自殺者、15895人。そのうちの一人の話
15895人という数値は、令和三年度自殺者数の九月までの速報値である。
さて、これから彼の自殺の話をするのだが、正直言ってまるで漫画や小説だ。
典型的な、組織に殺された人間の話である。
彼とは数年ほど一緒に仕事をしていた。バディを組んでいたこともある。
その彼から、珍しく深夜に電話があり、業務上のある件について「全部言います」と告白された。
私は、彼を含めた数名が、すでに内部で事情を聞かれている事を知っていたし、当然私にも話は及ぶだろうと考えていたので、君が隠さないのであれば私も嘘をつかないと、話をして電話を切ろうとした。その際「お休みなさい、お休みなさい」と彼が言った。
「お休み」これをちゃんと返さなければ、電話を切らない彼の癖である。よく彼がビデオ通話で子供たちにしているのを、私は何度も聞いていた。正直彼が、深夜に電話をかけてきた時点で「嫌な予感」がしていたが、この事で少なくとも今は、そんな気はないのだろうと思った。家を建てたばかりで、妻子もいる。両親だって、確か近場に住んでいるはずである。そこまで、仕事人間という風の男でもなく、交友関係も広い。もしこれがきっかけで仕事を辞めるにしても、いくらでもやり直せる人間だ。
私は、安心して「お休みなさい」と言って電話を切った。
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結論から言えば、彼はその二十四時間後に死んだ。
体格の良い、筋骨隆々の男がロープ一本で死んでいた。高台の公園で、木から吊り下がっていた。
訃報を私は最初信じることが出来なかった。
一番死ぬ事の無い人間だと思っていた。
人付き合いも無く、独身でこの仕事以外無いもないというような人間だったのなら話はまだ分かるが、先に書いたように、彼はその真逆である。
もし理由が、業務上の事での責任感であれば彼一人のせい、というわけでもなかったし、確実に死ぬほどの事ではない。仲間内からだって、彼を責め立てる声をは聞かれない。
あるとすれば、「全部言います」その告白を受け取った相手に、どのような叱責、返答を受けたかだと私は思っている。
しかし、最後の日の事は、握りつぶされるだろう。「何も言っていない」その一言で終わりにするのだろう。権力を使い、口を封じ有耶無耶にする筈である。
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未だに、職場には何の説明もなく、皆通常通りの業務を行っている。
もちろん、すでに彼の部署には人員が補充されている。確か一週間ほどで配属された筈である。
まともな事ではないのだ、私も含め。
人間が一人死に、その理由の説明もない。口に出そうものなら白い目で見られる。上司に理由を聞くこともできない。そんな状況で、日々の業務をこなしていっている。
ようやく気付いたが、この世界は糞である。
人間一人死んだくらいでは何も変わらない。
斜に構えた、漫画やアニメ、ゲームで散々使い尽くされた台詞だったが、実際全くその通りだった。
何より悔しいのは、彼が家族を否定したことだ。
まだ、小さな子供。妻、両親。その全てを否定したことである。あれだけ毎日人間に囲まれてなぜ死にたくなるのか?これから家族が、気づいてあげられなかったという思いでどれだけ苦しむ事になることか。
私には、もう人生において何を信じたらよいか、分からない。
私に無い物をすべて持っていた人間が、その全ての価値を否定したのだから。
彼は、あの公園に向かう最中、一体何を考えていたのだろう……。
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この世界は糞である。
だが、未だにこの「事件」について、糾弾する事もなくのうのうと生き、保身の為に曖昧な文章で書き綴ることしか出来ない私は、糞以下である。