175話 信頼関係
一度、集落へと戻った一行。
「そうか。では本当にブライトンは、アシュリーの父親だったのだな」
一通りのテオの説明を聞いて、目を閉じたまま腕組みしているディロン。
テオは俯いたまま肩を落とした。
「……はい。すみません、皆さん。……アシュリーさん」
「……」
先ほどまでふらふらとしていたアシュリーだったが、今は落ち着いている。
しかし顔を伏せたままだ。ピリピリとした空気を纏っていて、いつになく近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。
「アシュリーさん、その……」
不安げなシャラが、そっとアシュリーの肩に手を当てる。
「――は、あはは」
が、乾いた声が発せられて、シャラはビクリと手を離した。
アシュリーが顔を上げる。憔悴しきった表情で、眼にも力がない。
「そっか。あたしのお父さん、英雄どころか罪人だったんだ。……バカみたいだよね」
最後の方は、声が震え掠れていた。
(こうなることは、わかってた。わかってたから……)
テオは耐えきれず、顔を背けてきつく目を瞑る。
しかしアシュリーは……
「もういいのよ、みんな。そんな顔しなくても」
やけに明るい声で、椅子から立ち上がった。
から元気だ。目元は寝不足かのように隈ができており、表情も引きつっているように見える。
彼女の正面に座ったテナイアが、心配そうに声をかけた。
「アシュリーさん?」
「そんなに心配しないでください、テナイアさん。あたしは、大丈夫です。ちょっと……受け入れる時間が欲しいだけ」
そう言って、皆から顔を背けながら部屋の中を歩く。
向かう先は、外への扉。
「――アシュリー!」
それを、鋭い声で遮る声が上がった。
マナヤだ。突然テオを押し退け表へと浮上し、呼び止めるように叫んでいた。
「アシュリー、すまん、俺は――」
「いいのよ、マナヤ」
謝ろうとするマナヤに、アシュリーは背を向けたまま淡々と語る。
「ただ……ごめん。今は、あたしを一人にして」
「アシュリー!」
「お願いだから!!」
鋭い声。立ち上がり近寄ろうしたマナヤの足が、止まった。
アシュリーは背を向けたままだが、やや頭を下げていて肩も震えている。
「……今だけは、ホントに一人になりたいの。お願い……っ」
切実な声だ。
マナヤは唇を噛み、押し黙ってしまう。
そのままアシュリーは勢いよく扉を開け、小屋を飛び出してしまった。
「……ッ」
一瞬手を差し伸べようとしたマナヤだが、すぐに腕を降ろした。
扉から顔を背ける。直後、ぐらりとその体が一瞬だけ揺れた。
「っ、あ、あれ、マナヤ……?」
再び浮上してきたのはテオだ。
マナヤが、自分の意識の底で落ち込んでしまっているのがわかる。
「……テオ」
シャラが声をかけてきた。
背後から肩に手が置かれ、テオも縋るようにそっと自分の手を重ねる。二人して、目を瞑った。
「とにかく今は、時間を置きましょう」
椅子に座ったまま、テナイアが静かに言った。
「アシュリーさんも、急に真実を知って今は混乱しているでしょうから」
テナイアのみならず、パトリシアまで暗澹たる思いを醸し出した様子で目を伏せていた。
一方、無表情のまま目をつぶっていたディロンは……
「……アシュリーが、父親のことでこれほど参るとは」
沈んだ声でそう呟いた。
テオもシャラも俯いてしまう。パトリシアはどうしていいかわからないといった様子で、オロオロと皆を見回していた。
「仕方がありません」
テナイアは努めて冷静さを保ちつつ、手元を見つめながら話し始めた。
「いつか父親に追いつく、という夢を、生きがいにしていたのでしょう。幼少の頃から抱えていたようでしたから……」
「夢ばかり追っていては生きてはゆけん。我々は、現実を見なければならない」
「ディロン」
間髪入れず、珍しく責めるような声で咎めるテナイア。
ディロンは鼻だけで嘆息した。
