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オーディオと少年  作者: 瀬川 朋樹
1/2

前編

              1.始まり




              1.




「イヤホン変えて、音を良くする?」

 僕は、疑わしそうな表情で、それを言った田中の言葉を繰り返した。

「変わりはするんだろうけれど、大した変化はないんじゃないか。たかがイヤホンだぜ」

 そう言うと、田中は反論してきた。

「試しもしないで否定するなんて、好奇心はないのかね、麻田には」

 僕にそう言うと、田中はにやりと笑って続けた。

「麻田は、ブラバンやっていて耳はできているんだから、聴けばわかるよ」

「そんなもんかねぇ」

 僕は、首をひねりながら答え、田中はいやに自信ありげに請け負った。

「まあ、一度体験したらわかるよ」

 その時はそのまま他の話題に移ったが、イヤホンで音が変わるという話は耳の奥に残っていた。


 その週末。(とし)の離れた父方の叔母のところに、用事があってお使いに出された。父からは、「千恵(ちえ)には、さっさと相手を決めろと言っておけ」と言付かった。千恵とは叔母の名だ。

 叔母は、齢の頃はいわゆるアラサーと言うやつで、とある通信関連企業の開発職をしているバリバリの理系だ。理系科目がいまいちな僕はちょっと苦手だが、叔母はなぜか僕を気に入っているようだ。お蔭で両親からの使いをよく頼まれる。

 叔母は、自宅から一時間電車で郊外に向かい、最寄駅からバスで三〇分かかるところにある一軒家を借りて住んでいる。待ち時間も含めると片道二時間近くかかる計算になる。

 前もって電話していたので、叔母は家にいるはずだが、呼び鈴を鳴らしても返事はない。家の中からはかすかに音楽が聞こえてくる。僕は、またか、と思い携帯の番号をダイヤルした。

 三回も鳴らないうちに叔母が出た。

「もしもし、かおる。もう着いたの」

 いきなり必要なことだけを切り出した。馨は僕の名前だ。叔母にはこういうところがある。

「もうって言うほどの時間でもないと思うけれどね、千恵姉ちえねえ。ところで、玄関を開けてくれる?」

 千恵姉と言わないと、叔母はいつでも機嫌を悪くする。幼い頃から、そう呼ぶよう躾けられたお陰で、今ではすっかり千恵姉で疑問を持たなくなった。

「まったく、馨はいつでも良いところで邪魔してくれるわね。ちょっと待っててね、今開けるから」

 しばらくして、玄関の扉が開かれた。微かに聞こえていた音楽がはっきり聞こえるようになった。弦楽四重曲だった。

「バルトーク?」

 僕が尋ねると、千恵姉は笑って答えた。

「残念、ショスタコービッチの五番。相変わらず弦楽は苦手なのね、馨は」

「そんなマイナーな曲聴きませんよ。しかし、千恵姉は昼も籠って音楽ですか。たまには外にでたらどうですか」

「相手がいないもん」

 千恵姉は、胸を張って言った。胸を張って答えるようなことでもないだろう、と思いながら、

「そんな事で無い胸張って、どうするんですか。知り合いならば、たくさんいるでしょう」

 そう言ったら、頬を膨らませて拗ねるように言った。

「いいのよ。貧乳メガネはステータスなのよ」

 …訳がわからない。僕はスルーすることにした。千恵姉は続けた。

「職場恋愛は面倒だし、オーディオ仲間はお爺ちゃんばかりだからねぇ」

 どうやら、知り合いはいてもそれなりの相手はいないらしい。

「そんな事より、今日は何の用?」

 千恵姉は、今日の用事を訪ねてきた。僕は、手に持っていた袋を差し出して、

「差し入れ。正月にはお餅が必要でしょう。それから、たまには実家に帰って来いって」

 千恵姉は餅の入った袋を確かめて相好を崩した。

「毎年、ありがたいわね。馨もちょっと上がっていきなさい。寒かったでしょう。お母さんにお礼言っておいてね」

 僕が部屋に上がると、千恵姉は台所に行って、餅を焼きはじめた。鼻歌を歌って、機嫌は良さそうだ。しばらくすると、砂糖醤油を塗ってのりに巻かれた餅とお茶が出てきた。

「さあて、この冬の初お餅」

 と、浮かれながら、千恵姉は焼いた餅にぱくついた。

「んん、やっぱり臼と杵で付いたお餅は違うわぁ」

 とか言いながら、早くも二個目に突入している。これだけ食べるのに、千恵姉は昔からスリムだった。背が一七〇センチくらいあるので、スタイルは良い。顔も身内のひいき目なしに見ても十人並み以上だから、悪くない。それでいて、未だに独り身なのは、やはり趣味と性格のせいだろう。

「この部屋、スピーカー増えていない?」

 僕が何気なく聞くと、千恵姉は猛烈な勢いで話し始めた。

「やっぱり気が付いた?馨は目敏めざといわね。センタースピーカーが増えたのよ。これで、うちのTVシステムも、やっと5・1チャンネルになったのよ」

「センタースピーカーなしでも十分だと今まで思っていたけれど、センタースピーカーがあると、やっぱり密度感が違うわね。肝は、3本とも同じスピーカーにしたことよ。KEFのLS50は、ペアでしか売っていないから、もう一台欲しいってお友達探すのに苦労したけれど、その甲斐はあったわね。フロントの繋がりがスムーズなのよ。お蔭でSACDマルチチャンネル再生に最近(はま)っているわ。しばらくしたら、もう少し良いユニバーサル・プレイヤーを手に入れるつもり。ちょっと聴いてみる?」

 と、立て板に水の喋りをしながら、ディスクを選んでセットした。

「それじゃ、ベンタトーンの、ジュリア・フィッシャーがバイオリンを弾いたハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲、鳴らしてみようか」

 こうなるともう、千恵姉は誰にも止められない。僕は黙って、リスニング・ポジションに座った。

 しばらくして、ハチャトゥリアンの景気の良い音楽が流れ始めた。

 以前聴いた時の記憶を思い出しながら、さて何て言おうかとしばらく悩んだ。千恵姉は、適当に言っている事はすぐに見抜く。

「以前聴いたときは、ステレオだったけれど、ホールトーンが随分違う。リアスピーカーって効果があるみたいだね。けど、それよりもセンタースピーカーの方が音楽を聴くのには効いている感じ。ベンタトーンってレーベルは、ステレオで聴くとどれも音がちょっと遠いんだけど、センタースピーカーを入れて聴くと、随分音楽に密度感が出てきた。本来は、こちらで聴いて評価して欲しいって、エンジニアの意図を感じる」

 感じた事を言葉にしてみたのだけれど、どうやら千恵姉の気に入ったようだ。

「馨は、楽器やっているだけのことはあるわね。聴きどころが鋭いわ。楽器は何やっているんだっけ?フルート?肺活量が必要で大変でしょう」

 と言いつつ、千恵姉はにんまりとしていた。

「それじゃ、コーヒーでも入れてあげるから待っていて」

 千恵姉は、そう言って台所の方へ行った。千恵姉がコーヒーを出してくれるのは、長居をしても良いと言うサインだった。僕は、それでは、今日もたっぷりと音楽を聴かせてもらって帰ろうかな、と思った。

 なにしろ、オーディオ、それもスピーカーを鳴らす事に凝っている今時珍しい人だ。以前、僕に言ったことがある。

「私より年下でスピーカーをきちんと鳴らそうとしている人は見たことないわね。女性はもちろんのこと、男性でも。スピーカー鳴らしてオーディオやっている人は最低でも私よりは十は上ね。ヘッドホンなら結構凝っている人は知っているけれどね」

 と、こんな具合らしい。お蔭で、気兼ねなく音を鳴らせる環境を探して、最寄駅からバスで三〇分以上もかかるところに一軒家を見つけて、住み着いている。会社はどうしているのかと聞いたら、郊外にあって自動車通勤が認められているので、それで通っているとの事だった。買い物などは、帰宅途中で近所のスーパーに寄るので不便はないらしい。

 そんな事を思い出していると、千恵姉がコーヒーを持ってやってきた。

「さあ、今日はちょっと贅沢したわ。どこの豆か当てられたら、褒めてあげよましょう」

 と言いながら、マグカップを二つ置いたお盆を持ってきた。千恵姉は、こういうところがある人で、茶器などにはほとんど拘らない。確か、ソーサーのあるコーヒーカップも持っていたはずだけどな、と思いながら、コーヒーの香りを確かめ、一口含んだ。

「えっと、これ何?ほとんど苦みがなくて酸味が強くてコクがあるのだけど。いつぞや飲ませてくれたブルー・マウンテンよりも更に苦みが少ない」

 僕がそう言ったら、千恵姉はいたずらっぽく笑って、

「まあ、いいからどこだと思う?適当で良いから、言ってごらんなさい。ちなみにヒントは島」

 島、と言われても見当がつかない。

「降参。さっぱりわかりません。教えてください」

「正解は、ハワイコナ。高いんだから、ちゃんと味わって飲んでね」

「ハワイでコーヒーが取れること自体、知らなかったよ」

 僕は正直に答えた。

「けど、一度飲めば忘れない味でしょ?」

 千恵姉は、機嫌良さそうにコーヒーを口に含みながら言った。

 確かにそうだったので、僕は黙って頷いた。


 それからしばらくは、新しくセンタースピーカーを入れたTV用システム――千恵姉はそう言っているが、アンプもAVプリのかなり高いもので、パワーアンプは昔の大きなセパレートアンプをスピーカーの台数分だ。これをTV用なんて言ったら、どこからか文句が飛んできそうな構成だった。

 お陰で、色々な音楽を聴いていても不満はなかったのだけど。

 実際、SACDのマルチチャンネルは楽しかった。特に、五〇年前のRCA Living(リビング) Stereo(ステレオ)のディスクは凄かった。これは、マスターテープが3チャンネルで収められていて、マルチチャンネルではそれをそのままフロントのLCRに入れたものとなっていてリアスピーカーは働いていなかった。2チャンネルでも普通に良い録音だと思っていたのだが、センタースピーカーが加わると、全く別物と言っても良い音になった。フロント3チャンネルの音と比べると、2チャンネルはまるで中抜けのような生気のない音に感じられる。

「これ凄いねぇ」

 と、思わず口にすると、千恵姉は真剣な顔で、

「五〇年前にこれだけの音楽が録音できたのだから、結局は録音もセンス、と言う事なのね」

 なんだか苦いものを口にしたような口調だった。

 そうして音楽を聴いて、一息ついたら、千恵姉がコーヒーを入れてきてくれた。今度はハワイコナではなかった。

 「ハワイコナでお替りを所望するなど、十年早いわ」

 と、悪乗りしながら、マグカップを渡してくれる。

「今度は普通のモカだから」

 千恵姉はそう言って、自分のマグカップを持って向かいの椅子に座った。

 こうやって寛いでいると、妙に落ち着く。父の前ではそんなことはないのに、同じ兄弟なのにこの違いはなんだろう、とかと他愛もない事を考えていると、先日のイヤホンの件が思い出された。ここに来たついでに一つ聞いてみようと思った。

「ところでさあ、千恵姉」

「なぁに?男の子の質問には答えられないわよ」

 千恵姉は、にんまりと微笑み、続きを促した。

「この前、田中って友達から、イヤホンで音が変わると言われたんだけど、どのくらい変わるものなの?」

「どのくらいって、そうねえ、スピーカーを換えるくらいには、変わるかしらね」

「たかがイヤホンで?」

 僕は少し驚いて、尋ね返した。

「そう。たかがイヤホンで。莫迦(ばか)にしたものではないわ。結局、ポータブルプレイヤーでは、イヤホンはスピーカーに当たるわけなの。それを換えれば音が変わるのは、ある意味自明の事よ」

 千恵姉は、最後は歌うように言ってから、僕の方に顔を向けた。

「ところで、馨。中学の入学祝にプレゼントしたX1060はまだ使っている?」

 X1060とは、NW‐X1060と正確には言い、千恵姉が中学の入学祝いにくれたポータブルプレイヤーだった。これを高校になった今も使っている。田中が何故か羨んでいる機種だ。

