角に車を見つけた。僕は運転席の扉に寄り掛かり、そのまま座り込む。

 早く気持ちを伝えなければと来てしまったが、なんと言うか全く考えていない。今更、不安になってきた。だが、それと同時に雨に濡れた体が一気に冷え、睡魔が襲ってきて、僕は丸くなって自分の体を抱え込みながら、ゆっくりと目を閉じた。

「…ほ、ろ…ホロ!!」

 どれくらい目を閉じていたか分からない。体をゆすられ、僕はうっすらと目を開けた。

「ホロ!大丈夫⁉どうして、ここに」

 スーツ姿の雨深ちゃんがハンドタオルで僕の濡れた髪を拭きながら、泣きそうな顔でこちらを見ていた。泣かないで、こんな表情させたかったわけじゃなかったんだけどな。

「とりあえず、車に乗って。家まで送るから…」

「嫌だ。雨深ちゃんの家に、行きたい」

「ここからなら、ホロの家に帰った方が近い…」

「お願い。最初で最後の我儘だから。もうこんなこと言わないから」

 必死に冷たい手で雨深ちゃんのブラウスの袖口を掴む。雨深ちゃんは、いつもと違う僕の様子に何かを察したのか、分かったと言って、車の鍵を開けた。

「途中でコンビニに寄って、着替えとタオル買おう」

 優しくて、お人好しで、大好きだ。僕は小さく頷いて、助手席に乗った。


 雨深ちゃんの家は四階建てのアパートだった。雨は一向に止む様子が無く、雷の音が頻繁にした。コンビニで買ったタオルを頭に乗せ、僕と雨深ちゃんはアパートの入口に走る。エレベーターはついておらず、階段を上っていく。エレベーターがなくてごめんね、と謝る雨深ちゃんに、僕はブンブンと首を横に振った。ワンフロアに5部屋並んでいるアパートで、雨深ちゃんの部屋は階段から一番近い場所。扉を開けて、どうぞと僕を先に入れてくれた。右側にスイッチあるよと言われて、真っ暗な中で右手をまさぐると、スイッチらしきものに指が当たり、押すとパッと玄関が一気に明るくなった。

「シャワー浴びてきな。着替えとタオルはあとで置いておくから」

 風呂場に案内され、服は洗濯機に入れておいてと言われ、扉を閉められる。僕は言われるがままにシャワーを浴び、濡れた服は洗濯機に入れ、シャワーをひねる。最初に冷たい水がでてきて、身を竦ませた。シャワーを済ませてお風呂場を出ると、洗濯機の蓋の上に、さっき買った下着と雨深ちゃんのTシャツとジャージのズボン、タオルが置かれていた。それらに着替えてリビングに入ると、雨深ちゃんがコンビニで買った夕飯を温めてくれていた。ごめんね、手料理じゃなくてとまた謝る雨深ちゃんに、ううん、一緒に食べれるだけで嬉しいと答える。だって、本当にそうだ。食事は何を食べるかより、誰と食べるかが一番大事。

 夕食の片づけも終えた後、雨深ちゃんがこそこそと冷凍庫から何かを取り出して、テーブルにじゃーんと広げる。僕の目の前に広げられたのは大量のアイスだった。コーンタイプのチョコアイスから、ちょっとお高めのカップアイスまで様々。僕が一番安いアイスに手を伸ばすと、雨深ちゃんは一番高いカップアイスを手に取った。本当はカップアイスが気になったけど、ここまでお金を出してもらった手前、選ぶのは憚られた。その気持ちもお見通しなのか、雨深ちゃんはカップをあけてアイスをスプーンいっぱいに掬うと、僕の口に持って来た。

「はい、あーんして」

 自分で食べれるよという僕の言葉を無視して、唇にアイスを押し付けられる。僕は根負けして少し口を開けた。白いバニラのアイスが口に流れ込んできて、すぐに溶けてなくなる。美味しいが顔にあふれていたのか、雨深ちゃんはまたスプーンに乗せて僕の口に近づけた。まるで餌付けだ。僕は雨深ちゃんの手を握り、そのアイスを口に運ぶ。その手を離さずに、僕は言葉を続けた。

「好き」

 雨深ちゃんは小首を傾げて、全部ホロが食べる?とアイスのカップを僕に差し出す。

「雨深ちゃんのことが、好き」

 雨深ちゃんはしばし間を置いた後、うん、と小さく頷いて、カップをテーブルに置いた。僕の目をまっすぐに見る。その時、一際大きな雷が落ち、部屋の電気がばちんと消えた。真っ暗な部屋で、お互いの表情も全く見えない。