「……軽率だった。すまない」
彼は目を伏せて謝罪。
だがその後、すぐに視線が険しくなる。
「だが、今は至急対処が必要な状況でもある。ヴァスケスとダグロンを見つけはしたものの、奴らを止める手段を講じなければ」
「それは……」
テナイアが精彩に欠いた目で俯いた。ディロンは引き続き、今度は悔いるような声で言う。
「せめて、我々の共鳴を発動することさえできれば」
それを聞いたテナイアが、机の上で両手を祈るように組んだ。
二人の共鳴、『千里眼』。一定範囲内のあらゆる状況を『観る』ことができるあの能力を使えれば、ヴァスケスやダグロンの位置を探ることが可能だ。その上、突然の攻撃魔法で奇襲してしまうこともできたはず。
しかし、今はまだ……
「とはいえ」
だがディロンは突然、無表情に変わり席を立った。
「無いものねだりをしてもしかたがない。我々は現実を見なければならない。……テオ」
「は、はい」
震える声で返事をするテオ。
ディロンは、感情を抑えた視線を向けてくる。
「召喚獣で川を移動する方法で、召喚師解放同盟に追いつけるか?」
「……慣れている人なら、今ならできるかもしれません。パトリシアさんとか」
と、ちらりとパトリシアへ視線を向ける。彼女は驚いたように顔を上げ、しかし不安げに身を縮こませた。
テオはしかし、再度ディロンを見上げた。
「でも、それをやるわけには……」
「わかっている。ダグロンは、召喚獣の制御を奪えるからな」
ディロンも察し、頷いた。
召喚獣に乗って川を移動する以上、どうしてもダグロンにその召喚獣を操られる可能性がある。迂闊に追えば、逆にこちらが命取りだ。
「ダグロンのあの能力をなんとかせねばならん。私とテナイアも対策を練る。君たちも何か手がないか、考えておいてくれ」
そう言い残し、出口へと向かう。テナイアもそれに続き、パトリシアに身振りで促した。
「……」
その様子を目で追うテオ。
皆、自分を責めているという雰囲気ではない。それは、なんとなくわかった。
けれども……
(なにか、変わったのかな。僕が、事前にアシュリーさんに伝えていれば)
せめて、『敵』から暴露されなければ違ったのだろうか。
それとも、事前に伝えても同じようにアシュリーは沈んでしまっただろうか。
答えが見えない。
「大丈夫? テオ」
「う、うん。ごめん、シャラ」
なおも不安そうにこちらの顔を覗き込んでくるシャラに、なんとか返事を返す。
シャラはふるふると首を振った。
「ううん、いいんだよ。……でも、ちょっと寂しかったかな」
「え?」
シャラの言葉に顔を上げる。
彼女は、少し目を伏せながらそっと視線を逸らしていた。こちらを疎んでいる、という表情ではない。
「アシュリーさんに言い出しにくかったのは、わかるよ。でも……だから、私にだけは、相談して欲しかったな」
「……ごめんね」
ずきりと胸が痛んだ。
許しを請いたくて、自然とシャラに体を寄せる。彼女は受け入れるようにそっとテオの背に手を回してきた。
「……このことは」
忸怩たる思いで口を開くテオ。
「アシュリーさん以外の人には、できれば聞かせたくなかったから……だからシャラ、ごめんね」
「そ、か……そう、だよね」
こつんと、シャラと額をぶつけ合った。
◆◆◆
次の日の朝。
テオとシャラが起床し、おそるおそる朝食の場に姿を見せると……
「――おはよ、二人とも」
後ろから、アシュリーの声。
振り返ると、彼女は笑顔を振りまきながら手を挙げてきている。振舞いだけは、いつも通りだ。
おどおどしながら、テオも挨拶を返した。
「お、おはようございますアシュリーさん」
「おはようございます。……あの、アシュリーさん大丈夫ですか」
シャラもそれに続き挨拶を。
が、アシュリーの目には泣き腫らしたような痕がかすかに残っている。笑顔も、どこかぎこちない。
「ええ、大丈夫よ。そのくらいで、へこたれてられないから」