「使っているよ、壊れもしないし。今も聴いてきていた」

 僕はバッグからX1060を取り出し、千恵姉に示した。

「うん、物持ちが良くて結構。ファイルはWAV?それとも|ATRAC Losslessアトラック・ロスレス?」

 千恵姉は、X1060をプレゼントする時に、条件を一つ付けてきた。ファイルは、WAVか、アトラック・ロスレスにするべし、と。普段は、ニコニコしている千恵姉がその時ばかりは真剣だったので、僕は言いつけを守っている。

「WAVはさすがに容量食うから、アトラック・ロスレス使っている」

「そう。まあ、それならいいわ。他のに乗り換える時に大変だけど」

 千恵姉はそういうと、しばらく待っていて、と言ってメインシステムの置いてある部屋に消えた。ちなみに、この部屋はリビングを兼ねている。

 しばらくしてもどった千恵姉は、イヤホンを三本手にしていた。

 千恵姉は、笑みを抑えようとしても抑えきれない風な表情になっていた。

 僕がその表情の意味を悟るのは、ずっと後になってからの事だった。


「じゃ、ウチにあるイヤホンを三本ほど持ってきたから、聴いてみる?」

「さすが千恵姉。イヤホンも複数持っているなんて、普通の人じゃない」

 僕がそう茶化すと、千恵姉は少し沈んだ顔になり、

「そうねえ。3σ(シグマ)どころか6σにも入らないかもしれないからねぇ」

 また千恵姉は理解できないことを言う。深く立ち入ると、更に理解できない理系専門用語の羅列になって、結局わからないので、僕はこういうのは流すことにしている。

「じゃあ、何から聴くのが良いかな?」

 僕は努めて明るく尋ねた。

「まあ、古参の|Ethmotic Researchエティモティック・リサーチ ER‐4Sから聴こうかね。雀荘じゃんそうで買った奴でしばらく鳴らしていなかったから、ちゃんと鳴るかな?」

「雀荘?」

 僕は不思議に思い、聞いた。さすがにこれは理系用語ではないだろう。

 千恵姉は、また嬉々として話し始めた。

「そう、雀荘と呼ばれていた、あれはオーディオ屋と言って良いのかな、そんなところだったわ。ER‐4Sは、高性能イヤホンとしては最古参の一つなのね、わたしがこれを買ったのも大学に入りたての頃だった。まだポータブルCDプレイヤーが現役だったのだけど、これに合うイヤホンがなかなか無いのよ。今の一部マニアみたいにヘッドホンを持ち歩いていたのだけど、重くてね。何か良いものがないかと探していたらネットでER‐4Sを知ったわ。早速買おうと思ったのだけど、価格が四万円近く、当時の私の一ヶ月のバイト代くらいでね、こちらはまだ良いのだけれど、売っている場所が問題だったのよ」

「当時、秋葉原の昭和通り側の改札は、ヨドバシどころか、ショップもほとんどなく、使う人も今ほど多くなかったのよ。そんな昭和通りを渡って裏道に少し入ったところで店をやっていてね、それも普通の雑居ビルの二階に店を開いていたんだ。それだけでも、大学に入学したばかりのわたしには敷居が高かったのだけど、勇気を奮って階段を上がって店の前まで来たら、全くオーディオ店のなりをしていなくて、もう回れ右して帰ろうかと思ったくらいだったわ」

「それでも、中から音楽が鳴っていたので入っただけど、内装も怪しくて、その上テーブル代わりの雀卓(じゃんたく)がいくつかあったのね。もう泣きそうになりそうになったところで、店主らしい恰幅の良い中年のおじさんが、やぁやぁいらっしゃい、お客さんですか、と尋ねてくれたから、引き返さずに済んだんだわ。それから、雀卓横の椅子に座らされて、コーヒーが出てきたのでやっと落ち着いて、聞くことができたのよ。ここ、何のお店ですか、って」

 ここで、コーヒーを飲んで一息ついた千恵姉は、僕に聞いてきた。

「まだ、続ける?昔話だけど」

 僕は黙って頷いた。

「そう。何のお店って、聞いたら店主のおじさんが答えに一瞬詰まってね、まあ、オーディオ関係のことは色々とやっています、と来たものよ。全く答えになっていないわ。それでも、スピーカーユニットと、作りかけのスピーカーやむき出しのスピーカー・ネットワークが置いてあったから、スピーカー中心の店だろうと見当はついたのだけどね。で、私がER‐4Sが欲しいと言ったら、じゃあ試聴しようか、となって視聴用のER‐4Sが用意されたわけ。わたしは、一聴してこれだ、と確信したわ。解像度が高くて、再生帯域に変な癖が無い。もう、四万円でも仕方ないと当時は思わせる音だったわ。そして、今でもこれは現役機種なのよ、値段は随分下がったあとでまた上がったんだけどね」

「買ってからもしばらく店にいたら、ちょっと麻田さん、と言われてね、あ、保証のために住所氏名を聞かれたから、もう名前は知られてたの。それで、スピーカーのネットワーク換えてみたから、聞き比べてくれる?、とか言ってくるのよ。そうやって長居してしまって、結局、店を閉めるころまで居たわ。ちなみに、やっぱり以前は雀荘をやっていたところだから、そう常連には呼ばれていたって事だわ」

 千恵姉の話はようやく終わったので、僕は一つ尋ねてみた。

「雀荘って、まだそこにあるの」

「無いわ。そこにあったのは、四、五年くらいの間だったらしいわ。ただ、今も場所を変えて営業はしているようだけど。確か、神楽坂のあたりだったかしら」

 千恵姉はそう答えると、話を切り替えた。

「じゃ、ER‐4Sを聴いてみようか。馨、X1060だして。ちなみに、これインピーダンスがかなり高いから、フルボリューム近くまで音量を上げる必要があるわ」

 そう言われて、僕はER‐4Sを端子に入れて、実物をよく見た。三段傘のような白いチップの中央に穴が開いていた。発音体のあたりは片方が青、片方が赤だった。多分、赤がRなのだろう。

「耳たぶを引っ張るようにして、なるべく耳の奥まで入れて」

 と、千恵姉からの指示がくる。僕はそれにしたがって、耳の奥まで入れた。耳栓のような違和感と共に、外部の音がほとんど聞こえなくなった。

「これ、違和感すごい」

 と、僕は言った。自分の声も耳からはほとんど聞こえないので、奇妙に聞こえる。

「それじゃ、好きな音楽をかけてみて」

 千恵姉の声がかろうじて聞こえて、僕はX1060で、最初はボーカロイドの初音ミクの「千本桜」を選んだ。

 音が出て、確かに音量が低かったので、ボリュームを上げる。曲頭に戻して再生しなおす。

 初音ミクの歌声が流れ始める。

 僕は、音数の多さに驚いた。今まで聞こえなかった音が聞こえてくる。呆然として、一曲聴き終わると、ER‐4Sを外して、千恵姉に話しかける。

「これ、凄い。今まで聞こえなかった音がたくさん聞こえる」

 千恵姉は、そうだろうと言う表情をしながら答えた。

「まあ、ER‐4Sは特に、解像度厨と呼ばれていたりするからねぇ。解像度は抜群なのよ。ところで、今聴いていたのは何?」

 と、X1060を覗き込み、苦笑した。

「何、ボカロじゃない。別に悪くはないけれど、もっと違うのも聴いてみたら?」

「曲名でボカロとわかるって、千恵姉も聴いているの?」

 僕は不思議に思い尋ねた。千恵姉のところでは、いつもクラシックが鳴っている印象があるからだった。

「聴いているわよ、ニコ動の会員にもなっているし、CDも何枚かあるわ。ミクちゃんかわいいからね」

 僕は意外に思いながらも、一方で千恵姉ならありか、とも思っていた。

「さて、次は別のを聴いてみてね」

 と、千恵姉が言ったので、僕は次の曲を選んだ。

「次はアニソン」

 と、千恵姉に言いながら、X1060の画面を見せた。シェリル・ノームの「ダイアモンド クレバス」だ。

「マクロスFね。懐かしいわね。菅野よう子は才能あるわね」

 千恵姉はこれもわかったようだ。意外とオタク気質があるのだなぁ、と思いつつ、鳴らし始めた。

 シェリル・ノームとして歌っているMay'nの歌声がしっとりと響く。これは音の多さに驚くような曲ではないけれど、歌声のよさに感心した。

 次いで、クラシックからは、ホルストの惑星より「木星」、メータ指揮のものだ。

 これになって少し、不満を感じた。解像度は相変わらず良く、楽器一つ一つが聞き分けられそうなくらいだが、低域が少ない。高域の伸びももっと欲しかった。

「これ、少しレンジ狭くない?」

 と、千恵姉に言うと、千恵姉は肩を軽くすくめた。

「その通りよ。これはユニットが一つだけだから、どうしてもレンジに限界があるわね。かまぼこ型で自然だから、これだけ聴いている限りではあまり気にならない人が多いけれど。その代り、解像度では抜きんでているわ。だから、解像度厨と呼ばれるのだけど。それじゃあ、次はこれを聴いてみて」

 次に渡されたイヤホンは、ER‐4Sに比べると随分大柄だった。灰色のウレタンチップの後ろの透明なブルーの本体で、如何にも高級機と言う感じがした。

「|Ultimate Earsアルティメイト・イヤーズTripleFi(トリプルファイ)10よ。これは、三つのユニットで低中高域と分担しているの。スピーカーのマルチウェイと一緒ね。これ、シュア挿ししてね」

「シュア挿し?」

 僕が怪訝そうに聞くと、千恵姉は説明を始めた。

「イヤホンケーブルを耳の後ろから耳を巻くようにして、イヤホンを耳の上の方から挿すのよ。できるかしら?」

「試してみる」

 と、僕は試してみた。二、三回失敗した後で、ようやく成功する。

「そう。それで、耳に丁度フィットする感じに、イヤホンを微調整してみて」

 千恵姉のアドバイスは続く。僕は、それをしながら尋ねる。

「なんで、これがシュア挿しと言うの?」

「詳しいことは知らないわ。シュアのイヤホンで最初にやった人がいたから、らしいけれど」

 そうこうしているうちに、どうやら耳にフィットする位置に調整することができた。

「これ、ER‐4Sほど、遮音性が高くない」

「そうだけど、これでも電車の騒音は結構カットするわ。ER‐4Sが特別なのよ」

 千恵姉はそう言い、僕は試聴を始めた。曲は前と同じものにする。

「解像度は、ER‐4Sが一枚上だけど、レンジはこっちの方が広いと思う」

 僕が感想を言うと、千恵姉は頷いて同意した。

「まあ、そんなところね。どちらにするかは、好みの問題と言うわけ。遮音性と解像度でER‐4S、バランスの良さでトリプルファイ10って感じね。とは言え、現役はER‐4Sだけだけど。じゃあ、次もおまけよ。これももうディスコンになっているから中古しか手に入らないの。Senheiser(ゼンハイザー) IE‐8よ。これもシュア挿しでね。」

 IE‐8は、見ためは一番安そうだった。いや、ER‐4Sも似たようなものかもしれないが、IE‐8はイヤーチップも安そうだった。

 TripleFi 10と同様にシュア挿しにしてみたが、どう調整しても耳にフィットした感じがしない。遮音性も悪い。

「耳にフィットした感じがしないんだけど、これで良いの?」

「IE‐8は、そうなのよ。音を鳴らしながら、ある程度調整するしかないわ」

 千恵姉も同意したので、仕方ないかと思いつつ鳴らし始めた。

 一聴して驚いた。前の二機種とは鳴り方が全く違う。

 音場は頭の外まで広がり、頭の奥で鳴っている感じがしなかった。それよりも、驚いたのは低音の量だった。不自然にならないギリギリのところで、低域を膨らませているので、迫力がすごい。イヤホンの音とはちょっと思えないくらいだった。ただ、個人的には少し低域過剰と感じられた。

 僕は、そんな事を千恵姉に言った。千恵姉は腕組みしながら答えた。

「そうなのよねぇ。実は、前の二機種とIE‐8は駆動方式が違うの。IE‐8はダイナミック型、普通のスピーカーのように振動板を振動させるのだけど、前の二機種は、バランスド・アーマチュア型、略してBA型という形式なのよ。その違いだけではないけれど、基本的な音の出方が違うのは覚えておいてもよいわね」