「…私も、好きだよ」

 その返事を合図に、僕は雨深ちゃんの体を引き寄せ、ぎゅっと抱きしめた。カランカランとスプーンが床に落ちた音が静かな室内に響く。僕は雨深ちゃんの頬に手を滑らせ、指で唇をなぞる。そして、その唇に軽くキスをした。唇が離れた後、私ね、とぽつりぽつりと雨深ちゃんが言葉を紡ぐ。

「私ね…一個だけ叶えたい夢があって」

「うん…うん、なあに?僕にできることなら、絶対に叶えるよ」

「自分の子供が欲しいの」

 子供という単語が、僕の頭の中で何度も反芻される。

「自分の家族が欲しいの。だから、ホロとは付き合えない」

「かぞ、く、家族の形は、沢山ある、よ。こだわらなくたって、いいじゃん?」

 声が震えているのが、自分でもよく分かった。

「ホロのこと好き。好きだけど、でもそれは友達としての好き」

 私ね、アロマンティックなの。

 そう続けられた言葉に僕は首を傾げた。意味が分からない。他人に恋愛感情を抱かないのに、自分の子供は欲しいなんて。それなら相手は誰だっていいってこと?

「矛盾…してるよね。恋愛感情はないのに家族は欲しいなんて。そんなの叶いっこない」

「だから…だから、死のうとしてるの?」

 なんでそれを知ってるの、と僕の手首が強く掴まれる。けれど、それはすぐに緩められ、今度は逆に僕が雨深ちゃんの手首を掴み、床に押し倒す。少しだけ開いたカーテンの隙間から、稲光が差し込み、一瞬見えたうみちゃんの表情は、涙を堪え、溢れ出る気持ちを必死に抑えていた。

「アロマンティックって、隠して、付き合ったりも、した。けど、恋人らしいことをする度に苦痛だった」

 僕が掴んでいない方の手で目元を覆いながら、生きてても辛いの、周りの幸せを心から祝えない自分も嫌い、と言って、一筋の綺麗な涙が雨深ちゃんの頬を伝った。

 なんで性別なんてものがあるんだろう。そんなものなければ、僕は雨深ちゃんの願いを叶えてあげられたかもれないのに。僕は雨深ちゃんの涙を拭うように、その頬にキスを落とす。

「好きじゃなくてもいいから、今は死にたいなんて忘れよう?」

 僕は抵抗できるように手首の拘束を解いて、雨深ちゃんの両頬を包み、唇にキスをした。だんだんと深くなるそれに、最初は僅かな抵抗を見せていたが、途中で諦めたのか、僕の背に手が回る。僕は雨深ちゃんのブラウスの中に手を入れて、冷たい肌を指でなぞっていく。びくんと雨深ちゃんの体が跳ね、僕は優しく胸に触れた。雨深ちゃんの昔の恋人が一体どんな風に彼女に触れたのかは分からないけれど、怖いと思ってほしくない。だから、なるべく優しくゆっくりと…と思っていたが、雨深ちゃんの小さな喘ぎ声が、僕の理性を崩れさせた。

 この体を重ねる行為は何の意味もないかもしれない。でも、それでもいい。

外では相変わらず激しい雨が降り、暗がりが僕らのこの名前の無い関係を隠してくれているようだった。


昨日の雨が嘘のような晴天で、カーテンの隙間からは陽の光が差し込む。僕はベッドで静かな寝息を立てる雨深ちゃんを横目に、部屋を後にした。アパートの外に出て、電話をかける。ワンコール鳴り終わるかどうかの速さで、相手は電話に出た。

「どうしたん!?なんかあったん!?」

ケトの大声に僕はスマホを耳から離して、うるさいと一蹴する。

「今から送る駅まで今すぐ迎えに来てえ…できるなら、カイも連れてきて」

ケトの返事は一切聞かずに、僕は電話を切った。最寄り駅というには少し遠いが、考えをまとめるにはちょうどいい時間。僕は雨深ちゃんの部屋を一瞥して、駅に向かって歩き出す。

僕が駅に着いた時には、ロータリーに車が止まっていた。ケトは僕の姿を見つけると、車から降りてきて、僕の両肩に手を置く。なんかされたん!?と問い詰めてきたケトの腕をうるさいと払った。