そう言って、どうということはないと言わんばかりにヒラヒラと手を振るアシュリー。
ズキリと、テオの胸が痛む。
――テオ。替わってくれるか。
(マナヤ。……うん)
心の中からマナヤの声。
ひとつ頷いたテオは、いったんアシュリーに訊ねてみる。
「アシュリーさん。……マナヤが、会いたがっているんですけど。いいですか」
「あ……う、うん。お願いね、テオ」
少し表情が硬くなりながらも、アシュリーが頷いた。
一度深呼吸したテオ。横からシャラの心配そうな顔を向けられつつも、目を閉じてマナヤと交替する。
「――アシュリー」
鋭いが、いつもよりどこか控えめな目つきになったマナヤが、アシュリーを見つめる。
「っ!」
途端に、アシュリーがビクリと身震いした。
ざ、と一歩後ろへと下がっている。無意識下の行動だったようだ。アシュリー自身も、思わず後ずさってしまった自分に戸惑っているように見える。
「っご、ごめんマナヤ」
「……」
「大丈夫。すぐ、慣れると思うから。……大丈夫」
気丈にそう言い張るアシュリー。
だが……
(……そんな顔になっといて、なに言ってやがる)
彼女は気づいているのだろうか。
自分の目が猜疑心に満ちたものになっていることに。
今なお、真っすぐにマナヤの目を見つめ返すことができていないことに。
「――あ、マナヤさん! マナヤさんですよね!」
そこへ、場違いに明るい声の持ち主がパタパタと駆け寄ってくる。
パトリシアだ。
「おはようございます! 良かった、昨日あんなことがあって、もう出てきてくれないんじゃないかって心配してたんですよ!」
そう言ってマナヤのもとへと駆け寄り、爽やかに笑いかけてきた。
「お、おう、おはようパトリシアさん」
「みんな、奥の広場で待ってますよ。ほら、行きましょう」
パトリシアはマナヤの腕を取り、ぐいぐいと引っ張っていく。場違いなほど笑顔だ。わざとらしく、マナヤの腕を自身の胸に押し付けてきている。
「おいっ、パトリシアさん、そういうのは――」
「いいじゃないですか。わたしは誰かさんと違って、マナヤさんを嫌う理由なんかないんですから」
パトリシアが、あてつけるように言い放った。ぴくりと、アシュリーが身を震わせるのが視界の端に映る。
「なッ、一体何を……!」
マナヤは顔を引きつらせ、慌ててパトリシアの腕を振り払った。
だが彼女はまたすぐ体を寄せてくる。
「だってわたしは、ブライトンに家族を殺されてますから。わたしを助けてくれて、仇も取ってくれたマナヤさんには、感謝しかありません」
どこか、勝ち誇ったような表情だ。
背後から聞こえるため息。そして、その場から立ち去ろうとする足音が。
「ちょ、ちょっと待てアシュリー!」
乱暴に、パトリシアの手を振りほどく。
すぐさまアシュリーの背を追い、その腕を掴んだが……
「!!」
その瞬間。
弾かれるようにマナヤの手が思いきり払いのけられた。
「な……」
マナヤの表情が凍り付いた。
アシュリーの顔に、憎悪と恐怖が入り混じっている。昨日、ダグロン達が去っていった直後と、同じ顔だ。
「っ……ごめん、なさい……」
一瞬の間の後、バツが悪そうに顔を背けるアシュリー。
「アシュ、リー……」
「ごめん。自分でも、わかんないの」
全く気持ちの整理がついていない様子だ。顔を背けたまま、自分のコートの胸元を握りしめている。
「お父さんが、死んだこと……そのことだけは、覚悟できてたのに……」
「……」
「なのに……お父さんが人殺しで……マナヤが、殺してたって………どうして、こんな……!」
両腕で自身の体を掻き抱き、震えているアシュリー。
そんな彼女を抱き寄せようと腕を伸ばし……
「……ッ!」
途中で、止まった。
アシュリーが、息を呑む音によって。
「あ……マ、マナヤごめん、あたしまた」
「いや」
今度は、マナヤの方から背を向けた。
「まだ、割り切れねえんだろ。少しずつ慣れていけ」
「……うん」