「さて、イヤホンを聴き比べてみたけれど、感想はどう?X1060の付属イヤホンとの違いは感じられたかな?」

 千恵姉は、僕に感想を求めてきた。

「うん、付属のイヤホンでもそれなりにいい音だと思っていたけれど、この三本を聴くと全然違うことがわかるよ。確かに、イヤホンで変わる。だけど、これって幾らくらいするの?昔、ER‐4Sが四万円近くしたと言っていたけれど」

 と、僕が懸念を示すと、千恵姉は笑いながら首を振って言った。

「今はER‐4Sだけが現役ね。一時期、一万円台で買えたけれど、今では二万円ちょっとね。けれど、もっと新しいのでまずは一万円台のものを買ってみたら?」

「それに、もうすぐお正月で、お年玉も入るからなんとかなるでしょう。別に今聴いたのだけじゃないわ。最近では、もう何十種類もでているから、その中から気に入ったイヤホンを買えばいいのよ。買う時には、アキバのショップを案内するわ」

 そんな事を千恵姉が言っているのを聞きながら、僕はさて、どれが良いのだろうと、もうイヤホン選びに頭が向かっていた。


「この街も随分変わったわねぇ」

 千恵姉は、おのぼりさんの様に首を四方にめぐらせて(つぶや)いた。久しぶりに来た秋葉原には、五メートルごとにメイド喫茶の客引きのお姉さんが立っていた。

 年が明けて成人の日、僕は千恵姉と一緒に、イヤホンを買うために秋葉原に来ていた。

「中野でも良かったんだけど、あそこは遠いからね」

 と、千恵姉は言っていたが、僕には良くわからなかった。

「最初はどこにする。大型量販店のヨドアキバか、専門店のaイヤホンか、ちょっとお高いダインか。どうする?」

 どうする、と聞かれても何を判断基準にして良いかわからないので、答えようがない。とは言え、何も言わないと千恵姉に連れ回されるのは目に見えているので、何か答えないとならない。ならば、一番品揃えが多そうなところが良いだろう。

「じゃ、専門店と言うやつで」

僕が答えると、

「aイヤホンね、わかったわ。それじゃあ、行きましょう」

と、僕の手を引っ張って、群衆の中に飛び込んでいった。

 群衆を抜けて裏通りに入っても、千恵姉の歩く速度は衰えなかった。そのショップは、雑居ビルの5階、エレベーターを上がっていくので道を歩いていてはまずわかりないところにあった。それを、まったく迷わずにaイヤホンに着いたので、僕は思わず聞いてしまった。

「千恵姉、この辺通いなれているの?」

「昔はね。この街が萌えの街になる以前のPCショップが一大勢力だったころによく通ったわ。この辺りにも以前はパーツ屋が軒を並べていたものだわ。ここも昔は中古CDショップだったのよ」

 そういう千恵姉はなんだか寂しそうだった。

「秋葉原は、オタクの欲望とともに変わっていく街だから仕方がないのかもね。オタクがマニアと呼ばれていた時代からの事、もしかしたらもっと前から続いてきた事だから」

 そう付け加えて、千恵姉は微かに笑った。

「さて、そんな昔話を言っていないで店内に入りましょう」

 店内に入ると、所狭しとヘッドホンとイヤホンが並べられていた。

 僕はそれに少し圧倒されたが、千恵姉は慣れたものだった。

「あら、エティモティック・リサーチも色々と並んでいるのね」

 何百とあるかと思われるイヤホンの中から、千恵姉は目敏くお気に入りのメーカーのイヤホンを見つけてきた。

「ER‐4Sはやっぱり高くなっているわね。けど、HF5って聴いたことないけれど、安いのね」

 と言いながら、持ってきたポータブルプレイヤーに接続して聴きはじめた。どうやらここは、こうした試聴が自由なようで、他にも持ってきたプレイヤーに接続して聴いている人がいる。

 じっと聴いている千恵姉を置いて、僕はその辺を眺めて歩いた。なんでこんなに種類があるのだろうと言うくらいに多いイヤホンを見て途方に暮れていたのが正直なところだ。

これでは、なにを基準に選べば良いかわからない。

 そうしていると、千恵姉が脇を突いて僕を呼んだ。

「これ、聴いてみて。なかなかのものよ」

 そう言って、先ほどまで試聴していたらしいHF5を渡してきた。

 僕は言われるままに、それを装着してみた。相変わらず、エティモティック・リサーチの装着感に違和感がある。

 持ってきたX1060でそれを鳴らしてみた。インピーダンスがER‐4Sよりも低いので、普通のボリュームでも十分な音量で鳴りはじめた。

 鳴りはじめたHF5は確かに良かった。ER‐4Sに比べるとやや甘いと感じるけれど、それでも値段を考えれば十分だった。

 僕は他の機種を聴かずにこれを買おうと思った。ただ、千恵姉と一緒に来ている手前、適当なイヤホンをいくつか試聴してみた。残念ながら、HF5ほど僕の心を捉えたものはなかった。


「結局選んだのは、HF5かぁ」

 千恵姉は、少し面白くなさそうだった。

「千恵姉のところで聴いたER‐4Sに近かったし、今回は、一万円程度ではそれを上回るような音だと思わせるイヤホンもなかったからね」

「HF5ならば、無難な選択だし、わたしも良いと思うけれど、ちょっと個人的には面白くないわね」

「別に千恵姉を面白くさせるために、高校生にはちと高いイヤホンを買ったわけではないから」

「ま、そうだけどねぇ」

 と言いながら、段々機嫌を直していってくれているようだった。

「じゃあ、ちょっと遅いけれど昼食にしようか。どこか良いところ知ってるかしら?」

「じゃんがらラーメンくらいしか思いつかないけど」

 千恵姉は、じゃんがらかあ、と呟き、しばらく考えてから店を決めた。

「とんかつは嫌いじゃないわね、男の子だもの。久しぶりに丸五のとんかつが食べたくなったから、そこ行きましょう。高校生に割り勘しろとは言わないから、安心して」

 僕は異存はなかったので、千恵姉に賛成した。そこのヒレカツ定食は確かに旨かった。

 食後、お茶を飲んでゆっくりしているときに、千恵姉は言った。

「言い忘れていたけれど、そのくらいのイヤホンだと、エージングに二百時間くらいみておいた方が良いわ」

「二百時間って、そんなに?」

 僕は驚いて聞き返した。

「そう。イヤホンならば大したことはないわ。聴いていない時も鳴らし続けていても邪魔にならないから、学校に行っている時間を除いても、楽に一〇時間は一日に鳴らせるわ。一日一〇時間ならば、二〇〇時間でも三週間よ。短いものだわ。LS50もかなりかかったけれど、スピーカーは鳴らしっ放しができないから、長かったわ」

 千恵姉は事も無げに言った。

 千恵姉は、やっぱり普通の人とは違うと、僕は思ってしまったのだった。


 普通の人とは違うかどうかはともかく、千恵姉の言った事は正しかった。

 帰宅して、わくわくしながらパッケージを開けて、HF5を鳴らした時の落胆は、どうしようもなかった。千代姉のところやaイヤホンの試聴で聴いたときの音とは全く別物だった。実は似て非なるものなのかと、疑ったくらい。

 それでも、千恵姉の助言を思い出して、鳴らしこみを始めてみた。一晩鳴らしてから、聴いてみたら大分まともになっていた。これは確かに効果があるようだとわかり、更に続けることにした。

 それから三週間、千恵姉の言ったように鳴らしこんだ結果、千恵姉のところで聴いたような感じに鳴るようになった。

 そして、HF5とX1060の組み合わせは、僕にとって無くてはならない物になった。

 その頃、田中が僕に話しかけてきた。

「この前買ったイヤホン、そろそろエージングが済んだんじゃねぇ?ちょっと、聴かせてくれないかな」

 田中には、HF5を買ったことを、買った直後に話していた。

 エージングが済むまでは駄目な音だろう、と田中はその時言っていた。

 僕は、千恵姉と言い、田中と言い、エージングって常識なのかな、その時思った。

 そんな事があったので、田中がエージングが済むのを待っていたのも、なんとなく納得した。

それで、放課後に聴かせるよ、と言う話になった。

 放課後、人の少なくなった教室で、僕はHF5を取り出した。

「これが、HF5かぁ。ER‐4Sによく似てるな」」

 と、田中は興味深そうに、手にとって眺めた。

「田中は何使ってるんだ?」

 僕はふと、疑問に思って聞いた。田中は良くぞ聞いてくれた、と言う感じの顔をして、いそいそと鞄の中から、イヤホンと、小さな箱状のものを取り出した。

 僕がそれはなにかと聞くと、田中は、自慢げな顔になって喋りだした。

「これは、SONYのポータブルプレイヤー、NTX―1000だよ」

「NTX―1000?」

「話の腰を折るなよ。そんな事も知らないのか。SONYが最近出したポータブルプレイヤーさ。iPhoneからこれに変えてイヤホンを鳴らすと、別物のような音になるのさ」

「今使っているのが、IE‐8だから、それはもう、たまらないね」

 そう言いつつ、HF5をそれに繋げて、音楽を鳴らし始めた。僕は黙ってみていた。

 しばらく音楽を聴いてから田中が感想を話し始めた。

「これも、なかなか良いな。BA型の良さがよく出ていて情報量は多いし、バランスも悪くない。ただ、やっぱり低音はIE‐8だな」

「麻田も、俺のIE‐8、聴いてみるか?」

「いや、IE‐8はもう聴いたことがあるから、いいよ。それよりも、それで鳴らしたHF5を聴いてみたいな」

 僕がそう言うと、田中はちょっと惜しむような、それでいて聴いてもらいたい様な複雑な顔をして、

「そう言うんなら、聴かせてやるよ」

 と、機器を僕に渡した。別に、そこまでは言っていないけれど、と思いつつも、折角だからと、受け取ってイヤホンを耳に挿して、音楽を鳴らそうとしたが、田中のは、アニソンばかりだった。僕は知っている曲を探し、「鳥の詩」を選んだ。

「これで良い?」

 田中に了承を求めると、田中は頷いたので、曲をスタートさせた。

 鳥の詩の伸びやかなボーカルが、今まで聴いたこともない情感を感じさせながら、どこまでも伸びていくようだった。確かに、HF5は今までよりもスケールの大きな音で鳴っていた。

 僕は、曲が終った後も、しばらく黙っていた。

「いいね、これ」

 僕は、小声になって言った。自分の声が曲の余韻を吹き飛ばしそうな感じがしたからだった。

「いいだろ」

 田中は、微笑みながら、秘密を共有したような顔になって答えた。

「もっと自分の聴きなれた曲を聴いてみたいけど」

「麻田は何を使っているんだっけ?」

「X1060」

「そう言えばそうだったな。往年の名器。良いの使っているじゃないか。自分で買ったのか?」

 田中は、少し羨ましそうに言った。

「いや、千恵ね、じゃなくて叔母から中学の入学祝いにもらったもの」

「そうか、麻田は親戚関係に恵まれているな」

 田中は更に羨ましそうに言った。僕は、確かにそうかもしれないと、曖昧に笑って答えた。

 結局、その日は田中のNTX―1000から、知っているアニソンを何曲か聴いて、終わりとなった。


 その週末の土曜日、千恵姉に最近のポータブルプレイヤーについて聞いてみようと、電話をしてみた。携帯にでた千代姉は、外出中のようだった。

「もしもし、馨?何の用?」

「もしかして、デート中?」

 僕は、茶化すように言った。千恵姉は、笑いながら

「残念。コンサート前。今日は、都響のマーラー・チクルスなの」

 コンサートをデートではないと言う辺り、千恵姉らしい。それとも、ひょっとして本当に一人でコンサートに行っているのだろうか?