「昨日ぶりね」

助手席に乗ると、後ろで脚を組んで座るカイが、笑みを浮かべているのがバックミラー越しに見えた。僕は自分の家の住所をナビに入れて、ここに向かってとケトに指示する。ケトは納得いかない様子だったが、黙って車を発進させた。とにかく時間が無いから、僕は車が発進してすぐに話を切り出した。

「カイは、赤ちゃん作れる?」

その問いに、は⁉と驚くくらい大きな声をあげたのは隣にいるケトだった。どういうことやねんというケトを無視して、男性としての機能死んでない?と続ける。カイはしばらく黙っていたが、検査したことないから分からないわと答えた。僕は後ろを振り向き、カイと目を合わせる。

「今すぐ検査して。それで、雨深ちゃんと子供作って」

 今まで余裕の表情ばかりを僕に見せていたカイが見たことない表情をした。待って、何も見えないわ、と頭を抱えるカイに、僕は昨日雨深ちゃんから聞いたことを伝えた。アロマンティックだということ、それでも子供が欲しいと思っていること、叶わないとそれを諦め、死のうとしていること。僕のまとまりのない説明と雨深ちゃんを生かす僕の案を、二人は静かに最後まで聞いてくれた。普通じゃないって分かってる。でも普通を貫き通してたら、雨深ちゃんが死んでしまう。

「…時間をちょうだい」

 僕の家が近くなった時、カイが言った。一週間後に、いつものカフェで会いましょう、と。

 ケトが僕のアパートの前に車をつける。下りようとした時に、ケトが僕の腕を掴んだ。

「それやったら、ホロは俺と結婚したらええんちゃう」

 シートベルトを取ろうとした手を止めて、どういうことと訊き返した。僕は雨深ちゃんが生きてくれていればいいんだ。僕とケトが結婚する意味が分からない。

「兄貴が雨深ちゃんと結婚して、ホロが俺と結婚したら、雨深ちゃんと家族になれるで。そんで四人で暮らしたらええ」

 僕はもう雨深ちゃんと会うことは無くて、遠目に見たり、カイからたまに聞いたりして、あぁ、生きる方を選んでくれたんだなって、それで幸せだと思った。それなのに、そんな欲張りなこと望んでいいの?

「僕はケトを、好きじゃないのに…?」

「そんな直球な…結婚してから好きになることもあるかもしれんやん?」

 これからも雨深ちゃんの近くで、雨深ちゃんの幸せを一緒に感じれるなんて、 そんな幸せなことはない。

「まぁ、一番大事なのは雨深ちゃんのキモチだけれどね」

 現実を突きつけるカイの声ではっと我に返り、雨深ちゃんには僕から連絡しておくからと言って、車を降りた。

「なんかあったら、今日みたいにすぐ電話せえよ」

 車の窓を開けて、手を振りながらそういうケトは言った。


 一週間後。平日の夜。いつもの席。勉強会とは違う、重たい空気が流れていた。雨深ちゃんとはあの夜以来会っていない。ただ、一週間後にカフェに来てほしいと連絡を入れて、分かったという返事が来たっきりだ。雨深ちゃんの向かいにカイとケトが座り、お誕生日席に僕が座る。重々しい雰囲気に、雨深ちゃんが僕を見たり、カイとケトを見たりと視線をきょろきょろさせている。飲み物が届いて開口一番にカイがバックの中から一枚の書類を取り出した。それを雨深ちゃんの方に向けてテーブルの上に広げる。書類には「精液検査結果」と書かれていた。そしてその隣に源泉徴収票と、現在の口座残高が表示されたインターネットバンクの画面が表示されたスマホを並べる。

「男性不妊検査は異常なし、子供がいても養っていけるだけの年収と貯蓄はあるわ」

 最初は理解が及ばず、雨深ちゃんは怪訝な顔をしていたが、すぐに意味を理解して僕を見た。話したの?と、落ち着いているけれど、困惑と怒りと色々入り混じった声。

「話したよ。それでカイと雨深ちゃんが結婚して、子供を作れば、雨深ちゃんの夢を叶えられると思ったの」

「そんなの、私だけがいい思いして…」

「私は雨深ちゃんが好きよ」

 震える雨深ちゃんの声を遮るように、カイが思いを告げた。

「だから、私は雨深ちゃんと家族になれるなんて、すごく嬉しい」

「全部聞いたんでしょう?私は恋愛として人を好きになれないんだよ?」

「構わないわ」

「でも、そんな…普通じゃない」

 雨深ちゃんはカイが出してくれた書類を突き返しながら、どうしたらいいのか分からないという風に僕とカイの顔を交互に見た。その様子を黙って見ていたケトが、コーヒーを一口飲んで口を開く。

