かみさまのいとしご
イルマの住む村は、山の麓にある寂れた場所だった。
ぽつりぽつりと建っている住居、寂れた教会、夜になると少しだけ賑やかになる酒場。
あるものと言えば、それくらいである。
物珍しい観光場所がある訳でもないので、旅人が立ち寄ることすら珍しい、そんな小さな村だった。
「イルマ!いつもの弾いてくれよ!」
そして、イルマの仕事は酒場で小さなオルガンを弾くことだった。
いつもの、と言われて指を躍らせるのは、きっと都では時代遅れだと笑われてしまうような古臭いワルツ曲。
時々絡まりそうになる指を必死に踊らせ、イルマは音楽を奏でていた。
いいぞいいぞ、と囃し立てる声に、小さく微笑む。
賞賛されることは素直に嬉しい。
けれども、それと同時に虚しさがイルマに襲いかかる。
満たされない、心の奥底の暗い感情が刺激されるのだ。
「音楽の神様に愛されたい」
それが、イルマの口癖だった。
村人たちはそれを聞く度に、お前のオルガンは素晴らしいよ、十分愛されているじゃないかと笑った。
小さな村の中で、イルマのオルガンはいつでも1番だった。
素晴らしいよ、もっと聞かせてくれ、最高じゃないか。
そう言われる度に、イルマは曖昧な微笑みを返し、言葉を濁した。
違うのだ、求めているのはこんな生易しいものではない。
身を震わせ、心を引き裂くような、激情を奮い起こす、そんな音楽性を手に入れたいのだ。
鼓膜を刺し、脳みそを揺らすようなオルガンを弾きたい。
聞くものが失神し、賞賛の言葉すら忘れるほどの、圧倒的な音が欲しい。
イルマは、狂おしいくらいに音楽を求め、愛している。
そして、いつか、その音楽にも愛して貰えることを願っていた。
◆
「イルマ!悪いけど、ちょっとお使いに行ってきてくれるか?」
「はーい。裏のおじさんのところ?」
「そーそー。じゃがいも貰って来てくれ」
店主に言葉を投げられ、イルマはオルガンの蓋をそっと閉じる。
練習していた曲の楽譜を片付けて、立ち上がった。
イルマは、年の割には背が小さい。
その代わり、手だけは異様に大きく、指も他の年頃の娘と比べると太い方だった。
短く切り揃えられた爪は円形で、その手だけを見れば、なんともバランスが悪い。
くすんだ金髪に、そばかすだらけの頬はお世辞にも綺麗だとは言えないが、愛嬌はあった。
その胸に音楽への激情を宿してはいるものの、村人たちから愛されている少女。
それは、その哀れな境遇も手伝って、同情を買っていたからかもしれない。
イルマの家族は、早くに亡くなっていた。
原因は、火事である。
10年程前の話だ。
イルマはその時のことをしっかりと覚えている。
出火の元となったのは、鍛刀ための釜戸だった。
イルマには両親と、そして、年の離れた兄がいた。
両親は普通の人だった。
取り立てて、特技のある人達でもない。
ただ、神を愛し、毎日教会に赴き祈りを捧げ、質素である生活を美徳とするような人たちだった。
しかしながら、兄は普通の人ではなかった。
見るものを魅了し、美術品としても、本来の用途としても使える、至高の剣。
目を奪われたが最後、手にせずにはいられない、天上からの贈り物。
その刃にかかって命を落としたものは、皆、至福の表情を浮かべていたとも言われている。
人々を惹きつけて止まない、魔を持つ剣を鍛える事のできる、不思議な力を持っていた。
けれど、イルマは知っている。
兄は、最初から神がかった鍛刀の才能を持っていた訳ではないのだと。
彼は、いつも言っていた。
「鍛冶の神様に愛されたい」
狂おしいほどの激情を胸に抱え、剣にのめり込んでいた。
見た者の正気を奪い、美しさに感嘆し、研ぎ澄まされた刃の鋭さに平伏する、そんな剣を作りたい。
その執念は、イルマの音楽に対する思いによく似ていた。
兄が作る剣は、初期の頃は、なまくらとも呼べる代物ばかりだった。
その後、彼が作り出す剣とは比べるまでもない。
玩具にも似た、どこにでもある、平凡なもの。
そんな兄が変わったのは、突然だった。
ある日、作った剣を売ってくる、と村を出た。
いつもなら、その日のうちに帰ってくるにも関わらず、兄は3日3晩その姿を消したのだ。
両親は涙を流しながら、寂れた教会の片隅で、兄を帰してくださいと祈りを捧げた。
