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迷ってる? 第一話  作者: 佐倉蒼葉
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第5章

 今日も僕は掃除と洗濯を済ませて、早めに昼食をとり、ふるさとの園の昼食時間が終わる頃に合わせて家を出た。晩夏の日差しはまだ暑く、それでいてカラッとしていて、自転車を漕いで走るのも心地いい。僕は柳さんのカラカラという笑いを思い出しながらふるさとの園に向かった。

 ふるさとの園に着くと、僕は自動ドアからスッとまっすぐ食堂に行こうとした。すると受付の人に「ああ、ちょっと」と呼び止められた。

「ご面会ですか?お名前の記入をお願いします」

「あ、すみません…」

 面会者票には面会相手と自分の名を記す欄があった。僕は『柳宗一郎』『八神陽一』と書いた。受付の人は僕を覚えていて、「昨日、見学にいらした方ですよね。ご親戚ではないようですけど…」と、じろじろ見られた。

「見学の時に柳さんと親しくなって、今日会う約束をしてるんです」

「柳宗一郎さん…ちょっと待ってくださいね」

と、受付の人は内線電話で誰かと話していた。「はい、ご面会の方で。ああ、やっぱりそうでしたか。わかりました、そのように伝えます」

と言う真顔で、僕は不穏な雰囲気を察した。

「柳さんは昨夜から風邪の症状があって、今朝になって悪化したので緊急入院されています」

「え…どこですか、病院」

 僕は近くの総合病院だと教えられ、「行ってみます」と外に飛び出した。

 そうだった、事故と違って病死だから、その前から悪化する事もあったんだ……と、自分の浅はかさを悔やんだ。

 病院に着いて受付で尋ねると、柳さんは集中治療室にいるとの事だった。「面会を…」と言うと、

「柳さんは肺炎を起こしていて、ご家族以外の方は面会できません」

 と言われた。

「感染の恐れもあります。廊下のガラス窓からご様子は窺えるので、そちらの廊下を奥に行ってください」

 僕は言われるがまま、廊下を進んだ。窓ガラス越しに、柳さんが見えた。口と鼻を覆う酸素吸入器をつけられ、眠っているようだった。

 ガラスにへばりついている僕に気づいた看護師が、治療室から出てきて「柳さんのご親戚ですか」と尋ねた。

「いえ…知り合いです」

「ご親戚とはお知り合いではないのですか?」

「はい。…あの、親戚って…来てないんですか」

 柳さんが「独り身だよ」と言っていたのを思い出していた。

「ホームの方から連絡はしたようですが…いらしてませんね。どうもお住いが遠いようです」

「そんな…」

 ───あと六時間。このまま何もできずに終わってしまうのか…?

「あの、親戚の方は来られるって言ってましたか?」

「駆けつけてくれるようですが、いつになるかは…」

 看護師がガラス窓を振り返って言い、「これから峠になると思います」と僕を見た。僕は「目が覚めるまで待ってていいですか」と訊いた。

「親戚の人の代わりに僕が面会しちゃダメですか。来られないかもしれないんです」

「先生に訊いてきます」

 看護師は治療室に戻って、奥の方へ消えた。カーテンで向こうが見えない。僕は窓越しに「柳さん…」と呼びかけた。柳さんはピクリとも動かなかった。

 やがて戻った看護師が「先生から許可が下りました。意識が戻ったら、少しの時間なら面会してもいいそうです。どこでお待ちになりますか?意識が戻ったらご連絡差し上げる事もできますが」