 僕は確認するのを躊躇(ちゅうちょ)してしまった。

「ちょっとオーディオの事で相談したいことがあるのだけど、いつなら時間空いているかな」

「ああ、それなら明日にでもお出で。明日は予定入れてないし、家でちょっと仕事しているから、気分転換に丁度良いわ」

 千恵姉は、そう答えて、電話を切った。

 次の日、僕は母から蜜柑(みかん)を持たされて、千恵姉の家へ行った。今日は、呼び鈴を鳴らしたらきちんと出た。音楽を聴いていたわけではなかったようだ。

「お邪魔でした?」

 僕は、恐る恐る尋ねた。千恵姉はかなり喜怒哀楽がはっきりしているので、邪魔だったら本当に邪険に扱う。

「ううん、ちょっと詰まっていたから一休みしていたところ。良いタイミングで来たわね」

 千恵姉の穏やかな顔を見て、どうやら本当らしいとほっとして、靴を脱いだ。

「これ、母さんから」

 と言って、持たされてきた蜜柑を渡す。

「ありがと、蜜柑ね。馨の母さんの実家だものね」

 千恵姉はそう言って、蜜柑をテーブルの上に置いた。

「で、オーディオで相談ってなぁに?」

 千恵姉は、悪戯っぽい笑いを浮かべて尋ねてきた。

「相談ってのは、ポータブルプレイヤーの事なんだけど。最近の機種を使っている友達がいて、それを聴いたら、HF5がいつもよりずっと良く聴こえたので、どうかな、と思って、千恵姉なら知っているだろうと思って相談に来たんだけど」

 と、僕が一気に言うと、千恵姉は気難しそうな顔になっていた。

「友達は、どんな機種を使っていたの?」

「ええと、SONYのNTX-1000とかと言ってた」

 千恵姉は溜息をついて、更に尋ねた。

「で、馨はどうしたいの?」

「できれば、似たようなものが欲しいなと思っているけれど。あれはかなり高いから」

「まあ、イヤホン買ったばかりだものね」

 千恵姉は、茶化すように言った。

「X1060もさすがに古くなっているけれど、案外難しいのよね。最近のポータブルプレイヤーは群雄割拠で、これという機種を推薦できないわね。NTX―1000が安いとさえ思えるくらいの高級機器も出ているもの」

「それで、馨はどんな使い方をしているの?自分の部屋で聴くことが多いのか、外で聴くことが多いのか。それによっても、最適解は違ってくるわね」

「どういうこと?」

 最適解、なんて言葉がでてくるあたり、千恵姉は乗っているってことだ。話の腰を折らずに喋らせてみよう。

「外で聴くことが多いならば、今よりもいいものはいらないと思うわ。けれど、室内で聴くことが多いと言うならば、話は別ね。NTX―1000より安いくらいの価格帯のヘッドホンを買った方が幸せになれるわ」

「幸せになれるって…」

「言葉通りの意味よ。良い音で良い音楽聴ければ、幸せじゃない。違う?」

 千恵姉は、真顔で言った。

「ヘッドホンは、密閉型で遮音性の高いものでも、カナル型――耳栓みたいになっているものね――のイヤホンに比べれば、遮音性は劣るのよ。屋外ではとてもクラシックは聴けないわ。けれど、室内ならば違う。外のように騒音はないから、密閉型のヘッドホンで十分なの。音はと言えば、試してみた方が早いわね。馨のでどのくらい鳴らせるかも知りたいし」

 それから千恵姉はオーディオ部屋へ行って、しばらくしたら真っ黒い地味なヘッドホンを持ってきた。

「そう言えば、馨の答えを聞いていなかったわね。それ、どこで聴くことが多いの?」

「まあ、あんまり電車には乗らないから、自分の部屋で聴くことが多いかな」

 ちなみに、通学は自転車だ。

「なら、これを試してみて。MDR‐Z1000。これもSONYのだから、純正組み合わせとなるわね」

 僕は、ヘッドホンを受け取りセットしようとしたが、プラグが大きい。

「千恵姉、これ、入らない」

 と、プラグを見せると、千恵姉はうっかりしていたと言う顔をした。

「ああ、そうだったわね。ウォークマンだから、ミニプラグよね」

 と言い、ヘッドホンの入っていたらしい柔らかいビニールレザーの袋から、別のコードを取り出した。両方ともミニプラグになっている一メートルほどのコードだ。

「MDR‐Z1000は、ケーブルが簡単に換えられるようになっているのよね。こう、ケーブルの根元がネジで外れるようになっていてね」

 そう言いながら、千恵姉は、ヘッドホンからコードが出ているところを見せながら、手でネジを緩め、コードを外した。そして、両方がミニプラグになっているコードのネジが付いている方をヘッドホンに挿しこみ、ネジを締めた。

「はい、これでいいでしょ。これで聴いてみて」

 今度はきちんとプラグを挿すことができた。ヘッドホンを装着して、頭の大きさに合わせて、ハウジングの位置を微調整する。その時、アジャスターが随分押し込まれていることに気付いた。

「千恵姉って、結構小顔?」

「なに、今頃気付いたの?」

 千恵姉は、しらっと答えた。

「いや、アジャスターの位置が随分上だから」

 あまりに堂々とした態度に、しどろもどろになって答えると、千恵姉は更に言葉を重ねた。

「ああ、そんな事で気付くなんて、馨はまだまだ色気づくには早いわね」

 折角褒めたのにそれはないだろうと、僕は少し傷ついた。

 そんなこんなで、ヘッドホンをきちんと装着して、X1060でZ1000を鳴らし始めた。

 最初は、以前と同じ、「千本桜」から。ボリュームはHF5の時よりも少し大きめになる。

 発音体の大きさが全く違うからか、音の余裕のようなものが出るようになるが、大きくは異ならない感じだった。

「あんまり、変わらないよ」

 正直に千恵姉に言うと、千恵姉は、ちょっと貸して、と言ってヘッドホンを外して、自分の頭に付けた。

「逆に馨、あなた頭大きいわね」

 と、僕にさっきとは逆の事を返してきた。余計なお世話だ、と思いつつも千恵姉の感想を待つ。

「まあ、これじゃあ、余り差は出ないかもしれないわね。オケは何か入れていたわよね」

 と言いつつ、ウォークマンを操作し、

「ああ、これが良いわ」

 と、選択した後、ヘッドホンを僕に渡す。

 千恵姉が選択した曲は、ドビュッシーの「海」、その第三楽章だった。

 冒頭の低温がうなるところから、レンジが広いことが分かった。オーケストラの雄大さもよく出るようになっていた。

「これ、良いね」

 僕が感想を呟くと、千恵姉は、まだまだあるわよ、とヘッドホンを数種類持ってきた。

「なんで、そんなに持っているの?」

 思わず聞くと、澄まして曰く、

「入社したての頃は、寮だったからスピーカーを思いっきり鳴らせなかったのよ。で、少しばかり買ってみたわけ。密閉型やオープンエア型混じっているけれど、家で聴くならばあまり関係ないわ」

 次に鳴らしてみたヘッドホンは、Sennheiser(ゼンハイザー) HD650だった。これはオープンエア型との事だった。低域を中心としたピラミッド型のバランスで、これで聴くオーケストラは絶品だった。ただ、声は少し太くなる感じで、繊細な女性ボーカルはちょっと合わないかな、と思わせた。千恵姉に言わせると、下手な密閉型よりはずっと低域がでるわね、との事。

 それから色々と聴いた。|audio‐technicaオーディオ・テクニカのATH‐W5000は、まるでER‐4Sの帯域を拡大したような解像度抜群の音だったし、AKGのK701は、ハウジングやヘッドバンドが白く、清楚な見た目と似ていてやや細身で繊細な音で、女性ボーカルに良く合っていた。ただ、HD650やK701はX1060では、十分な音量が出なかった。千恵姉は、ポータブル型の限界よ、と笑っていた。

「まあ、こんなものね。ヘッドホンも色々面白いでしょ」

 コーヒーを持って来つつ、千恵姉がそう言って終わりを宣言した時、十種類近くのヘッドホンを聴いていた。

「色々聴きすぎて、どれがどれだか、わからないよ」

 と、僕は泣き言を言いながら、コーヒーを飲んだ。

「ところで、あれまだ聴いていない様な気がするのだけれど」

 部屋の隅に置かれているヘッドホンを指差して、僕は聞いた。

「ああ、あれね。あれは馨に聴かせるには、まだ早いわね」

 千恵姉は澄まして答え、それ以上の追及を微笑んでかわした。ヘッドホンには、STAX SR‐007とあった。

 その型番だけ覚えておいて後でネットで調べてみようと、その時は思った。


 明けて月曜日。

 僕は田中に相談してみることにした。昼食を食べた後の昼休み、田中はのんびりと例の組み合わせで音楽を聴いている。

 田中に近づいていくと、イヤホンを外して、何?と言う顔をしていた。

「田中、ちょっといい?」

 田中は黙って、隣にあった椅子を引いたので、僕はそこに座ることにした。

「で、何?麻田が話しかけてくるなんて、珍しいな」

「ああ、オーディオの事で少し、相談したいんだけどな」

 僕がそう言うと、田中は茶化すように言った。

「なんだ、イヤホンを買ったばかりでまだ何か欲しいのか」

「ま、そうなるかな。実は週末、叔母の家へ行ってきたんだけど、僕の持っているウォークマンならば、買い替えるよりも、屋内で聴くためにヘッドホン買った方が良い、と言われたんだけど、田中はどう思う?」

 僕が説明すると、田中はしばらく考え込んでから答えた。

「まあ、ウォークマンは音楽専用プレイヤーだから、音質のことをきちんと考えて作ってあるからな。新しい機種買う金でヘッドホンを買うというのも、一つの選択肢として間違っていないかもしれない。けど、それ、ヘッドホンをきちんと鳴らせるか?」

「ああ、叔母の家で十本近く試してみたよ。多少、音量が足りないものもあったけれど、結構きちんと鳴るものもあったよ」

 十本近くと言うのに、驚いたのだろう。田中は唖然としたように聞いてきた。

「お前の叔母さんって、何者?」

 何者って、どう答えたらいいんだろう。僕は、迷った挙句無難な回答を選んだ。

「多分、ただの音楽好きのオーディオマニア、だと思う」

 これに対して、田中は大きくため息をついた。

「そういう人が近くにいるっていうのは、いいよな。俺の周りには、オーディオに興味ある奴なんて、ほとんどいない。まあ、ネットにはそれなりにいるんだけどね」

 田中が自嘲気味にそう言ったので、僕は何と答えればわからなくなり、しばらく無言が続いた。それを破ったのは、田中の独り言じみた返答だった。

「結局は、麻田の好きにすれば良いと思うけれどな。まあ、もうヘッドホンを試して、そしてそれが気に入ったと言うならば、その通りにすれば好いと思う。オーディオは結局は自分がどれだけ満足できるかだから」


 その夜、千恵姉と相談したくなり、夜八時過ぎに携帯に電話をしてみた。

 電話に出た千恵姉はまだ、仕事中だった。用事があるなら十時過ぎにもう一度掛けてくれ、との事だったので、僕は宿題を済ませながら十時を待った。

 十時を少し回った頃に、千恵姉の方から電話があった。

「馨、またオーディオ関係?」

 千恵姉は単刀直入に聞いてきた。

 僕は、この前の千恵姉のヘッドホンを聴いて、ヘッドホンが欲しくなったと言ってみた。

 千恵姉はてっきり賛成してくれるかと思いきや、溜息を一つついた。

「馨は本当にヘッドホンが必要なのかな?この前、イヤホンを買ったばかりで、ヘッドホンをすぐ欲しがるなんて、ショップのいい鴨よ。ちょっと頭を冷やして考えた方が良いんじゃないかしら?」

「じゃあ、どうしてヘッドホンを聴かせたりしたの?」

 僕はちょっと詰問調になって千恵姉に食い下がった。

「あれは、新しい機種欲しいなんて言いだすからよ。他にも選択肢はあるのだから、色々考えてみるのも良いかと思って、ヘッドホンを聴かせたの。けれど、却って馨をあおってしまったみたいね。ただね、本当に他にも色々選択肢はあるのよ。それは知っておいて頂戴」

「それから、何を買っても良いけれど自分のお金で買いなさい。別に不満がでるまでは今のままでも良いんじゃないのかしら。オーディオは結局、どこで満足するかなのだけど、このまま際限なく音を求めるつもりなのか、もう一度よく考えてみて」

 千恵姉は最後は懇願するような調子になって、説得させようとした。

 僕は、その言葉に逆らうこともできずに、考えてみると言って、電話を切った。

 その夜、イヤホンで音楽を聴きながら、これが例えば、MDR‐Z1000だったらどう聴こえるのだろうかと思っていた。

 その週末まで、結局ヘッドホンの事が頭から離れなかった。そこで、僕はもう一度、千恵姉に相談することにした。

 千恵姉に電話すると、その週末は用事が入っているので駄目だ、と言われたので、その次の週末に行くことになった。僕は、千恵姉にもそれなりに付き合いがあるのだな、とちょっと驚いたりしたものの、先約があるのでは仕方ないと、思ったりもした。