村の者も皆心配し、浮足立ったように仕事が手につかなかった。
ただ1人、イルマだけは、いつものようにオルガンの練習をしていた。
もちろん、兄のことは心配だった。
それでも、音楽に対する執着を1日も休ませる暇などなかった。
両親の祈りが通じたのか、姿を消してから4日目に、兄は帰ってきた。
出て行った時と同じ姿で、何食わぬ顔で。
ただし、持っていた剣だけは、綺麗さっぱり無くなっていた。
売り払った訳ではない。
その証拠に、兄は一銭も手にしていなかった。
イルマには、それが不可解で仕方がなかったが、両親は兄の無事に比べれば、どうでも良いことだと思ったらしい。
「あぁ、良かった!無事だったの!」
両親が感極まって抱擁するが、兄は答えない。
ただ黙って両親を見つめた後、するりとその腕を解いて、真っ直ぐに鍛冶場へと入ったのだ。
そして、今まででは考えられない程の逸品を鍛えてみせた。
両親はもちろん、村の衆も息を呑んで、呆然と口を開けるしかなかった。
「お兄ちゃんは、鍛冶の神様に愛してもらえたのね」
2人きりの時に、イルマはそう訊いてみた。
けれど、兄は答えなかった。
血走った目に、鬼のような形相、かつての優しい兄の面影など塵ほども残っていない。
周囲の言葉も耳に入らず、自ら言葉を発することも無くなった。
来る日も、来る日も、ただひたすらに、剣を鍛えるだけの毎日。
傍から見れば、狂人そのものだった。
「いいなぁ」
いつか、自分も音楽の神様に愛される日が来るのだろうか。
ただひたすらに、鉄を打つ兄を眺めながら、イルマの心に湧くのは羨望だった。
村の衆が、両親が、どれだけ兄を気味悪がろうと、イルマは兄が鍛冶の神様に愛されたのだと信じて疑わなかった。
悪魔に魂を売ったのだ、という周囲の言葉は、イルマにとっては鼻で笑ってしまうほどにバカバカしい言葉だった。
そして、ある日突然、兄と両親は火に包まれて、この世からいなくなった。
不幸な事故だったとしか言いようがない。
イルマが辛うじて火の手を逃れたのは、酒場のオルガンの練習に夢中になっていたおかげだ。
狂人と化した兄の犠牲になった両親のことに、村の衆は同情を寄せた。
「そりゃぁ、立派な剣を作る奴だったが、ねぇ?」
取り残されたイルマは、酒場の主人に引き取られた。
オルガンをいつも弾きに来ていた、一生懸命な少女は、彼にとっては我が子も同然だったのだ。
「イルマも可哀想にな」
有り余る同情を、イルマは村の衆に注がれた。
けれども、実のところ、当の本人は、それほど悲しみは感じていなかった。
(お父さんもお母さんも、大好きな神様のところに行けたじゃない)
羨ましいな、とイルマは思う。
(お兄ちゃんも、きっと、鍛冶の神様のところへ行ったはずだわ)
音楽の神様は、いつ迎えに来てくれるのだろうか。
イルマの頭の中には、音楽への執着しか無かった。
◆
酒場の主人の言いつけ通り、イルマはじゃがいもを裏に住む壮年の男性から受け取る。
ずっしりとした重みが、襲いかかった。
「おいおい、大丈夫かい?」
「平気よ。いつも運んでるじゃない」
「重かったら、その辺の連中に頼んで運んでもらうんだよ」
イルマはひとつ頷いて、踵を返す。
早く帰って、オルガンの練習をしたかった。
なので、突然横から声を掛けられた時に湧き上がったのは、驚きや疑問よりも、面倒くささだった。
「そこの、じゃがいも持ったお嬢さん」
聞いたことの無い声だ。
村の人間じゃないことは、すぐに分かった。
ただ、その声はあまりにも透明で、低く、心地良い響きを持っていた。
イルマのような少女だけでなく、老いも若いも、男も女も、全ての人が聞き入ってしまうような声音だった。
「なんですか?」
顔を上げて、姿を確認する。
ボロ布を纏った、背の高い痩身の青年だった。
顔は布の影に隠れて、口元しか見えない。
変わった風体をしているが、旅人であることは一目瞭然だった。
身なりが粗末で、履いているブーツは擦り切れて今にも底が剥がれそうだ。
「この村で、美味しいお酒を出してくれるのは、どこだい?」
「美味しいも何も、お酒やご飯を出す場所は1つしかないわ」
「そこへ連れて行っておくれ」
断る道理はなかった。
どうせ、酒場へ帰るのだ。
イルマは大した用事でなくて良かった、と胸を撫で下ろしながら青年を案内する。