「いえ、ここで」と僕は連絡は必要ない、と手のひらを向けて示した。

「少しでも長く側にいたいんです」

 看護師は不思議そうに「柳さんとはどういうご関係で?」と尋ねた。僕は背筋を伸ばして答えた。

「友達です」

 そうだ、僕は柳さんの将棋仲間になったんだ、と思った。年齢なんて関係ない、楽しみを分かち合う、友達だ。

 ≪孤独な時間を長くさせるなよ≫

 柳さんのこれまでの孤独を、埋められるかはわからないけど───

 ただ、側にいたかった。

 僕は集中治療室の前の長椅子に腰を下ろし、膝に肘をついて両手を組んだ。

 祈る心地だった。目を覚まして欲しい───このまま逝ってしまっては嫌だ。

 無論、そうなれば僕は柳さんの霊と会う事ができるのだが、生きている柳さんの思い出になるようなものをあげたかった。

 だがもう、柳さんは将棋もできない。僕にできる事は何だろう。

 ≪死神ったって人間だ。できる事とできねえ事があらあな。よく言ってたよ、死神なんて無力だってな≫

 親父が言っていたという言葉が思い出された。

 本当だ。僕は無力だ。

 刻々と、時間が過ぎてゆく。僕は疲れて、トイレに行った。並んだ個室の一つに入ると、呼びもしないのに紙が落ちて来た。

『まもなく老人は目を覚ます。こんな事は言いたくなかったが、死神として最期を看取ってやれ。それがおまえという死神だろう』

 僕は「…ハ、」と小さく笑った。

「なんだよ、今日は優しいじゃん…」

 返事はなかった。僕がトイレから戻ると、先程の看護師が「柳さん、気がつかれましたよ」と声をかけて来た。僕は看護師の後に続いて治療室に入って、柳さんの側に立った。椅子を勧められて腰掛けた。

 柳さんは僕の顔を見て「おお…来てくれたのか、少年」と目を細めた。震える手で呼吸器を外し、ヒュー、ヒュー、と呼吸を挟みながら言った。

「…すまんな。…約束を…してたのにな…。私は…もうもたない…ようだ…。やっと…つれあいの…所に…行けそうだ…」

「僕がついてますよ」

 柳さんの手を握り、呼吸器を戻した。

「ずっと…ついてますから…」

 手をぎゅっと握ると、震える指が僕の手をそっと握り返した。

「僕は柳さんの友達です。将棋、勝てないけど、できるようになりましたよ」

「そうかい…」と言うと呼吸器が曇った。声がくぐもっている。「残念だよ…腕前を…見たかった…」

「僕も鍛えて欲しかったです」と微笑んでみせた。

「柳さん…。僕は、死神です。お迎えに来ました。……こんな形で、出会いたくなかったなあ…」

 握った手を額に当てて、僕は俯いた。涙を見せたくなかった。

「…だから、柳さんが安らかな気持ちで天国へ行けるように、僕が案内しますから…」

 はあ、と息が洩れた。涙を堪えて息継ぎが難しかった。

「どうか…安心して、眠ってください…」

「ありがとう…な…。少年…名前は…なんていうんだい…?」

「陽一です」

「いい名前だな…陽一。最後に…君とじいさんに…会えて…、嬉しかったよ…」

「…もう、喋らないでください。苦しいでしょう…」

 苦しいのは僕の方だったかもしれない。握った手を離す事ができなかった。

「ありがとう、陽一」

「僕の方こそ…」それ以上は言葉にならなかった。涙が声の邪魔をした。

 柳さんが目を閉じた。話が終わったのを見計らってか、看護師が「もうお戻りください」と声をかけて来た。

 廊下に出て腕時計を見た。あと一時間───

 僕はまたトイレに行き、個室で溢れる涙もそのままに、はあ、はあ、と息継ぎをして泣いた。

 俯く僕の頭に何か乗った───お告げだ、とわかって紙を手に取った。

『老人の意識はもう戻らない。霊が現れたら病院の脇道の坂を登れ。途中に地蔵尊が祀ってある。そこに天界への入り口を開く。これも言いたくないが、老人の親戚は最期に間に合わない。それを責めるな。遠くから駆けつけるのだから』

