人死にの集落
背後で沈む夕日の彼方から吹き寄せる風が、足元に散った落ち葉の渇きを音にして伝える。行く末を見据えるが、地図の上に描かれた村は旅人の夢の産物だったのか、どこにもそれらしき姿は見えない。左手に広がる森に耳を澄ます。獣の気配はない。そもそも、朽ちかけたこの森で冬を凌ごうなどと考えるのは、愚かな人間くらいのもので、生存本能が少しでもあるなら、早々に餌場になりそうな場所を求めて移動している。
靴の手入れはひと月前が最後だ。革を分けてもらえれば補修をと考えているうちに、どんどん人里から離れていく。ここまで町から遠ざかってしまえば、本来の仕事に戻ってもよさそうなものだが、それをするにも村がなければどうにもならない。右手に広がる荒地の向こうにも、死にかけの森が白い幹を露わにしている。
今夜の野宿の準備を、とこうべを巡らせると、左手の森の奥に木のまばらになった所が見える。人の手が入っているのだろうか。剣の柄に手を掛け、腰を低くして近づく。渦を巻いて風が吹き、その中から浮かび上がるように粗末な家々が見えてきた。枝にしがみついた葉が、一斉に体を震わせる。人の気配はない。剣から手を離すと、両手を頭上に、体を伸ばし、絡んだ緊張の糸を解きほぐす。屋根のある場所で眠れる、そう考えるだけで、足の裏の痛みが和らいだ。
見渡すと、ざっと七、八軒のあばら屋が、森を切り拓いた処々に点在している。戦争を避けて生きる場所を探したものの、日々のたずきの目算甘く、別の場所に移り住んだか、あるいはここで死んだか。板塀は粗末、素人の仕事にしてもひどすぎる。それでも、少しでもましな家を、と歩いていると、立て札がある。集落の名前でも記したか、あるいは地図にあった夢の国の名前が書かれているか。そもそも、字を書ける者がいたのなら、もう少し家の造作に工夫が欲しかった。表に回り、夕日の断末魔で文字を読む。
「人死にが出る 助けられたし」
傑作だ。これを見て村に入ってくるのは馬鹿か野盗しかいまい。そもそも、村の入り口にこれを表示する意味が分からない。ここの全員が何か病気にでもかかったというのか。――考えて、後じさる。北の方で疫病が流行っているという噂を聞いた。全身が赤黒く変色し、目と耳から血を噴き出して死に、その血が新たな死者を生み出すのだという。
しかし、それにしては死の臭いが薄すぎる。全滅した村はいくつも見てきた。そこにあった濃厚な死の臭いも、苦しみの残滓も、ここには感じられない。立て札の文字をよく見ると、日に晒されて掠れ始めている。新しくはない。実に残念なことに、願いは聞き届けられないまま、十分な時間が経過してしまったというわけだ。だとすれば、ここにはもう、死の残骸すらも遺っていない。
さて、探すべきはこの立て札を書いた人間の住んでいた家だ。そいつは学があるが知恵はない。そういう輩は、書物を信仰するものだ。本は重い上にかさばるが、だからこそ野盗の類は見向きもしない。価値あるものは、その価値を知る人間が、その価値に金を払える人間のもとへと届けなくては、金に換わらない。
彼はおそらく、集落の奥に居を構えただろう。もしかすると、他の家々から多少、距離をとっているかもしれない。一軒一軒、その中を覗きながら、森の奥へと歩みを進めると、ぽかんと開けた丸い土地の中心に、わずかに背の高い家があった。屋根の上に掲げられた複十字の上の横棒が妙に長い。異端か。指先で板塀を撫でると十分な艶が感じられた。異教の司祭で且つ職人とは、愉快だ。神に弓引くなら、その弓ぐらいは自らの手で用意したい。気にいった。この家で休もう。
ランタンが家の中を照らし出すと、右手奥の壁面に据えられた書棚が目に入った。大半は異教に関する研究書と四つの言語で記された聖典だったが、それでも十冊近くいいものが並んでいる。ランタンを壁に掛け、揺れる灯の下に腰を下ろすと、戦利品のうち一冊を手に取る。
表紙の銀文字を指でなぞり、ページを繰ろうとした時、家がみしりと音を立てた。ランタンの熱か、体温のせいか、いずれにしても、ここは一人で定員オーバーだ。明け渡すつもりもない。
――カツカツ。
何の音だ。本を下に置き、腰に手を掛け、姿勢を低く、扉の方を向く。ゆっくり剣を抜き、正面に構える。気のせいならそれでいい。だが、これが流儀だ。命を優先した生き方。耳を澄ます。外にいる時よりも強まった風が、家を打っている。枝に残った葉は散っただろう。獣はもちろん、小動物の気配もない。しかし、さっきの音は違う。原因もなしに、音は立たない。
――カツ。
来た。さっきよりも鮮明な音。高い所から。人の背丈よりも。何かで叩いているのか。どうする。外へ出て対峙するか。首筋に、流れる汗と寒気を同時に感じる。切っ先が下向きに引っ張られる。力が抜けているのか。膝をつく。赤い火にあぶられた扉が、その輪郭を溶かしていく。目がおかしい。急に鼻の奥にわずかな刺激を覚えた。ワニスだ。何か薬品が溶かしこまれていて、熱に反応して室内に充満したのだろう。力が抜ける。
「人死にが出る 助けられたし」
これを見て村に入ってきたのは馬鹿な野盗だった、というわけだ。異教の儀式に関する噂が脳裏を駆け巡るが、その内容を確かめることはできそうにない。剣が床を叩く音が遠くに聞こえる。頭の下に本があるようだ。地獄の渡し守が、せめて学のある奴ならいいが――。
与謝蕪村の俳句「草いきれ人死に居ると札の立つ」をモチーフにしています。