 その週のヘッドホンの幻聴は、更に激しくなったようだった。授業中にもふと集中が途切れた時に考えることは、MDR‐Z1000をはじめとするヘッドホンの事が多くなった。

 夜も、宿題を終えてPCの前に座り込んで、知っているヘッドホンの型番を検索しては、どんな音だろうかと、想像したりした。

 そんな日々を過ごして、前回の電話から、ようやく一週間が過ぎて、約束の日になった。

 最近よく千恵のところに行くわね、と母にまた手土産をもたされて、家を出た。

 千恵姉の家への道すがら、どうやって話したらわかってもらえるのだろうか、と悩んでいた。だが、良い案は見つからず、結局何の方策も立てられないまま、千恵姉の家の呼び鈴を押していた。

「馨、よく来たわね」

 千恵姉は、呼び鈴が鳴るや否やと言う感じでドアを開けて、僕を迎えてくれた。二週間前の会話はすっかり忘れているような笑顔だった。

 いつものリビングに通されて、僕は母からの手土産を渡した。千恵姉はいつものように喜んでくれて、僕の分と一緒にコーヒーを入れて、それを食べた。しかし、それからは違った。

 一息ついた後、千恵姉は単刀直入に聞いてきた。見たこともない真剣な眼差しだ。

「で、馨は何の用で来たの?まさか、姉さんからの手土産届けに来ただけではないわね?」

 思わぬ千恵姉の態度に臆しそうになったけれど、僕は息を飲み込んでてから、畳み込むように言葉を吐き出した。

「千恵姉、僕はヘッドホンが欲しいんだ。この二週間、その事ばかりを考えてきた。昼も夜も暇があれば、色々なヘッドホンを検索して調べては、音を想像していたりした。だから、僕はヘッドホンを手に入れたいんだ」

  千恵姉は黙って聞いていた。そして、しばらくリビングは沈黙に支配された。その時僕は気付いた、今日は千恵姉は音楽を鳴らしていない。

 千恵姉はしばらく何か考えるようにしていたが、薄く微笑みを浮かべてから話し始めた。

「そう。そこまで夢中になってしまっているのだったら、仕方ないわね。あまり、それにばかり気がいって勉強に身が入らないようでは、馨のためにも良くはないわね。それで、馨はどのヘッドホンが気に入ったのかな。色々調べたのなら、この前聴いたもの以外にも、何か候補があるでしょう」

 千恵姉は、そう言って僕のヘッドホン購入を認めてくれた。

 その態度に安心して、僕は続けていった。

「うん、MDR‐Z1000も良いのだけど、ちょっと高いから、MDR‐1Rか、FocalのSpirit oneにしたいのだけど、千恵姉はどう思う?」

「そうね、MDR1‐Rは良いと思うけれどSpirit oneはどうだろう。結構、高くなかったかしら?」

 千恵姉はそう言って疑問を投げかけた。それに対し、僕は自慢げに答えた。

「そう思ったのだけど、価格を調べていたら、他が三万円台前半なのに、一つだけ二万円台前半と安いショップを見つけたんだ。Spirit oneに決めたら、そこで買うつもり」

 ところが、僕の返答に千恵姉は眉をひそめた。

「馨、どこかのショップで試聴してから別のところで買うのはやめなさい。試聴して買うものを決めたら、そこで買いなさい。それがマナーよ」

「考えてもごらんなさい。試聴させてくれるショップだって、商売でやっているのよ。それなのに、客が試聴だけして他で買うようになったら、商売としてやっていけなくなるわ。そうすると、貴重な試聴できるショップが商売をやめてしまうことになる。興味本位でちょっと試聴するだけならまだしも、きちんと試聴して買うものを決めたのならば、そのショップで買うこと、わかった?」

 最後は、笑みを浮かべながらも命令調になった。そして、目は笑っていない。こういう千恵姉には逆らわないほうがいい。それに言っていることはもっともだった。僕は、黙って頷いた。

 それを見て、千恵姉は続けた。

「ところで、格安のSpirit oneを見つけたショップは、どこのショップ?徳島?試聴は当然できないわね。こうしたところから買うのは、正直薦めないわ。試聴ができないということよりも、こうした格安品は、偽物の可能性もあるのよ。実際、高級イヤホンでは結構出回っていると聞くの。だから、ヘッドホンにしても、信頼のある店で買うのがいいわ」

「偽物なんてあるの?」

 僕は驚いて尋ねた。千恵姉は肩をすくめながら、

「全くよね。そこまでするならば、自分達のブランドを立ち上げて作れば好いのに、と思うのだけど、これがあるのよ。ケーブルなんかでも、並行輸入やネットオークションでは、有名ブランドで安いと思ったものは、偽物であることが多いわ。馨も気をつけることね」

「なんか、防ぐ手はないの?」

 僕は思わず聞いていた。

「ないわね。当局の取り締まりも限界はあるわ。自衛策としては、信頼できるショップで買うことと、あまり安いものには手を出さないことね。そういうものは偽物でなくても、何らかの理由があって安くなっているものだからね。少なくとも、ビギナーのうちは手を出さないのが無難よ」

 そう言ってから千恵姉は立ち上がって、音楽を低く流し始めた。僕は冷えたコーヒーを飲み干した。

「それで、馨はどうしてわたしのところに来たの?」

 千恵姉は、しばらくしてから、僕に質問をしてきた。

「なぜって。相談しに来たんだけど」

 それを聞いて、千恵姉はふっと笑った。仕方ないわね、と小さい弟をみるような感じだった。

「それこそよ。この前イヤホン買って秋葉原のショップはわかっているのだし、わたしに断らなくても、欲しければ買ってくればよかったじゃない」

 そうかもしれないと僕は思ったのだけど、一方で相談してよかったとも思っていた。

「でも、千恵姉にはイヤホンの時に相談に乗ってもらったし、やっぱりヘッドホンでも買うことに賛成してもらって欲しかったのだと思う」

 千恵姉の笑顔はますます大きくなった。

「そう、ありがと。馨のそういうところは好きだわ。それじゃ、今から秋葉までいこうか」

「今から?」

 僕は少し驚いたけれど、一旦決まると千恵姉の行動は早かった。

「そう、今からなら昼過ぎには着くわ。お金はあるのでしょう?」

「口座からおろせば」

「じゃ、問題ないわね。ところでそのお金、姉さんからもらっていたりはしないでしょうね?」

「バイトで稼いだものだよ。楽器を買おうとして貯めていたもの」

「あらそう。そんな大事なお金をヘッドホンに使ってしまっていいのかな?」

 茶化すように、千恵姉は尋ねてきた。

「いい。多少崩しても、またバイトして貯める」

「ならいいわ。お化粧するから、音楽でも聴いて待っていて。何がいい?」

 コーヒーを入れる用意をしながら、千恵姉は聞いた。何でもよかったので、モーツァルトと答えた。

「それなら、ボザールトリオのピアノトリオなんかどうかしら?この前、アナログ盤を手に入れたのよ」

 それでお願い、と僕は答えた。千恵姉は、コーヒーの湯が沸くまでの間に、レコードをプレイヤーにセットして、鳴らし始めた。

「これ、レコード・プレイヤーだったんだ」

 僕は尋ねた。約三十センチ四方のアルミで覆われた箱状の物体だった。

「今は亡きテクニクスのSL-10。気楽にアナログ盤を鳴らすときには、これが一番ね」

 そう言いながら、千恵姉はコーヒーを出してきた。

 しばらく、モーツァルトの佳曲の典雅な演奏を聴きながらコーヒーを飲んでいたら、一面が終わる頃に、千恵姉は外出の用意を整えて、リビングに戻ってきた。

「いい曲だった」

 と、音楽の感想を述べると、千恵姉はちょっと頬を膨らませるような仕草をして、お小言をはじめた。

「馨、いくら色気づいていないからと言ってね、化粧をして外出の準備を女性が整えてきたら、綺麗だよの一言くらい言っておくべきなの。そうしないと、彼女ができたとき嫌われるわよ。覚えておきなさい」

 はぁいと気のない返事をして、僕はやり過ごした。千恵姉は呆れたようだった。

「ま、出掛けましょう。aイヤホンでいいわね」

 そして、僕と千恵姉はいっしょに秋葉原へ行った。

 その帰り道では、僕は買ったばかりのMDR‐1Rを大事に抱え家路を急いでいた。







                 2.動揺




                 2.




 MDR‐1Rを買ってから、しばらく僕の音楽生活は穏やかだった。

 季節は、春を迎え僕は無事進級して高二になっていた。

 登下校時にはHF5を使用し、家ではMDR‐1Rで音楽を聴く。そんな環境ですっかり満足していた。それを破ったのは、一本の電話だった。

「馨、調子はどう。元気にやっている?」

 千恵姉からだった。僕は、ぼちぼちやってます、などと適当に答えていた。やがて、千恵姉が本題に入った。

「ちょっと、面白いもの作ったから、遊びに来なさい。しばらくご無沙汰だったけれど、必要な時にしか連絡よこさないようじゃ、女の子に嫌われるわよ」

 千恵姉は笑いながらも命令調で言った。

 僕も、しばらく行っていないな、と思っていたから、それに応じることにした。

「それじゃ近いうちに行くことにするけれど、いつが良い?」

「そうね。今週末はちょっと用事があるから、来週末はどう?」

「了解。来週の日曜日に行きます」

 結局、来週に行くことになった。久しぶりに千恵姉の家でスピーカーで思い切り音楽が聴けると思うと、楽しみになってきた。


 そして当日。僕はまた母からの土産を持たされて、千恵姉の玄関の前にいた。

 呼び鈴を鳴らすと、今日はすぐに返事があり、扉が開けられた。

「馨、良く来たわね」

「まあ、千恵姉のたっての願いならば、来ないとは言えません」

 僕の少し皮肉交じりの言葉に千恵姉は苦笑で応えた。

「今日は馨に聴いてほしいものがあるからね」

 千恵姉はそう言って、僕をリビングに案内した。

「聴いて欲しいものって何?」

「自作スピーカー。ちょっと調整で煮詰まったから、馨に聴いてほしくて呼んだわけ」

 千恵姉はちょっと憂い顔で言った。

「千恵姉、自作もするの?」

 僕は少し呆れて尋ねた。

「何だかんだと面白いのよ、自作は。色々と構想を考えている時とかね」

 千恵姉は少し言い訳するような調子で答えた。それから、

「立ち話もなんだから、取りあえず座って。コーヒー入れてくるけれど、何か注文ある?」

「ハワイコナ」

 僕は、一言だけでリクエストした。

「了解。今日はお替りしても良いわよ」

 千恵姉は微笑みながら、コーヒーを入れにリビングから出て行った。

 しばらくして、マグカップを二つ持ってきた千恵姉が僕の横に座った。

「ちょっと、ここの音で耳を慣らそうか」

 千恵姉はそう提案して、CDを選び始めた。

「何がいいかしら。向こうで鳴らすのと同じCDにしようかしら」

 千恵姉はそう呟きながら、CDを何枚か選んできた。

「まずはこれ聴いてみて。ライナー指揮のバルトークののオケコンとヨハン・シュトラウス二世の雷鳴と電光。これ、マルチチャンネル再生もあるけれど、今日は2チャンネルで鳴らすわ」

 そういって、プレイヤーにセットして終楽章を鳴らしはじめた。

 オケコンは正式名称はオーケストラのための協奏曲という。それで略してオケコンである。その終楽章は、金管のファンファーレから始まる多彩な楽器が活躍する楽章だ。ポルカ「雷鳴と電光」はその名の通り、打楽器と金管楽器が活躍する曲だ。

「やっぱり、以前マルチチャンネルを聴いたときよりも寂しいね」

と、僕が口にすると、千恵姉は、それは仕方ないわね、と応え、

「ともかく、2チャンネルでどんな鳴り方になるか覚えておいて頂戴」

 と言った。そして、何枚かのCDを鳴らす。

 僕は、それぞれの鳴り方をチェックしておいた。

「それじゃ、次は自作品を聴いてもらうかな。コーヒー忘れないでね」

 僕と千恵姉は、マグカップを持ち、メインシステムがある部屋に移動した。

 メインスピーカーは隅に移動されていて、自作スピーカーが普段メインシステムの置いてあるところにセッティングされていた。自作スピーカーは大きな箱の上に小型スピーカーがスパイクを介してセットされていた。