 わかったよ……と、声が出なかった。

 ようやく涙を止めて、僕は廊下の長椅子に戻った。

 何もできずに、ただ、人の死を待つ。

 これが死神の仕事なら、なぜ僕の家は代々こんな仕事をして来たのか。

 親父なら何て言うだろう───

 僕は立ち上がり、またガラス越しに柳さんを見つめていた。時折激しく咳き込み、その後暫くはヒュー、ヒュー、と大きく呼吸する音が微かに伝わった。一度、柳さんが薄く目を開けてこちらを見た気がした。ほんの一秒の事だった。それをただ、見つめているだけの僕。無力だ、とまた思った。

 ───柳さんが静かになった。眠ったようだった。

 やがて、その時がやって来た。医師と看護師たちが僕の前に並び、「ご臨終です」と告げた。頭を下げて、廊下を去ってゆくのを見送っていると、治療室から柳さんの霊が出て来た。

「君、ずっといてくれたのか」

「…言ったでしょう。ずっとついてるって」

 柳さんは苦笑して、「本当に死神だったんだな。…いや、天の御使と言うべきか」

「そんな立派なものじゃないですよ…天国へ案内するだけなんですから」

 僕は柳さんの背中に手を当て、「行きましょう」と歩き出した。

 それとすれ違ったのが、柳さんの親戚らしかった。「遠縁で園にも顔を見せなかったが、最期には来てくれたようだな」と振り返っていた。

 病院の脇のゆるい坂道を登りながら、柳さんが尋ねた。

「陽一、君はなぜ死神なんぞしてるのか」

「僕の家は代々、死神の仕事を受け継いで来てるんです。この前、父が亡くなって……僕が跡を継ぎました」

「辛い仕事だろうな」

「はい。僕は…わからないんです。この仕事にどんな意味があるのか」

「私にもわからん。ただ…そうだな、私はおかげで寂しい思いをしなくて済んだ。君がついててくれたからな。───本当に、」と柳さんは微笑んだ。

「こんな形の出会いでなければ良かった」

「はい」

 お地蔵さんの前で立ち止まると、ドアが現れた。

「ありがとう、陽一。もしかしたら、こんな形だったから良かったのかもな」

「え?」

「いつかこのじじいの言った意味がわかるだろう。焦らなくていい、ただ、今のおまえを大切に、大人になれ」

 そう言って柳さんはドアを開け、眩い光の中へ見えなくなっていった。僕がドアを閉めると、ドアはふっと消えた。

 こんな形だから良かった───今の僕を大切に、大人に───

 意味を計りかねる、難しい言葉だった。





 元来た道を辿って帰る。ゆっくりと自転車を走らせた。僕は、半ば呆然としていた。

 こんな形だから良かった、とは何だ、と。

 ただ看取るだけしかできなかった僕なのに……

 ふるさとの園、ファミレスと通り過ぎ、角を曲がってを繰り返すと、天ヶ瀬の家が見えた。

 佳純、今何をしているかな……

 立派な門の斜め前に自転車を停めて、スマホを手にしてFaceTimeで呼び出した。「陽一くん」といつもの笑顔。「佳純、」と呼びかけて言葉を失った。「どうしたの?」と言われても「うん」としか答えられない。画面の隅の僕の顔が暗かった。佳純は「今、外にいるの?」と尋ねた。

「うん」

「どこ?」

 僕はくるりと天ヶ瀬家に背を向けた。「わかる?」クスと笑えた。

「えっ、うちの前?」

「うん」と僕は手を振った。

「そこにいて、すぐ出るから」と通話が切れた。少ししてガラガラと戸の開く音がして、次いでカラカラとサンダルの足音、ぎいっと開く重い門の音で僕は振り返った。

 デニムのワンピースの佳純は僕に駆け寄り、僕の顔を見て「何かあったの?」と尋ねた。

 僕はたまらなくなって、手は自転車を支えたまま背を丸め、佳純の肩に閉じたまぶたを押し当てた。こうでもしないと涙が出そうだった。

「知り合いのおじいさんが肺炎で亡くなって…」

「うん」

「何もしてあげられなかった。最後を看取るのも、ガラス越しにしかできなかった…それでもおじいさんは最後に『ありがとう』って…」

「うん」と佳純が僕の頭の後ろに小さな手を置いた。

「……っ」

 涙が滲んだ。僕はそれを必死に堪えた。

「陽一くん」

 佳純の手が僕の頭を撫でていた。

「陽一くんが、クソバカ野郎でごめんって、ありがとうって、言ってくれたから、私は陽一くんが好きになったの。そんな陽一くんの優しさに、おじいさんもありがとうって言ったんじゃないかな」

