【阿久津くんは名前が呼べない】(阿久津くんは女子が苦手・後日談)
前略、私の名前は伊藤香澄だ。
「伊藤さん! 帰ろう!」
放課後、阿久津くんが元気よく声をかけてくる。
だいぶ滑らかで滑舌の良い「伊藤さん」だ。
「……ねえ、伊藤さんは言えるようになったからさ、今度は下の名前練習してみよう?」
「し、した?」
阿久津くんはキョロキョロ目を動かしながら意味もなく視線をスカートの方に下げるので私も意味なく手で隠した。
「うん。私の名前は……か」
「し、しってる! う、ッ、ちみょら……さ、さん……ちゃちゃちゃん! だろ!」
阿久津くんが下を向いてボソボソ早口で、何かお話終了の合図を奏で出した。繰り返すが私の名前は伊藤香澄。かすみだ。相変わらずかすってもいない。
阿久津くんはぶつぶつと口の中で練習をしている。目が合うと困った顔で笑って首を傾けた。
「かかかっそみょら……ちゃん?」
何故疑問形なのかはわからないが、少し近付いた。語尾の「ょら」は完全にいらない。
阿久津くんは「はー、」と疲れた溜息をこぼした。
特訓を始めた頃に白くなっていた息は、すっかり暖かくなった今は透明でそのかたちは見えない。
「伊藤さんも、呼んでみてよ」
「え、」
「おれの名前……知ってる?」
「……し……」
知っているに決まっている。けれど、知ってると言えば、今ここで呼ぶはめになる。
「し、しらにい!」
ぶんぶんと首を横に振るとだいぶショックを受けた顔をした。
「そ……そうだよね……」
「あ、あの……」
「伊藤さんはおれの名前なんて……知らないよね……」
「し、知ってる……! ほんとは知ってるよ! あんな覚えやすい名前知らないわけにいでにょ!」
「あ、ほんとに?」
「でも、まだちょっと練習が……たっ、たりぬすから! そりぇはまた後日にぬ!」
「わかった! おれも練習しとくね……キャ、……っ、カトリーヌ、ちゃん」
カトリーヌ。
今わりとはっきりカトリーヌって言ったよなこの人。わざとやっているんだろうか。思わず隣の人を見ると言ってやったぜといわんばかりの顔をしていて呆れる。
「あの、ぜんぜん言えてないからね……」
「えっ、マジかー」
すっかり日が長くなって来た高い空の下、駅までの道を歩く。
顔を上げるとずいぶんと高い位置に鳥が飛んでいるのが見えた。