「この部屋にはいるのは久しぶり」

 僕が言うと、千恵姉は首をすくめて応えた。

「そうね。ここが家の心臓部なのよ。オーディオに興味がある人以外は入れないことにしているわ」

「で、聴いて欲しい自作スピーカーって、この小型スピーカー?」

 僕が尋ねると、千恵姉は首を横に振った。

「それと、下の箱ね。下のはケルトン方式のサブウーファーよ」

「なに方式?」

 僕は聞きなれない名称を聞きなおした。

「ケルトン方式。中にウーファーが入っていて、ダクトから低音だけが出てくるのよ。結構、設計には苦労したわ」

 千恵姉は笑いながら、説明した。

「で、上の小型スピーカーは普通の密閉。Qが0.7になるように設計してあるのはセオリー通りってところね。。ユニットはScan‐Speak(スキャンスピーク)の15W8530K00とD3004/6640を4kクロスで繋いでいるわ」

 千恵姉の説明は更に続いたが、僕にはさっぱりわからなかった。仕方ないので、曖昧に笑ってごまかすことにした。

 千恵姉は、夢中になると細かい説明を省いてしまう癖がある。曖昧に笑っている僕を見て、わかったものと勘違いしているようだ。

「大雑把にそんなところ。今、ツィーターの減衰量でちょっと悩んでいるのよ。それで馨の意見も欲しいなと思って呼んだのよ」

 ようやく、千恵姉が僕を呼んだ理由がわかった。

「ともかく、聴いてどちらが良いか意見を言えばいいんだね」

 僕が確認すると、千恵姉は大きく笑みを浮かべながら頷いた。

「そう。細かいことはいいから、どっちが良いかってだけでいいわ」

 それから、音楽を鳴らしはじめた。僕は、普段千恵姉が座っている椅子に座って、音楽を聴き始めた。椅子からは少し、千恵姉の香りがした。

 リビングでかけたCDを一通り鳴らし終わると、千恵姉はスピーカーケーブルを外して、スピーカーからユニットを外しはじめた。

「何をするの?」

 僕が聞いたら、千恵姉は減衰用の抵抗を換えると言う。そんなの切り替えられるようにしておけばいいのに、と僕が応じると、千恵姉は真剣な顔でこちらを向いた。

「馨。最初の頃はそれでもいいかも知れないけれどね、調整も最後になると最終的なものと同じにしておかないと、同じ音にはならないのよ。だから、抵抗はネットワークに半田付けして組むし、抵抗も最終的なものと同じDale(デール)の抵抗を5セット揃えて、比較するのよ」

 僕は千恵姉の迫力に気圧されて、そうなんですか、としか言えなかった。

 千恵姉は、そうだから少し待っていてね、と言い抵抗を付け替え始めた。

 約二十分ほどで作業が完了し、僕は新しいセッティングで音楽を聴き始めた。

「何が違うの?ちょっと、高音がおとなしくなった程度にしか聴こえないけれど」

 僕は素直な感想を言ってみた。千恵姉は我が意を得たりと言う感じの表情になった。

「それで正解。ツィーターの減衰量を前よりも1デシベルだけ落として全体で6デシベル下げたのだから。で、どちらが馨の好みだった?」

「後のほう。最初のは、曲によってちょっとうるさく感じることもあった」

「そう、ありがと。私のと同じ感想だわ。やっぱりここではツィーターは6デシベル下げるのが正解かな」

 千恵姉はそう言って、別のCDに換えた。ヴァイオリンソロの曲だった。これは何、と僕が聞くと、

「ヴェンゲロスの弾くイザイのソナタ。高音のチェックに良く使っているわ。これはかなりキツイ音が入っているから、破綻せずにきちんと鳴らせるなら合格だけど、どうやらこのスピーカーは合格のようね」

 千恵姉は表情を緩ませながら、そう答えた。

 その後、僕はリクエストしながら、色々と聴かせてもらい家路についた。


 帰宅していつものように音楽を聴いても、何となくつまらない日々が数日続いた。

 それは、考えてみると千恵姉のメインシステムを聴いてからだ。あれに比べると、なんとなくぼんやりとして切れが甘い。ベールを何枚か被ったように聴こえる感じだった。

 田中に言わせると、僕のポータブル機器の限界だと言う。では、どうしたら良いかと聞いたら、ヘッドホンアンプか何かの導入かな、と言う。外に持ち出すことを考慮しないならば、据え置き型って選択肢もあるけどな、とも言った。

 そして最後にこう付け加えた。

「悪いけれど、ポータブルならばそれなりに言える事はあるけれど、据え置き型の知識はそんなにないから、助けにならないと思う」

 僕は、そうか、と答えてから、ちょっと途方に暮れた気分になった。

 とは言え、そのままにはできないので、ネットで少し調べてみることにした。千恵姉に聞けば早いかもしれないが、あるいはこの前のようにお説教される可能性もある。相談するにしても、こちらがある程度本気である事を見せるために、まず下調べしておこうと思ったのだった。

 まずは検索サイトで「ヘッドホンアンプ 据え置き」と入れてみると、密林やaイヤホンなどのショップが真っ先に出てきた。

 これならなんとかなりそうかな、と思いその一つを開いてみると、何十種類ものヘッドホンアンプが表示された。何の選択基準も持っていない僕は唯々(ただただ)混乱してしまった。

 これではいけないと、「ヘッドホンアンプ おすすめ」で検索してみる。某巨大掲示板やそれのまとめサイトが最初のページに表示された。これはどうかと熟読してみたが、ますます混乱する結果になってしまったが、どうやら据え置きの方が良いことが大勢の意見のようだった。

 それでも漸く、ヘッドホンを主に扱うオーディオ店のお勧めベスト10なんてものを探し当てることができたので見てみたが、高い。

 安いものでも五万円前後、高いものだと云十万円のものまであった。

 結局、何も決めることはできなかった。

 そうなると、頭を下げて千恵姉に相談、となる。

 千恵姉に電話すると、しばらく呼び出し音が続いたあと、ようやく出た。

「馨、どうしたの?」

 ぶっきら棒に千恵姉は聞いてきた。

「それで、相談はなに?また、オーディオの事でしょうけれど」

「そうなんだけれど、実は千恵姉のところで聴いた音のあとでは、自分のところの音がなんとなく冴えなく聞こえて、それでどうにかしたいと思って」

 千恵姉は、まあ、と言ってしばらく黙り込んだ。僕がどうしたのと聞いても、しばらく沈黙が続いてから、ようやく話し始めた。

「そういう事なら、一度家に来てもらって、ゆっくり相談したほうが良さそうね。この週末は、と、予定が入っているから、来週末はどうかしら」

「また、コンサート?」

「まあね。じゃ、来週末の日曜日でいいわね?」

「うん、わかった」

「それから、一つ宿題。兄さんと義姉さんに確認しておいて。家でどのくらいの音を出してもいいのかって。それから、馨はヘッドホンとスピーカー、どちらが好きなのかも考えておいてね」

 そう言って、千恵姉は電話を切った。


 翌週末、千恵姉の家に向かった。相変わらず、母からのお土産を持たされていた。

 呼び鈴を鳴らすと、すぐに千恵姉が出た。どうやら今日は音楽は聴いていなかったようだ。母からのお土産の新茶を渡すと、千恵姉は相貌を崩して笑顔になった。

「これこれ。このお茶は良いのよねぇ。毎年ありがと、って義姉(ねえ)さんに言っておいてね」

 そう言いつつ、僕をリビングに上げると、貰ったばかりの新茶を入れてきた。千恵姉は新茶の香りを楽しみながら、単刀直入に僕に尋ねた。

「それで、馨はどうしたいの?」

「やっぱり、千恵姉のところのスピーカーを聴いてしまってからは、ヘッドホンよりもスピーカーの方が良いかな、って思って」

「で、兄さんたちはどうなの?」

「うん、お前の聴く音楽ならば、そんなに気にはしないだろうって」

 千恵姉はそれを聞いて、ちょっと皮肉そうに微笑んだ。

「クラシックはこう言う時強いわね。お利口そうにみえるから」

「千恵姉も、聴くのはクラシックばかりなのに、その言い方はないんじゃない」

 僕がちょっと異を唱えると、千恵姉はますます皮肉そうな笑みになった。

「だから、私も得しているのよねぇ。夜に音量を大きくして聴いていても、文句の一つも来たことないのよ」

 千恵姉は皮肉そうな感じで言ったあと、確認するように続けた。

「で、馨はスピーカーで音楽を聴きたい。そして、それに特に問題はない、と言うわけね」

 僕は頷いて答えた。

「結構。それでは、予算の話になるけれど、高校生だから数万円ってところよね」

 千恵姉は、妙に張り切りだした。

「やっぱり、ヘッドホンでちまちま鳴らしているより何も、スピーカーで空間を鳴らしたほうが楽しいものね。オーディオはやっぱりスピーカーを鳴らしてこそ、だわ」

 と、田中が聞いたら怒りそうなことを言う。僕は、そんなものなのかな、と思っていた。

千恵姉は更に続く。

「予算数万円となると、アクティブスピーカーを使うしか手はないように思うわ。馨はどう、それで良い?」

「アクティブスピーカーって?」

 僕は話の腰を折る。千恵姉は、ちょっとズッコケた。

「一言で言えば、アンプ内蔵のスピーカーのことよ。これがあれば、あとはソース機器を揃えるだけで良いわ。極端な話、馨が持っているウォークマンでも良いってことよ。アクティブスピーカーって、十万円以内でもそれなりに良い物はあるわ」

 どう、と聞かれ僕は、それは良いね、とだけ答えられただけだった。実際、オーディオの事はまだまだ良く知らないので、千恵姉におまかせ状態なのが、正直なところだ。

「問題は、ソース機器をどうするかよねぇ。馨は何で音楽を聴いているの。CDがやっぱり多いのかしら」

「CDもあるけれど、PCでニコ動やYoutubeを観ることも多いかな」

「そうなると、USB入力のある必要があるわね。何かあったかしら」

 そう言って千恵姉は奥の部屋に入ると、オーディオ雑誌のバックナンバーを何冊か持ってきた。

「さて、この中から探してみましょう。USB入力のあるCDプレイヤーを探してね」

 僕にも何冊か渡してそう言ってから、自分も探し始めた。

 結果は、空振りだった。USB入力のあるものは、目的の価格帯にはなかった。

「これは、CDはリッピングしてUSB-DACにした方が良いかしら?」

 千恵姉は、誰にともなく呟いた。

「USB-DACもピンキリだけど、上手く選択すれば良いものはあるわよね」

 USB-DACとは、USB入力のあるDAC―デジタル信号をアナログ信号に変換する機器の事だ。このくらいなら、さすがにわかった。

「なにか、お勧めある?」

 僕が聞いたら、千恵姉は難しい顔をした。

「だから、種類が多くて新製品も多いから、ピンからキリまであるのよ。どれがお勧めと言うのも、なかなか難しいわね」

「でも、それがあれば、PCを繋げれば、リッピングしたCDからYoutubeまで、鳴らせるんでしょう」

「そうなんだけど、PCはねぇ」

 千恵姉はしばらく考え込んだあと、いたずら好きの少女が目標を発見したような笑みを浮かべつつ、聞いてきた。

「馨、兄さんはまだPCオタクやっているわよね」

 質問ではなく、確認だった。

「うん、父の部屋に行くと、PCパーツが散乱している。母は、パーツってのは自然増殖するものなのかねぇ、なんていつも嘆いている」

「それなら結構。きっと、NASもあるわね」

「ナス?」

「Network Attached Strageで、NASよ。それの領域を貸してもらえるか、聞いてみなさい。まあ、2TBもあれば十分だから」

「わかった。NASを2TBほど貸して欲しい、と聞けばいいんだね」

 僕は、ほとんどオウム返しにそう返答した。

「そうよ。貸してもらえるのなら、電話で教えて。そしたら、来週には良いこと教えてあげるわ」

「良いこと?」

「そう。ソース機器の解決法」

「今電話で聞くから、今日ってのは駄目なの」

「駄目よ。ちょっと準備が必要なの」

 千恵姉はそう答えて、いたずらっぽく笑った。思わず見とれてしまう笑顔だった。


 その晩、父の部屋に聞きに行った。父は晩酌をしながらネットをしていた。相変わらず散らかった部屋で、あちこちに、むき出しのマザーボードなどのPCのパーツが転がっていた。