「……」

「おじいさんも陽一くんが好きだった筈よ」

「…そんな事言われたら…」何が可笑しいのか、はあっ、と笑いが洩れた。「泣いちゃうだろ…」

「もう泣いてるだろ、バカ」

と言う佳純の声が優しかった。

 たった一日、出会ってから別れまで、たったの一日しかなかったのに───

 カオルは「大好き」と、柳さんは「ありがとう」と言ってくれた。

 僕の方こそ、お礼を言いたい……

「それで昨日は急用だったのね」と佳純が僕の肩を押して起こした。目の前の顔は慈悲深い笑みだった。「バイト、明日から?」

「うん」

 スッと佳純が動いたと思ったら、額に唇を押し当てられた。そして僕の目を覗き込む。

「やる気、チャージできた?」

「…うん」

 僕は可笑しくなって「はは」と笑った。それを見てか、佳純は顔を赤らめて、けれど笑い返した。

「新学期まで、会うのおあずけだね」

「うん。…ごめん」

「謝るなよ」と言いながら、佳純は俯いた。「すぐだよ、二学期」

 僕は片手を自転車から離して佳純を抱き寄せた。胸に佳純の頬の柔らかい感触。耳元で「ありがとう」と囁くと、赤面した佳純が僕を離して「バ、バカ」と言った。

「ん、もう帰るよ。ちょっとでも会えて良かった」

「…うん」と佳純は俯いて、「…私も」と付け足した。

「おやすみ」

「おやすみなさい…」

 漕ぎ出したペダルが軽かった。あの照れ屋の佳純が、額にキスしてくれたんだ……と思うと、気恥ずかしさと、嬉しさがこみ上げて、「よーし、やるぞー」と口に出していた。

 帰宅して鎌田さんに電話した。柳さんの最期を話すと、

「そうかい。良かったな、柳さんが穏やかに天国へ行けて」

「うん」

 それでもまだ、やっぱり胸が詰まる。僕は、「でも俺は…まだ悲しいよ…」とこぼした。

「死神の報酬って何だか知ってるかい?」

「えっ、そんなものあるの?」と驚いた。

「亡くなった人の笑顔だよ」

「笑顔…」

「親父さんはそう言ってたぞ」

 カオルの「大好き」と言った笑顔と、柳さんの「ありがとう」と細めた目を思い出した。

「陽ちゃんはちゃあーんと報酬を貰ってる。いい死神だよ」

 電話を終えて、僕は客室に設えられた小さい祭壇に置かれた、親父の遺骨に向かって正座した。

「ごめん、親父。これまでこうして話してなくて。毎日がいっぱいいっぱいで…でも」

 気づくと僕は微笑んでいた。

「親父はきっといい死神だったんだって、鎌田さんを見てて思ったよ。僕のことも褒めてくれたけど、まだまだだって思ってる。ちゃんと親父が安心できるように頑張るからさ……大学にも行きたい。奨学金で行こうと思うんだけど、俺の成績じゃ今は無理だから、勉強も頑張る。死神の仕事とバイトと勉強と、難しいと思うけど、チャレンジしたいんだ。だから、見ててくれよな、俺のこと。俺、死ぬ気で…じゃない」

 フッと笑った。

「生きる気で頑張るから」

 可笑しな言葉だと思った。けれど、亡くなっていった人たちに、「死ぬ気で頑張る」は失礼な気がしたのだ。

 親父の声はしなかった。あの時は幽体離脱していたからかな…と思った。

 僕は「見守ってください」と頭を下げた。


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