そのままマナヤは、広場へ向け歩き出す。
「俺は飯食った後、防衛機構の状態を見回ってくる」
アシュリーの足音が追いかけてきた。
だが、足取りが重いようだ。徐々に距離が離れていくのがわかる。
「あの、マナヤさん……」
シャラが隣へと追いつき、声をかけてくる。
しかし……
「さ、行きましょう? マナヤさん!」
逆側からパトリシアも追いつき、腕に縋りつくような形で明るい笑顔を向けてきた。
とは、いえ。
――コの女の頭ヲ、ミノタウロスの斧デ叩き割っテしまエ――
マナヤの目には、パトリシアを殺すビジョンばかりが広がっていた。
◆◆◆
夕刻、集落の門前で……
「――だから! あたし達も捜索に出れば、そのぶんあいつらを見つけやすくなるでしょ!?」
「だから言ってんだろ! この集落を無防備に放置する気か!?」
アシュリーとマナヤが、激しく口論している。
なにごとかと周囲の集落民が集まってきていた。シャラが戸惑いながら二人の間に割って入る。
「お、お二人とも、落ち着いて……」
「ディロンさんとテナイアさんの二人がかりで、まだ神殿すら見つかってないんじゃない! だったら捜索の手を増やすしかないでしょ!?」
「せめて二人が帰ってきてからにしろっつってんだ! 誰も護衛に残ってない時に、召喚師解放同盟が攻めてきたらどうする!」
だがアシュリーもマナヤも、まったく興奮が収まらない。
「どうせ残ってたって、対抗できないじゃない! あいつらが攻めてきたら、あんたに至っては召喚獣を奪われちゃうんでしょうが!」
「ッ、だ、だからって放置してなんていけるかよ!」
「残ってたって役に立たないんでしょ!? だったらせめて情報を集めるくらいの気概は持てないワケ!?」
「な――」
役に立たない、と正面から言われ、思わずカッと頭に血が昇った。
「お前っ、お前はお前で、ただ単に召喚師解放同盟に八つ当たりしようとしてるだけじゃねえか!」
「っ……」
「あいつらの居場所を今見つけたって、対抗策を見つけなきゃどうしようもねえだろが! なのに無駄に奴らに拘ろうと――」
「ふざけないで!」
キッ、と敵意すら籠った目でアシュリーが睨みつけてくる。
眼の端に、涙が光っていた。
「あんたがそれを言うの!? あんな奴らに後れを取ったあんたが!」
「!」
「あたしのお父さんを殺したくせに、偉そうなこと言わないでよ!!」
一瞬にして、その場が静まり返る。
マナヤもシャラも絶句し、周囲の者たちも顔を見合わせていた。
「え……マナヤが、剣士さんのお父さんを殺した?」
「うそ……」
「お、おい、やっぱりコイツ、ヤバイ奴じゃないか!」
ヒソヒソ声でざわめきはじめる集落民たち。
シャラが蒼い顔になる中、アシュリーもハッと気づいて怒りの表情を消した。周囲を見回し、反射的に自身の口から出た言葉に絶句している。
「あ……」
「……」
マナヤは、無言のまま俯いた。
一歩二歩と後ずさるアシュリー。後悔に満ちた顔をしているが、そのまま――
「っ!」
その場から走り去ってしまう。
「アシュリーさん!?」
慌ててシャラが声をかけたが、アシュリーは止まらなかった。
追いかけようとするシャラだが……
「なんなんだよ、マナヤ!」
「アシュリーさんのお父さんを殺したって、どういうこと!?」
「あんた、いったい何をやらかしたんだ!」
周囲の厳しい視線がマナヤに向けられているのを見て、足を止めていた。
「み、みなさん、そういうことじゃないんです!」
シャラはすぐさま声を上げた。
が、集落民の声の方が大きい。次々と罵声をマナヤに浴びせかけ、周囲にどんどん伝播していく。何事かとさらに人だかりが増えていった。
マナヤは、俯いたままその罵声を受け続けるのみ。
だが――
「――やめてください、みなさんっ!」
突然、パトリシアが飛び出してきた。
マナヤの前に立ちはだかり、庇うように両腕を広げて民衆を睨みつける。人を怖がっていた以前のパトリシアでは、考えられない行動だ。