「持ってあげる」
流れるような動作で手に持ったじゃがいもを取り上げられる。
訝しげに青年を見つめれば、その口元が弧を描いた。
「案内してもらうお礼」
「ありがとう」
不思議な青年だった。
初めて会ったはずなのに、どうにもそんな気がしない。
懐かしいような、見慣れたような、いつも隣にいたような印象を受ける。
怖いとは、思わなかった。
「おじさん、お客さん」
酒場へと帰れば、仕込みをしていた酒場の主人が顔を上げる。
ボロ布を被った旅人に、片眉を上げて訝しげな表情をしていたが、何も言わずに席に通した。
歩く時に不自然に足を引きずる姿をじっと見つめていたが、やがて心の内で納得したのか、視線を手元に戻す。
「じゃがいも、ありがとう」
青年から受け取り、酒場の主人へと手渡す。
もう用事は済んだとばかりに、さっさと手を洗って、イルマは再びオルガンへと向かった。
途端に、激情が胸の内を渦巻く。
椅子に座り、鍵盤に手を乗せただけで、狂おしい程の想いが胸を焦がす。
この執着でさえ愛しいと感じるのだ。
古臭い、いつものワルツ。
鍵盤の上で、指が踊る。
こんなにも、イルマは音楽を愛しているのに、音楽は答えてくれない。
どれだけ練習しようとも、平凡で、ありきたりで、ただ人より少し上手いだけのオルガン弾き。
唯一にはなれない、その他大勢の中の1人。
何が足りないのだろうか、イルマはいつも考える。
そして、答えはいつも出ないまま、音楽への愛情と執着だけが膨れ上がっていくのだ。
踊り終えた指を鍵盤からそっと離したところで、ぱちぱち、と気のない拍手が聞こえた。
イルマは、ゆっくりと振り返る。
相変わらず、ボロ布を被ったままの青年が、こちらに顔を向けて手を叩いている。
「素晴らしい執念だ」
いつも貰うありきたりな賛辞とは違うことに、イルマは瞠目する。
ふるりと、肩が震えた。
何も言えず、小さく頭を下げるだけに留めたが、ボロ布に隠された目は、未だに真っ直ぐにこちらを射抜いていた。
「音楽を愛しているんだね?」
確かめるように訊かれて、イルマは頷く。
たった一度、ワルツを聴いただけだというのに。
どうして、この青年には分かったのだろうか。
毎日聴いている、酒場の主人ですら、音楽へのこの執着に気付かなかったというのに。
兄だけと、鍛冶の神様に愛された兄だけと、共有できたこの感情。
「だから、音楽の神様に愛されたいの」
するり、といつもの口癖が突いて出た。
この身が焦がれるほどに、音楽を愛しているのだ。
いつでも音楽のことを考え、1番に想ってきた。
それならば、とイルマは思うのである。
相手からも愛されたいというのは世の道理だ。
一方的で、献身的な愛情には、苦しみばかりが伴う。
音を奏でる度に絶望し、期待し、再び至らなさに絶望する。
そして、次こそは、とまた期待する。
その繰り返しだ。
終わることな無い円環の中を、ぐるぐると彷徨い続けるだけで、出口など何処にもない。
ボロ布を被った青年の口元が、ゆるりと弧を描く。
そしてから、まるで、舌なめずりをするように、その乾いた唇を舐めた。
「きっと、神様は君を愛してくれるだろう」
今まで貰ったことの無い、肯定の言葉。
イルマは目を瞠ると、息を詰めた。
「ご主人、ぶどう酒を一杯頼むよ」
青年は朗らかに声を上げる。
透明なその声が、イルマの耳の奥に残った。
◆
どこへ行ったのだろうか。
イルマは酒場の中をざっと見渡す。
閉店間際の店は、未だに賑わっているものの、探している姿はどこにも見当たらない。
手洗い場だろうか。
そう思って、覗いてみたが、そこには誰もいなかった。
ボロ布を被った青年は、忽然と姿を消していた。
いつからいなかったのか、分からない。
最初の客が来た時は、オルガンの近くの席に座っていたような気がする。
人が増えても、独りぼっちでぶどう酒を煽っていたような気がする。
せがまれて、いつもとは違う行進曲を弾いた時も、あの気のない拍手をこちらに送っていたような気がする。
けれど、すべて気がするだけで、本当にその場にいたのか覚えていない。
イルマはすっかり出来上がった男たちの間を抜け、外へと出る。
真っ暗な、篝火一つ無い村の中では、月と星明かりだけが頼りだ。
夜風にぶるりと身を震わせ、酒場の周りをぐるりと一周する。