「おう珍しいな、馨か。どうかしたか」

 父とは疎遠と言うわけではないが、特にすすんで仲良くしようとは思っているわけでもないので、あまり父の部屋に入ることはなかった。

「ちょっと聞きたいのだけれど、NASってあるの?あったら、その領域を少し分けて欲しいのだけど」

「分けるも何もお前も使っているだろう。ウチではホームサーバーって呼んでただろう。ま、あれもNASの一種だ」

「あ、あれもそうなの。千恵姉はNASを2TBほど貸してもらえ、って言っていたんだけど」

「千恵になんか入れ知恵されたのか。何に使うんだ?」

「さあ。それについては、教えてくれなかったけれど、オーディオ関係だと思う」

「訳も言わずに2TBも寄こせとは随分だな。まあ、20TBあるから割り振れるが」

 と、口では不機嫌そうに言いながらも、父は何となく嬉しそうだった。ターミナルを開くと、早速コマンドを打ってなにやらやり始めた。

 しばらくすると、おしまい、と(つぶや)いてエンターキーを押した。

「これでよし、と。お前の領域、2TBにしておいたぞ」

「なんかあっさり出来たね」

「まあ、その辺柔軟にできるように設定しておいたからな。役に立って良かったよ」

「ありがと。これで、千恵姉に何がしたいのか教えてもらえるよ」

「何をやりたいのかわかったら、俺にも教えてくれ。一応、管理人としては怪しい事に使われないか知る権利はあるはずだ」

「うん。わかったらまた、話に来るよ」

 僕はそう言って父の部屋を出た。千恵姉に電話をすると、それなら来週の土曜日にお出で、と楽しそうに言われた。


 その週末、僕はいそいそと千恵姉の家に向かった。

 千恵姉は家のチャイムを鳴らすとすぐにでた。何やら待ち構えていたように感じられた。

「馨、早かったわね」

 千恵姉は何気なさげに迎えてくれたが、雰囲気はそれを裏切っていた。僕は、なんとなく飢えた虎を前にした気分になった。

 オーディオ部屋に入れてもらっても、以前入れてもらった時との違いがわからなかった。千恵姉はコーヒーをいれに台所に行っている。

 しばらく待っていると、千恵姉がコーヒーを持って来た。僕はコーヒーを受け取りながら尋ねてみた。

「見せたいものはなんなの?この部屋、以前来た時と変わっていないみたいだけど」

 千恵姉は、いたずらをしている少年みたいな表情で微笑んでいた。

「わからない?」

「わからないね」

 僕は素直に答えた。

「目の前にあるんだけど」

 千恵姉は、目の前の小さなテーブルに置いてある基板を指さした。それは、10センチ×5センチくらいの二段になった基板だった。上の基板にRCA端子が出ていて、下の基板は電源アダプターとLANケーブルが繋がっていた。

「これ?なんなの?」

「説明する前に聴いてみてちょうだい」

 千恵姉はあらかじめ用意してあった長めのRCAケーブルで、アンプとそれを繋げた。それから、タブレットを持って何やら操作し始めた。

「何がいいかしら。馨、なにかリクエストある?」

「オーケストラの曲。まあ、何でもいいや」

 僕は投げやりに答えた。どうも千恵姉の意図がわからなかった。このあまりに貧相な基板むき出しの機械から何か期待できるとは思わなかった。千恵姉はそんな僕を見て、更に笑みを深くした。

「期待外れって顔しているわね。それじゃ、ベートーヴェンの序曲でもいこうか」

 そして、タブレットを操作していた。千恵姉は後ろで立ったままだった。しばらくしたら、音楽が始まった。

 コリオラン序曲だった。

 荘重な出だしを聴いて驚いた。スピーカーの間で、きちんとオーケストラが鳴っている。

 驚いているうちに、音楽は進んでいった。オーケストラの再生が難しいのは、さすがに僕でも知っている。きちんと人数分の弦の音なんて普通の装置では聴けやしない。それをこの小さな基板が再生していた。

 音楽が終わって、僕はなんとも言えない気持ちで千恵姉を見上げた。

「驚いた?」

 千恵姉は、びっくり箱を開けて見事に周りを驚かせた時のような顔をしていた。

「驚いたけれど、これはなんなの」

「|Raspberry Piラズベリー・パイ 2と|Hifiberry+ハイファイベリー・プラスよ。ワンボード・PCとそのインターフェース・ボードと言ったところかしら。ちなみに、OSはVolumio(ヴォルミオ)ね」

 と、千恵姉はしたり顔でこう言ったきりだった。千恵姉的にはこれで説明は済んだらしい。

 しかし、僕には言葉がすり抜けて行っただけだった。何から聞いていけばいいのだろうか、と途方に暮れた。

「ええと、そのラズベリーなんとかの説明から始めて」

 僕がそう求めると、千恵姉は呆れたような顔になった。

「そこから説明しないと駄目?馨、あなた学校でなに勉強しているの」

 少なくとも、そのワンボード・PCの勉強はしていません。と僕は心のなかで思った。

「仕方ないわね。少し長くなるけれど、千恵教官が教えてあげるわ」

「ラズベリー・パイ2はさっきも言ったように、ワンボード・PCよ。このボードの上にCPUからメモリまで全部載っているわ。ちなみに、CPUはARMの900Mヘルツの4コア。メモリは1Gバイトあるわ。ちょっと昔のPC並みの能力はあるっていう訳ね。で、ハードディスクの替わりにこのマイクロSDカードにOSイメージを書き込んでブートする。ここまではわかった?」

 千恵姉は口調は嫌そうだったが、乗りに乗って説明していた。腕も組んでいるし。それになんだよ、千恵教官って。

「今のところは、なんとかわかった。とりあえず、そのボードは一昔前のPC並みの能力があって、マイクロSDカードで起動できるわけだ」

 僕は、なんとかそう答えた。千恵姉は続ける。

「そうよ。で、OSがヴォルミオというわけ。ヴォルミオは音楽再生に特化したOSで、|debian Linuxデビアン・リナックスの系統ね。これにはMPDというデーモン、まあソフトと考えてくれていいわ、が載っていて、それが音楽再生を(つかさど)っているわけ。音楽ファイルは、LANでNASから取ってくるの。それをPCやタブレットのアプリから動かしているの。これはOK?」

「大体。そのヴォルミオというOSで、リモートから音楽ファイルを取ったりコントロールができるということくらいは」

「今はそのくらいでいいわ。で、ハイファイベリーと言うラズベリー・パイ2に接続されたボードがデジタル信号をアナログに変えて出力するの。基本的にはこんなところかな」

 千恵姉は、一通り説明を終えて、僕の顔をまじまじと見た。理解しているか測っている顔だな、と僕は思った。

「とりあえず、概要はわかったと思う。それで、これはどうしてあんなに音が良かったの。普段の千恵姉のシステムとあんまり変わらないくらいだったけれど、千恵姉のCDプレイヤーも安物じゃないでしょ」

 僕は、疑問に思ったことを口にした。千恵姉は、困ったように頭を掻いた。

「それがね、よくわからないと言うのが本当のところなのよ。特にハイファイベリーは、ねぇ。I2S接続だから良いんでしょうけれど、DACチップも安物でバッファーもない構成なのに、ちょっと安っぽい感じはするけれど、音は良いのよねぇ。まあ、OSが軽いからとか、ローノイズだからいいんだという人もいるけれど、それも何だか、って感じで。まあ、音が良ければ何でもありなのが、オーディオの常なのよ」

 と、苦笑いを浮かべながら説明した。

「じゃ、もう一つ聞いてみて」

 と言うや、ラズベリー・パイ2の電源をACアダプターから、モバイルバッテリーに変えた。そして、またコリオラン序曲が流れ始めた。

 今度は、ノイズレベルが一段も二段も下がったように感じられた。少し安っぽい音と千恵姉は言ったが、僕には随分と高品位な音に感じられた。音楽が終わって、僕は千恵姉にまた驚きと共に言った。

「凄いね。今度はノイズレベルが下がって、随分と静かになった」

 僕がそう言うと、千恵姉は今度は素直な笑みを浮かべた。

「そうね。馨は耳は良いわね。では、もう一つ驚くことを教えてあげよう」

 千恵姉は、少し威張ったような表情になった。それにしても、表情のころころ変わる人だなぁ、と僕は思ったが、黙っていた。

「なんと、お値段。ラズベリー・パイ2が五千円ほど。ハイファイベリーは三十ユーロ、日本円で四千円ほどよ。これにモバイルバッテリーをつけても、一万円ちょっとくらいで、できてしまうの」

 千恵姉どや顔している、と僕は心の中で呟いたが、言っている事には素直に驚いた。

「ええと、これで一万円って、ソースは一万円で何とかなるってこと?」

「まさしくその通りよ。だから、問題の一つはこれで解決したと思うわ」

 千恵姉は胸を張ってそう言った。僕はその通りだとは思ったけれど、ちょっと癪になったので、こう返した。

「胸張ると、無い胸が強調されちゃいますよ」

 そして、千恵姉は僕の頭を軽くはたいてから、二人で笑いあった。


 翌日から行動を開始しようとして、はたと思った。ソース機器の問題はこれで解決したけれど、ヘッドホンをどうやって鳴らそうかとの問題がまだ残っている。笑ってばかりもいられなかったのだ。最低でもヘッドホンアンプは必要に思えた。

 さて、どうするか。やっぱり千恵姉に相談するしかないかなと思い、電話をかけた。

「ヘッドホンをどうやって鳴らすか、ねぇ。今まで何で鳴らしていたの」

 千恵姉はのんびりした口調だった。

「千恵姉からもらったウォークマン」

 と、僕がぶっきら棒に答えると、

「そうだったわね。それじゃ、ラズパイつなげられないわね」

 と申し訳なさそうに答え、しばらく黙っていた。何かを考えているようだった。

「それなら買うのもいいけれど、それなり以上のものは案外高いものなのよ。なんなら自作する?」

 また、突拍子もない提案だった。半田ごてなんて中学の技術家庭科の時に触ったくらいのもので、その時うっかり熱い半田ごてに触り、火傷をしたのは嫌な思い出だった。

「自作なんてできませんよ。中学の技術家庭科の時だって、イモ半田ばかり作って、接触不良で泣きながら半田づけやり直したんですよ」

 すると、千恵姉は涼しい声で応じた。

「あら、それならもうイモ半田作ることはないわね。少なくともイモ半田が何かわかっているのだから、その修正もできるってことでしょう。なら、大丈夫よ。きちんと半田づけできれば、回路図が読めなくても、ヘッドホンアンプを組めるテキストならいくらでもあるわ」

 そう言われると、なんとなくそんな気がしてきた。ちなみにイモ半田とは、加熱不足で玉状になって基板にきちんと融着していない半田のことだ。

「そうは言っても、本当にそんなテキストあるの?」

 僕は、せめてもの抵抗を試みた。

「あるわよ。例えば、トラ技編集部の出した本なんて、初心者のために丁寧に回路の解説をしているわ。せっかく、秋葉原に手軽に行ける場所に住んでいるんだから、秋葉原を利用しない手はないわ」

 千恵姉は楽しそうに説得していた。

「それなんて、本?」

「ええと、ちょっと待ってね」

 と、言って千恵姉は電話口から離れた。しばらく待っていると

「あったわ、これね。トラ技編集部の『ヘッドホン・アンプの製作実例集』って本ね。割とするわね。いいわ、貸してあげるから送るわ。それ読んで考えてみて」

 と言って電話を切った。

 二日後、レターバックに入れられて本が届いた。値段を見たら、四千円もしていた。確かに、これは高校生には高い本だった。

 取りあえず、回路図を追うことができる程度の高校生にはちとレベルが高かった。千恵姉に電話してその事を伝えると、千恵姉はしばらく考えていた。

「じゃ、キットならば、何とかなるわよね?」

「難しくないものならば」

 僕は、また困惑しながら答えた。

「大丈夫よ、一枚基板に部品取り付けるだけだから。LME49600ってバッファーアンプを使ったヘッドホンアンプの基板を死蔵しているから、それをあげるわ。それをきちんと作れば、その辺の市販品には負けないアンプができると思うの。説明書はPDFをメールで送るわ。それで、やってみて」