「マナヤさんがアシュリーさんの父親を殺したのは、その父親が殺人鬼だったからです!」
「な、なんだって?」
パトリシアの熱弁に、集落民のざわめきが変わり始めた。
シャラが目を丸くする。なおもパトリシアは周囲へと呼びかけ続けた。
「マナヤさんは、そんな殺人鬼に囚われていたわたしを、助けてくれたんです! だから今、わたしは暖かいご飯を食べて、自由に生きていられる!」
「……」
民衆は押し黙り、お互いの顔を見合わせた。バツの悪そうな顔だ。
パトリシアが、怒りすら籠った目で皆を見渡す。
「そんなマナヤさんは、私にとって救世主なんです! 罪のない人々を殺すような男を、制裁してくれたんです!」
「……パトリシアさん」
思わず感極まった声で呟くシャラ。
マナヤも、虚ろな目ながら顔を上げ、パトリシアをじっと見つめていた。が。
「むしろ、そんなマナヤさんを責めるアシュリーさんの方がおかしいんですよ!」
「ッ!」
パトリシアのその一言に、マナヤの表情は険しいものに変わった。
彼女を横に押し退ける。そのまま、茫然としている集落民を掻き分け、その場を立ち去っていった。アシュリーが去ったのとは逆方向だ。
「あ、マナヤさん! わたしも――」
後から追いかけてきたパトリシアだが、マナヤはそれを……
「ついてくんな」
底冷えするような声で、制する。
ビクリと身を震わせたパトリシア。彼女の足が止まったのをいいことに、マナヤは足早に立ち去ろうとする。パトリシアは凍り付いて動けない。
「マ、マナヤさん!」
が、シャラはなおも懸命にマナヤに追いすがり、問いかけてきた。
「アシュリーさんを追わないんですか!?」
「……追わねえよ」
「マナヤさんっ!」
シャラの強い声に、マナヤは足を止める。
だが……
「俺に、あいつの傍にいる資格はねえんだ。理由はどうあれ、あいつの父親を殺しちまった俺には」
「え……」
「あいつの傍にいたって、あいつを傷つけるだけ。ありがた迷惑なだけだよ」
そう言って、また先へと歩き出すマナヤ。
シャラは足を止めたまま、そんな彼の背を見送った。
◆◆◆
「……」
その日の晩。
集落の皆が寝静まった頃に、こっそりとそこを抜け出す人物が一人。
赤いサイドテールを暗闇に紛らせた女剣士が、沈んだ表情で夜の森に入っていった。
向かう先は、領都の方角。
一歩進むごとに、雪が踏みしめられ軋むような音が響く。
「っ!」
――小枝を踏み抜くような音。
女剣士は即座に反応し、弾けるようにこちらへ振り返った。そこにいたのは……
「……アシュリーさん」
木陰から姿を現したシャラが、集落を去ろうとするアシュリーにそっと声をかけた。
息を吐いたアシュリーは、気まずそうに顔を伏せる。
「……どうして、わかったの」
「これのおかげです」
シャラは、そっと自分の右手首を掲げた。
そこにはまっているブレスレットは、錬金装飾『森林の守手』。一定範囲内で、敵や人の気配と位置を察知できるようになるものだ。
「どうしても、行っちゃうんですか」
そう問いかけたが、アシュリーは顔を背けてしまう。
「嫌、なのよ」
そのまま、ぽつりと言葉を漏らした。
シャラが確認するように問いなおす。
「マナヤさんのことが、ですか?」
「そうじゃない! そうじゃないはず、なのに……!」
大声で喚くアシュリー。
瞳から、大粒の涙が次から次へと溢れ出す。
「あたしの、お父さんが……人殺しだった。だから、マナヤはそれを止めた! それはわかってる!」
「……アシュリーさん」
「なのに……なんで、割り切れないのよ! なんでマナヤと顔を合わせる度、どんどんあいつのこと嫌いになっていっちゃうのよ!!」
左手で片目を覆いながら、アシュリーは俯いて涙を流し続けている。シャラはただ、悲痛な思いで彼女を見つめていた。
一度、アシュリーが鼻をすすると……