「普通ってなんなんやろな」

 普通って単語は便利だけど、結局定義なんて決まっていない。好き同士の男と女が出会って、結婚して、子供が出来て、…それが普通なんだろう。

「そもそも俺ら、誰一人普通やないやん?今更、普通を求めんでもえんちゃう?」

 ケトの言う通りなのかもしれない。普通であることより、誰も犠牲にならず、幸せになることの方がよっぽど大切。雨深ちゃんは、ぎゅっと唇を噛みしめると、突き返した書類を再度引き寄せた。

「これって、犯罪とかにならない、よね…」

 その問いに僕達三人は張りつめていた気が抜けたように、笑ってしまった。

「ならないよお。雨深ちゃんは相変わらず面白いなあ」

 僕は不安げな雨深ちゃんの手を握って、顔を近づけた。

「四人で幸せになろう?」

 四人?と首を傾げる雨深ちゃんに、うんと答える。

「僕とケトも結婚することにしたの。だから、四人で一緒に暮らして四人で生きよう?」

 普通に適合できない不完全な四人で、誰にも迷惑をかけずに。

 雨深ちゃんは僕の手にもう片方の手を重ねて、瞳を閉じて小さく頷いた。


新居の広いリビングはまだろくに荷物が届いておらず殺風景で、買ったばかりの四人掛けの天然パイン材のテーブルと、雨深ちゃんが選んだデザインがバラバラの四脚の椅子のおかげで部屋らしさを保っていた。僕のお気に入りの椅子は座面がライトグレーで脚が木脚のデザインチェア。ふわふわのチェアマットをしいて、僕はいつもこの椅子に座る。そろそろ日付も変わる時間。雨深ちゃんは今日一日買い出しや家具の組み立てなどで疲れてしまったようで、寝室で眠りについている。僕はテーブルに婚姻届を広げ、必要箇所に記入をしていた。僕が埋める箇所以外は、既に全部記入済みだ。

「まだ書いてなかったんやな」

 リビングの扉が開き、入ってきた人物に声をかけられたが、僕は顔も上げずにうんとだけ返事をした。

「迷ってるん?」

 白Tシャツに短パン姿のケトが僕の真向かいの席に座り、婚姻届をのぞき込む。迷ってないよんと言って顔をあげると、ケトの顔が目の前にあった。ケトのメガネはブルーライトカットのためにつけているだけで、度は入っていない。寝癖のついた髪や、伸びた無精ひげが汚らしい男に引き下げているが、きちっとすれば世の中で言う「イケメン」という類に入るくらい、整った顔立ちにデコピンをくらわす。

「そんなに近くで見られてたら書きづらいんだけどお」

「…いったぁ」

 馨都が額を抑えながら、身を引き、椅子にちゃんと腰かけた。

「今更、結婚やめるなんて言わないよ。だって、僕にはこの方法しかないもん」

 僕は再度ボールペンを手にして、婚姻届にささっとペンを走らせる。

―妻になる人:三月 真帆蕗(みつき まほろ)

明日から高槻 真帆蕗になる。元々自分の苗字に愛着など全くもってない。明日から雨深ちゃんと同じ苗字になれるなんて、夢のようだ。他にも必要な個所の記入を手早く進める。全ての欄を書き終え、僕はその届をケトに差し出した。

「いや、俺に渡されても。明日一緒に行くやん」

僕はボールペンも渡して、椅子から立ち上がり、おやすみ、旦那様と、ひらひらとケトに手を振り、リビングを後にした。


 入籍当日。梅雨入り前の六月初旬。僕達のことを祝う気のない、土砂降りの天候。天気予報では快晴だったのに、とんだ嘘つき予報だ。

 僕が一番最後に家を出て、鍵を閉めた。家の目の前にはピンクベージュの可愛らしい軽自動車と七人乗りの黒光りする車。僕は黒色の車の後部座席のスライドドアを開けた。タイヤが大きくて乗りにくいので、こっちの車は嫌い。

「なんで雨深ちゃんの車で行かないの~?四人なんだから軽でもいいじゃん」

 僕がドアを閉めながら文句を垂れると、運転席に座る青年が後ろを振り向く。

「雨深ちゃん、今日は一層眠たいみたい」

 カイが窓に寄り掛かってすっかり夢の中の雨深ちゃんに目をやる。

「雨深ちゃんの車をカイが運転すればいいでしょお」

「軽って普段乗らないから運転しづらいのよね」

 カイがそう言いながら、車をゆっくり発進させる。僕もケトもペーパードライバーで車の運転はできないから、これ以上文句は言えない。僕は大きなため息をついて、嫌々シートベルトを締めた。