見つかるはずもないのは、分かっていた。
もしかしたら、という少しの希望だけを携えて、イルマは暗闇に目を凝らす。
「イルマ」
透明で、低くて、耳朶に響くような声音。
イルマはびくりと肩を揺らした。
声のした方に視線を向ければ、まるで、亡霊のように、青白い月明かりに照らされた青年が姿を現す。
驚いたイルマは、一歩足を引いた。
「イルマ、こちらへおいで」
手招いて、呼んでいる。
いつ、名前を教えただろうか。
酒場で呼ばれているのを耳に入れて、検討をつけたのだろうか。
疑問はあれど、イルマは青年の言葉に素直に従う。
どこか、逆らえないような雰囲気があった。
「いい子だ。さぁ、おいで」
目の前に立てば、青年がそっと手を伸ばしてくる。
そのままイルマの手を取ると、青年はするりとその指を撫でた。
「立派な手だ。毎日、飽きること無く、音楽を愛でた手」
ぞくりと背筋が震える。
驚いたことに、嫌悪感は浮かんでこなかった。
触れられた先から、身体中を伝播するように熱が走る。
不自然なほどに沸いてくるのは、目の前の青年を求める心。
まるで、音楽を求めるように、狂おしい愛がイルマの胸を焦がす。
「あなたは…」
青年の口元が、弓なりになる。
答えは無い。
けれども、イルマは確信した。
「音楽の…」
歓喜に呑まれ、最後まで言葉にすることはできなかった。
間違えるはずがない。
生まれてから、これまで、ずっと求め、追い続けてきたのだ。
イルマの頬が自然と上気し、目元が潤む。
「あ…あ、私…」
視界がぼやける。
涙で前が見えなくなる。
どれほど、この日を待っていただろうか。
イルマは手を伸ばし、飛び込むようにして目の前の青年に抱きついた。
「迷える子羊を導くのが、俺の仕事だ」
青年の手が、ゆっくりとイルマの髪を撫ぜる。
ボロ布に隠された目元は相変わらず見ることは叶わない。
それでも、イルマは恍惚とした表情を浮かべて、青年を見上げる。
「君が俺を愛してくれたように、俺も君を愛してあげよう。さぁ、その身を、魂を、捧げるといい」
青年の手のひらが、イルマの頬を包む。
そして、ゆっくりと、青年の顔が近づいてくる。
優しく、羽のような感触が唇を掠めた途端、イルマの意識は、暗闇の中へと落ちていった。
◆
オルガンの聞こえてこない酒場は、どこか陰鬱な雰囲気を漂わせ、主人は秒刻みでため息をついている。
イルマが姿を消してから、3日3晩が経った。
主人を心配してやって来た常連たちは、出された酒に手を付けることもなく、じっと俯いている。
ともすれば、閉じられたままのオルガンまでもが、悲しんでいるようだ。
そこに、バタン、と大きな音を立てて酒場の扉が開いた。
飛び込んできた男は、肩で浅い呼吸を繰り返しながら、外を指さす。
酒場にいた数人は何事かと驚き、男が指さした方向を仰いだ。
そして、息を詰める。
「イルマ!」
最初に飛び出したのは、酒場の主人だった。
一心不乱に駆け寄り、その腕に少女を抱きしめる。
「あぁ、良かった!無事だったのか!」
主人の歓喜に対して返ってきたのは、無言だった。
何か言葉は無いのかと、イルマの目を見れば、まるで全く関心が無いようにあらぬ方向を向いている。
「イルマ…?」
嫌な予感が、酒場の主人の胸の内を過った。
これは、まるで、彼女の…。
イルマは黙ったまま、酒場の主人の腕を振りほどき、酒場へと飛び込む。
そして、オルガンの蓋を開けると、耐え切れないというように鍵盤を叩き始めた。
「あ…あぁ…」
情けない声が、酒場の主人の口から漏れる。
イルマが無言のままに、鍵盤の上、指を滑らせる様子は異様だった。
血走った目で、歯を剥き出しにして、鬼のような形相で一心不乱に弾いている。
そして、そこから溢れ出る音は、今までとは比べ物にならない程に研ぎ澄まされていた。
響き渡る音が、その場にいる人間の鼓膜を突き、脳を揺らす。
慟哭にも似た音色が村中に木霊し、揺さぶりを掛けた。
感情を衝き動かされ、激情が村人の胸の内に迸る。
けれども、酒場の主人だけは、手を震わせ、顔を覆って泣いていた。
それが、どの感性に起因した涙だったのかは、当の本人にも分からなかった。
「イルマまで、悪魔に魂を売っちまうなんて」
音楽の神様に愛された少女の耳に、嘆きの声は届かない。