「……こんなことなら、マナヤのことなんか好きにならなきゃ良かった。もともと、別に好きでもなんでもなかったのに」
「アシュリーさん!?」
とんでもないことを言いだした。
思わずシャラが声を荒げる。けれどもアシュリーは、勢いに乗ったように喚き始めた。
「だってそうでしょ!? あたしは最初は、あいつのことそういう風には見てなかった! あんたが、あたしを焚きつけたんじゃない!」
「私、が……?」
「そうよ! マナヤのことをどう思ってるか、なんてあんたが訊くから!」
スレシス村での話だ。
マナヤ自身の幸せを掴んで欲しくて、『アシュリーさんは、マナヤさんのこと、どう思っていますか?』と問うたことがあった。
「あんなこと言われなきゃ、別にマナヤのこと意識なんてしなかった」
「……そんな」
「こんな気持ちは、しょせん偽物の気持ちだったのよ!!」
「それは違います、アシュリーさん!」
シャラが咎めるように声を張った。
が、アシュリーは怯まなかった。まだ目尻に涙を溜めたまま、キッと険しくシャラを睨みつけてくる。
「違わないわよ! だってあいつは召喚師で、あたしは剣士なんだから!」
「アシュリーさん!」
「だいたいあいつだって、同じ召喚師のパトリシアさんと一緒に居た方が意気投合できるじゃない! あたしには結局、召喚師の気持ちなんてわからないんだもの!」
肺から絞り出すようなアシュリーの叫び。
シャラは言葉に詰まった。アシュリーはなおも、溜め込んだものを吐き出すかのように喚き散らす。
「マナヤにとってあたしは、自分が殺した男の娘で、面倒くさい相手なのよ!」
「違――」
「パトリシアさんなら、何の気兼ねもいらないじゃない! あの人は、ただ純粋にマナヤに助けられただけ! マナヤが負い目を感じる部分なんて、あの人には無いんだもの!!」
これほどまでに憔悴しているアシュリーを、シャラは初めて見た。
(……アシュリーさん)
だが、彼女が抱える『劣等感』にも似た感情は、シャラにも痛いほどわかった。
「でも、アシュリーさん」
こんな言葉は、逆に彼女を追い詰めるだけかもしれない。
けれどもシャラは、言わずにはいられなかった。
「マナヤさんの状態、知っているはずです。マナヤさんを支えられるのは……アシュリーさんしかいないんです」
「……そのうち、パトリシアさんもできるようになるわ」
「そんなことにはなりません。わかってるはずじゃないですか。マナヤさんはずっと、アシュリーさんしか見てませんでした」
ギリ、とアシュリーが歯ぎしりをする音が夜の森に響いた。
「……そのマナヤは、あたしのお父さんの仇なのよ」
「本当に、そうなんでしょうか」
「え……」
茫然と顔を上げるアシュリー。
シャラは、おもむろに視線を和らげた。小さく唇に弧を描き、諭すような声で彼女に語りかける。
「アシュリーさん。マナヤさんが殺した人は、本当にアシュリーさんのお父さんなんでしょうか」
「な、にを、今さら……孤児院長さんだって、アーデライドさんだってそう言ってたんでしょう!? あんただって聞いてたじゃない!」
ムキになって言い返すアシュリーだが、しかしシャラは冷静なまま。
正面から、凛とした視線でアシュリーを見つめる。
「アシュリーさんは、本当にそれでいいんですか?」
「なに、よ、それ……」
「アシュリーさんのお父さんは、英雄だったはずです。それを――」
しかし、シャラの言葉が続く前に、アシュリーが視線を荒げた。
「ふざけないで! 今さらそんなものに、何も意味なんてないじゃない!」
「アシュリーさんっ!」
「うるさいっ! あんたに何がわかるっていうの!?」
ぼろぼろと大粒の涙を零しながら、アシュリーはもはや焦点の合わぬ目を向けて泣き叫ぶ。
「立派な両親に育てられたあんたに、あたしの気持ちなんてわからないわよ!!」
シャラの横を強引に走り抜け、領都の方向へと走り去ってしまった。
(アシュリーさん……)