「今日ってどこのお店予約したの?」

 市役所で届を提出した後、僕達はお祝いのために食事に行くことにしていた。お店は雨深ちゃんが選ぶと息巻いていたが、どこか教えてくれず、結局当日を迎えてしまった。

「教えてもらってないから、道案内を雨深ちゃんにお願いしないとだわ」

 市役所までは車で十分程度。平日の午前中なのに、駐車場は思っていたより車が止まっていて、カイは僕達が濡れないように入口の前で下ろしてくれた。少し遠い位置に車を止め、傘を差して走ってきたカイと共に四人で受付に向かう。受付担当の男性には最初怪訝な顔をされたが、書類に目を通して驚きの顔をしながらも、何も言わずに手続きを進めてくれた。

「あちらでぜひお写真をどうぞ」

 奥から出てきた中年のふくよかな体形の女性が、雨深ちゃんに声をかけてきた。女性が指す先には想像していた通り、手作り感満載の撮影スペース。

「四人で撮ってもらってもいいですか」

 雨深ちゃんが自分のスマートフォンを撮影モードにして、女性に手渡しながら言う。

「弟さんたちと一緒に撮られるなんて仲がよくていいですね」

 うふふとにこやかにほほ笑む女性は、僕と馨都を雨深ちゃんの弟と勘違いをしているようだった。まぁ、弟といえば、今日から「おとうと」にあたるのかもしれないが。

「いえ、ここの二人も今日入籍した夫婦です」

 僕とケトを見ながら雨深ちゃんが淡々と告げるが、その言葉足らずな説明のおかげで余計に女性が混乱してしまった。

「え?あ、同性婚はうちの市では認められて…」

「畑山さん…!これ届です」

 受付を担当してくれた男性が婚姻届を二枚持ってきて、性別欄を指さしながら女性に渡した。届の内容を見て、目を瞠り、笑顔ではあるがどこか差別の目が滲む顔に変わる。

「あ、今はそういうのも流行ってますものね。じゃ、じゃあ、この届を持って、そちらに立ってください」

 そういうのって一体何なんだ。ペラペラな言葉を並べて、冷や汗をかきながら、畑山がスマホを構える。カイ、雨深ちゃん、僕、ケトの順に並んで、それぞれで婚姻届を持ってカメラの方を向いた。僕は嫌味のように満面の笑顔を向ける。

ありがとうございます、と雨深ちゃんはスマホを受け取り、代わりに届を返却した。

「可愛く撮れてるう?」

 雨深ちゃんに後ろから抱き着いて、画面をのぞき込む。

「撮れてる、撮れてる」

 相変わらず適当に僕の絡みを受け流す。撮った写真をろくに確認せずに画面を消す。

「なんやろ、紙出しただけやから実感ないな」

「え~、変わった感あるわよ」

 そう言いながら、カイは嬉しそうに雨深ちゃんの手を取った。雨深ちゃんの左薬指には昨日は無かったものが光る。指輪の金額をカイから聞いた時には正直引いた。雨深ちゃんも高額な指輪ということは理解しているのか、普段は箱に仕舞っている。

「兄貴とはほんまなんも合わんわ」

 ケトはカイの嬉しそうな笑顔を見ながら、肩を竦めた。結婚を決めてから聞いた話だが、カイとケトは腹違いの兄弟で母親が違うから、顔は全く似ていない。ケトは愛人の子供で、カイは本妻の子。高校生の時に母親が亡くなったケトのことを父親が引き取ったから、苗字は同じということだ。

「予約の時間って十三時やったけ?場所知らんけど、こっからどれくらいなん?」

 ケトが市役所の壁にかかっている時計に目をやる。時間は十二時を少し過ぎたくらい。朝食はろくに食べていないので、お腹がいやしい音を立てた。

 雨深ちゃんが、スマホの地図アプリで現在地から車で行った場合の所要時間を調べる。目的地の店名を見たカイが、そこ?と笑った。

「原点回帰は大事だから」

 原点回帰という単語を聞いて、画面を見ずとも、僕は雨深ちゃんがどこのお店を予約したのか分かった。僕からしたら、良い思い出と悪い思い出半分こっつ。

「行こっか」

 雨深ちゃんがスマホを斜め掛けのバックに仕舞う。バックについているマタニティマークのキーホルダーが、小さく揺れた


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