 千恵姉は一気にまくし立てて言った。僕は、それに頷くしかなかった。

 しばらくしてメールが来た。添付していたPDFを読むと、部品は自分でそろえる事になっていた。僕は不安になった。数日後、千恵姉から郵便が来た。中を開けると、基板が一枚と部品が二個入っていた。よく見るとLME49600と書かれていた。心臓部となるバッファーアンプだろう。僕だけでは、とても部品を選択することはできそうになかった。第一、どんな店に部品が売っているのかわからない。

 僕は、再び千恵姉に泣きついた。

「秋月か千石に行けば揃うと思うけれど、馨じゃわからないわよね。それじゃ、今週末は空いているから、秋葉に部品を買いに行こうか。多分、このくらいの回路規模ならば、一万円もあれば揃うと思うから、そのくらい用意しておいてね」

 週末の土曜日、僕らは駅から少し離れたドトールで待ち合わせしていた。約束の時間から十分ほど遅れて千恵姉がやっていたので、僕は手を挙げて合図した。

 千恵姉は僕を認めて、笑顔を浮かべてやってきた。

「ここ、よく分かったわね」

 開口一番、千恵姉はそう言ってきた。どういう意味、と不思議そうな顔をする僕に続けて言った。

「秋葉と言っても、路地を少し入ったところだし、中央通りにもう一軒あるから勘違いしやすいのよね。ここに馨がいなかったら、中央通りの方も覗いてみようと思っていたところなの」

 納得したところで、僕は答えた。

「〈ドトール 秋葉〉で検索して二件出たから、千恵姉の言っていた通り、路地に入った方に来たわけ。それが正しかったんだ」

「そういう事になるわね。この近所に三件ほどパーツ屋があるから、そこで部品を揃えるわ。その三件で間に合うことはネットで確認済みよ」

 千恵姉は、やはり効率的な性格だった。無駄な事を嫌う。注文したコーヒーをさっさと飲んで立ち上がった。

「さて、行くわよ。一番混んでいる秋月から行くわよ」

 千恵姉は張り切っていた。こうしたところに来ると、やはり血が疼くらしい。

 秋月電子は、千恵姉の言った通りに混んでいた。狭い店内の壁にはびっしりと何ともわからないパーツが並んでいて、立錐の余地のないほど人で埋まっていた。

「取り敢えず、どこでどのパーツを買うかは選択してあるから、このパーツ表の通りに買ってきて。秋月で買うものはAとつけてあるわ。私は(おもて)で待っているから。それから、ソケットやプラグと配線材も忘れずにね」

 と、千恵姉に背中を押され、中に入った。

 店内でパーツを入れておく小さな網かごを持って、僕は店内に突撃していった。

 三十分後、自分で探したり店員に聞いたりして、Aと印のつけられた部品を買って出てきた僕は、表に千恵姉がいないのに気付いた。どこにいるかと探していたら、ちゃっかり店内でなにかを買って出てくるところだった。

「千恵姉、多分Aと印のついたものは全部買ってきた」

「店頭で確認するのも面倒だから、一通り買ったらまたドトールは言って確認しましょ。さあ、次行くわよ」

 と、三軒隣の店に入った。

「ここでは、コンデンサと抵抗を買うわ。種類が多いから間違えないようにね。コンデンサは、セラミック、フィルム、電解と種類があるから間違えないでね。抵抗はタクマンの金皮が基本ね」

 と、慣れた感じで地下への階段を降りていった。

 隅の方に小さな引き出しが並んでいる棚があって、そこにコンデンサと抵抗があった。

 電解コンデンサは種類がいくつもあって、どれにすればいいか迷った。

「千恵姉、電解ってどれを選べばいいの?」

 千恵姉はここでも他のコーナーを物色し始めていた。

「ん、好みね。基本的にオーディオ用って書かれたものなら、好きなものを選んでいいわ」

「オーディオ用って言っても、何種類もあるんだけど」

「だから、好みよ。音が違うから何種類も並んでいるの」

「けど、素人には、どれがどんな音なのかわかるわけないでしょ」

「じゃあ、勘ね。なに、オーディオ用ならば外れはないわよ。好みで買ってみればいいわ。それも経験よ」

「経験ねぇ」

 と、僕はぼやきながら棚に向かった。千恵姉はあんまり教えてくれる気はなさそうだった。

 そんなで、わからない事がある度に千恵姉に聞きながらも、漸くコンデンサと抵抗を選び終わった。選び終わった部品が入った網かごを千恵姉に見せて、買うべきコンデンサの種類が間違っていないか確認してもらった。抵抗はカラーバーを一々確認するのも面倒だから馨を信じましょう、と言われた。

 会計を済ませて外に出ると、日がかなり傾いていた。

「これも必要よ」

 千恵姉は、自分で買った部品を僕に渡した。

「ヒューズボックス付のコンセントに6.5ミリのヘッドホン端子よ。ヒューズボックス付のはここにしかないから、ヒューズと一緒に買っておいたの。こんな小物も必要よ」

 僕はお礼を言って、受け取った。そんな僕を見て、千恵姉は目を細めていた。

「さあ、次に行くわよ」

 掛け声と共に、次の店に突撃した。

 一時間後、僕らはドトールで再びお茶していた。結局、基板に付ける部品類の他にケースに電源トランスや小物を買って、一万円を軽くオーバーしてしまったが、オーバーした分については、千恵姉が出してくれた。

「小物やら電源トランスやら買ったから、結構な買い物になったわね。けど、部品は揃ったようね」

 千恵姉は、買ったものをチェックしながら澄まして言った。対して僕は初めての事で疲れ果てていた。

「部品を買うだけでこんなに疲れるとは思っていなかったよ」

 千恵姉は、コーヒーを飲みながら、薄く笑いかけた。

「初めてだからそんなものよ。この程度で根を上げていたら、自作なんてできないわよ」

「ところで、工具類は兄さんのところにあるわよね。PCオタクだけど、半田ごてとテスターくらいはあるわよね?」

 僕は疲れていて、生返事をしただけだった。千恵姉は肩を竦めて、独り言ちた。

「まあいいわ。なかったら、また秋葉に来れば良いだけだわ」

 それを聞いて、僕はつい呟いた。

「こんな秋葉はもう嫌だ」

「あら、昔はこんな秋葉だったのよ。十m間隔でメイドさんがメイド喫茶の勧誘をしている秋葉なんて、この十年くらいのものよ」

 千恵姉は呆れたように言った。

「古い秋葉なんて知らない」

 僕は、ただ沈没していった。千恵姉はそれを見て、駄目な弟を見守るような表情になっていた。

 その夜は、疲れ果ててそのまま寝てしまった。夢の中で完成したヘッドホンアンプが良い音を奏でていた。

 次の日から僕はヘッドホンアンプの組み立てを始めた。工具類は確かに、父が持っていた。よく使いこまれた感じの工具だった。

 説明書によると、まずLME49600を取り付ける事、となっていたので慎重に半田付けをはじめた。一つ部品を取り付けるごとにパーツ表と見比べながら部品を半田付けしていったが、半日ほどして基板は出来上がった。

 しかし、それからが大変だった。ケースにコネクタを固定するため、穴をあけていった。幸い電気ドリルもジグソーも父が持っていたので作業はできたが、電動工具がなければ、ここで中断するところだった。

 一通り、板金加工が終わったところで、夕食だった。夕食中に父が、何を作っている、と聞いてきたので、ヘッドホンアンプ、と一言答えたら、また千恵か、と苦笑していた。

 その日は、コネクタを取り付けたところで、作業を終了させた。

 翌日帰宅してから、音出し前のチェックに入った。トランスを半田付けして、コンセントにつなぎ、テスターで規定電圧が出ていることを確認してから、基板をトランスに取り付けた。

 説明書の通りに、そのまましばらく放置して煙も異常発熱もないことを確認してから、オペアンプの電圧を測った。正電圧が0Vのままだったので、基板を取り外し、半田をチェックしていった。ブリッジダイオードのところでイモ半田になっている箇所を発見し、そこの半田付けをやり直した。他の半田もチェックしてみたが、一応大丈夫なようだった。

 もう一度電圧を測りなおしたら、今度は大丈夫だった。そこで、オペアンプをソケットにはめて、電源を入れてしばらく様子を見た。オペアンプもその他の部品も異常はなさそうだったので、ウォークマンを接続して、音を出してみた。100円ショップで買ってきたイヤホンを接続して恐る恐るボリュームを上げてみる。

 音楽が鳴っていた。どうやら無事動作しているようだ。そのまま、二十分ほど鳴らしてみて大丈夫なようだったので、MDR‐1Rを接続した。

 豊かな音が鳴りだした。ウォークマンとは余裕が違った。僕はそのまま一曲聴いてから、我に返った。

 その日は、ずっと音楽を聴き続けて過ごした。苦労した甲斐はあったようだった。


 ようやくヘッドホン・アンプが出来上がり、いよいよソース機器の準備となった。

 ラズベリー・パイ2とヴォルミオは簡単だった。ラズベリー・バイ2はあっさりアマゾンで見つかった。LAN端子のあるB型を千恵姉のアドバイスに従って購入した。この時、モバイルバッテリーと16GBのSDカードも一緒に購入した。合計九千円ほどをコンビニ払いを選択して、コンビニに行って代金を支払った。

 ヴォルミオはもっと簡単で、ネットで検索したらヴォルミオのサイトがトップに出たので、ラズベリー・バイ2用のディスクイメージをダウンロードするだけだった。これをDD for Windowを使ってマイクロSDカードに書き込めば、OSのインストールは終了した。

 しかし、ハイファイベリーは難題だった。何しろ、日本国内で売っているところはない。海外でも、ネットで通信販売しか入手方法はないようだった。英語のサイトを一生懸命辞書を引きつつ読んでも、決済はクレジットカードのみだから、高校生の僕にはどうしようもなかった。

 結局、どうしようもなくなって千恵姉に泣きつくことになった。

 千恵姉は、ハイファイベリーと同様のI2S接続のDACボードを売っている日本のサイトを紹介してくれた。ここから買えば良いとの事。銀行振り込みだったので、申し込んで代金を振り込んで二日ほどで来た。

 これで一通りのハードはそろったけれど、問題は次の設定だった。

 千恵姉は、ウェブブラウザ上で簡単にできるよ、と言っていたけれど、あの人の簡単を本気に受け取ってはいけない。ヴォルミオの入ったマイクロSDカードをラズベリー・バイに刺して、ホームネットワークに接続する。それから、充電済のモバイルバッテリーを接続すると、ラズベリー・バイの基板上のLEDがちかちかと光って、立ち上がっているのがわかった。しばらくすると、ヘッドホンからヴィブラホンの音が聞こえたが、これがヴォルミオの立ち上がった起動音らしかった。

 僕は、ウェブブラウザにhttp://volumio.local/と入力して、しばらく待ったら、二つの円が印象的なヴォルミオの設定画面が現れた。

 メニューが右上にあるので、それをクリックするといくつかの選択項目が表れた。

メインの次にLibraryがあった。ここで、NASの設定をするのだけど、ちょっとまだ設定がわからないので、USBメモリに音楽ファイルを入れて、ラズベリー・パイのUSB端子に挿入する。ヴォルミオはこれでUSBメモリを自動認識してくれる。

 それから、SystemのI2SドライバーのところでI2S DACをハイファイベリーにして、applyをクリックする。その後、playbackのところで、オーディオ・アウトプットをハイファイベリーにして、ミキサーをdisableにして、設定終了となる。これを逆にすると、オーディオ・アウトプットにハイファイベリーが見えなくて嵌ることになる、と千恵姉からアドバイスをもらっていた。こうしている間も、ヴォルミオはデータベースをアップデートしている。

 それが終わったら、Browsから聴きたい曲を選んでプレイリストに登録する。そして、プレイボタンを押して音が出れば、設定は成功。と、プレイボタンを押すときにはちょっと緊張したが、無事音楽が鳴り始めた。

 音が出れば、設定は大したことは無かったなと思えるけれど、やはり千恵姉のアドバイスは当を得たものだった。

 余計な音は出ないが、必要な音はきちんと出ていた。時々弦が味気なく感じることがあるけれど、それでもかけたコストを考えると我ながら良く鳴っていると思う。結局、この日は夜遅くまで音楽を聴いていて、翌朝が辛かった。

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