思わず伸ばした手。
けれど、シャラはそれをゆっくりと引っ込め、胸元で握る。
言い方が、まずかったかもしれない。
英雄の父に追いつきたい、アシュリーはただそれだけを心の支えにしてきていたはずだ。
それを否定され、自分の夢を否定されてしまった彼女に伝えるなら、別のやり方をするべきだったのかもしれない。
シャラは、後悔に俯いてしまう。
けれどもすぐに顔を上げ、彼女が走り去った先へ、光を飛ばした。
「――アシュリーさん、行っちゃいましたね」
突然、背後から女性の声。
シャラが振り向くと、緑の長髪を揺らしながらこちらへ歩み寄ってきた者の姿が浮かび上がってきた。
「パトリシアさん……?」
「お父さんを殺されたアシュリーさんには、マナヤさんのお相手は荷が重かったってことじゃないですか?」
にっこりと妖艶な笑みを浮かべながら近づいてくるパトリシア。
シャラは思わず心がざわついた。この状況下でそんな言葉を言える彼女のことが、信じられない。
「どういう、ことですか」
「これでアシュリーさんって邪魔者がいなくなって、わたしがマナヤさんの傍に堂々といられるってことです」
と、屈託のない笑みでそう宣言するパトリシア。
たまらずシャラは激昂した。
「何を言っているんですか! こんな時に、なんてことを!」
「だって今までアシュリーさんがいたから、わたしは遠慮してたんです。これで、マナヤさんはわたしが独占できますよね?」
この人は、一体何を言っているのだろうか。
あの二人の絆を今まで見ていて、それで二人が離れ離れになることを、喜ぶなど。
「あなたに、マナヤさんは渡せません」
シャラは背筋を伸ばし、まっすぐにパトリシアを見つめてそう言い放った。
だがパトリシアは、かすかに首を傾げて問う。
「あら、どうして? あなたに、マナヤさんが誰と結婚するか決める権利があるの?」
「あります。マナヤさんは、テオと同じ身体にいるんですよ」
「関係ないでしょう? だってシャラさん、あなただってアシュリーさんがマナヤさんと一緒に居ること、認めてたじゃない」
急に敬語を辞めたパトリシア。
挑戦的な彼女に対し、シャラはなおも真っすぐにパトリシアを見返した。
「私は、相手がアシュリーさんだから納得していたんです」
今度はシャラの方からパトリシアへと歩を進める。
パトリシアが一歩後ずさった。気迫に押されたか、うろたえたように顔を曇らせ、怯えの表情を見せはじめる。
シャラはとつとつと語り続けた。
「マナヤさんのことだけじゃなく、テオのことも、私のことも……みんなが納得できるように、みんなのことを心から案じてた人だから。だから私達は、アシュリーさんのことを歓迎してたんです」
「な、なによ、それ……」
「それなのにあなたは……夕方だって、マナヤさんの前でアシュリーさんのことを蔑むようなことまで言って」
たじたじとなり、目を逸らしてしまうパトリシア。
シャラはきっぱりと言い放った。
「マナヤさんの心を案じず、自分自身の気持ちしか考えていないあなたに、マナヤさんのことは任せられません」
パトリシアが、ぶるっと体を震わせる。
しかし、それでもなんとか踏みとどまり、キッとシャラを睨みつけてきた。
「そ、そんなこと言ったって、アシュリーさんは離れていっちゃったじゃない!」
「……」
「わたしだって、父さんと母さんをブライトンに殺されてるのよ。あの男のことは、殺したいほど憎んでた。親の仇を許す人なんて、いないわ」
自分自身に言い聞かせるように、冷や汗をかきながらも話し続けるパトリシア。
「あの二人は、もう戻らない。アシュリーさんは、マナヤさんを捨てたのよ」
「……私は、信じています」
しかしシャラは、ふわりと柔らかい笑みを浮かべた。
「アシュリーさんは、きっと帰ってきてくれる。私は、そう信じています」
自信に満ち溢れた、慈愛すら感じるようなその微笑みに、パトリシアは言葉を失った。




