最終話・俺の妹は――――
冬の寒々とした風が身を刺すように吹いてくるクリスマスイヴ。本来なら身を震わせるほどの寒さだが、俺の右腕をしっかりと両手で抱き包んでいる明日香の温かさがじわりと伝わって来るので、思ったよりも寒さを感じない。
そして俺の腕を抱き包んでいる明日香からは、仄かに青リンゴの爽やかで甘い香りがしている。
「なんだかいい匂いがするけど、香水でもつけてるのか?」
「うん。せっかくのお兄ちゃんとのデートだし、この前貰ったお試し用の香水が残ってたからつけてみたの」
明日香はにこやかな笑顔を見せながら、そんな可愛らしいことを言ってくる。この前言っていたとおり、この匂いが本当にお気に入りなんだろう。そんな青リンゴの爽やかな甘い匂いを感じながら、俺は明日香と遊園地へ向かうための道を歩く。
「わー、綺麗だなあ」
最寄の駅へと向かう途中、家の外観を煌びやかな電飾などで飾っている家の前を通りかかり、俺たちは足を止めてその光景を見つめる。
「確かに綺麗だな。俺が小さい頃はこういう飾りつけをしている家は本当に珍しかったけど、最近はこういう家をよく見かけるようになったな」
足を止めた家の前で近くにある他の家を見てみると、案外同じように飾りつけをしている家が多く、中には大きなモミの木を派手に飾りつけしている家もあった。
「――さて、そろそろ行こうか、明日香」
「うん、そうだね」
少しの間クリスマスイルミネーションを着飾った家々を見たあと、再び明日香と一緒に遊園地へ向けて歩き始める。何度も明日香と一緒に通った道だけど、一緒に居てこんなに寂しい気持ちを感じたことはなかった。
「遊園地、楽しみだね。お兄ちゃん」
「そうだな」
それでも俺は笑顔を浮かべる。明日香が笑顔でいる限り、俺も笑顔でいる。それが俺の決意で、俺の決断だから。
× × × ×
「人がたくさん居るね」
「さすがにクリスマスイヴだからな」
遊園地に辿り着いた午前10時頃。久しぶりに訪れた遊園地内は、本当にたくさんの人で混雑していた。
チケット売り場に思ったほど人が並んでいなかったのは、この日のために前売り券を購入していた人が多かったからだろう。それにしてもこの混雑具合、乗り物に乗るだけでも相当に苦労しそうだ。
「さてと、まずはどれに乗ろっか?」
「えっとね、最初はあれに行こうよ!」
「マ、マジか……」
明日香が真っ先に行こうと言ったのは、船型の乗り物がぐるんぐるんと回る、いわゆる海賊船と言われる乗り物だ。
確か初めてこの遊園地に来た時にも一番最初にこれに乗ったのだが、絶叫系に該当する乗り物が苦手な俺は、乗り終わったあとにグロッキー状態になったんだよな。
「お兄ちゃん、嫌?」
「うっ……」
大きくぱっちりとした可愛らしい瞳を少し潤ませながら、俺を上目遣いで見てくる明日香。なんだかこの状況にも覚えがある。
「分かった。明日香の乗りたい物に乗ろう!」
「やった!」
俺の言葉に大喜びする明日香、本当に絶叫系の乗り物が好きらしい。それにしても、こうして嬉しそうにはしゃぐ明日香を見ていると、今更だけどもっと遊園地に遊びに連れて来てやれば良かったと思ってしまう。
まあ今更こんなことを考えても仕方ないので、今はとりあえず海賊船に乗って前回のようなグロッキー状態にならないように頑張らないといけない。
「よし、行くか!」
「うん!」
絶対に大丈夫だと自分に言い聞かせながら気合を込めてそう言い放ち、明日香と一緒に最初のアトラクションへと向かう――。
「楽しかったね、お兄ちゃん」
「ああ、結構楽しかったよ」
明日香と一緒に乗ったアトラクションから降りた俺は、意外なほど絶叫系の乗り物を楽しめたことに不思議な感覚を抱いていた。
それはまるで、明日香と一緒に楽しめるように――と、誰かが俺の恐怖心を取り除いてくれたかのようだった。
「じゃあ次はジェットコースターに乗ろうよ」
「おう、いいぞ!」
さっきの海賊船が平気だったことで気を良くした俺は、それから明日香の希望通りに絶叫系マシーンに乗りまくった。今まで絶叫マシーンを楽しいと思ったことは一度もなかったけど、今回はばかりは本当に楽しく感じた。
もしかしたらそれは、明日香が楽しんでいるのを見ていたおかげなのかもしれない。
それからお昼を少し過ぎるまでの間で、俺たちは園内の半分近くになるアトラクションを楽しんだ。
本来ならこれだけ園内が混雑しているんだから、アトラクションの一つに乗るのも相当に時間がかかると思っていたけど、不思議なことに俺たちが向かうアトラクションのすべてが、長くても待ち時間10分程度で乗ることができた。
最初の方こそ偶然かと思っていたけど、すべてがそのようになっていると、もはや偶然とは言い難くなる。
その現象はまるで、俺と明日香のために誰かが人払いをしてくれているように感じた。
× × × ×
「ねえ、お兄ちゃん。そのデザート、美味しい?」
お昼時で混雑している園内のレストラン。軽く昼食を済ませた俺たちは、最後の〆《しめ》としてデザートのパフェを食べていた。
「ん? ああ、美味しいぞ」
「そっか~」
そんな質問をしてきた明日香は、自分の目の前にあるチョコレートパフェを口に運びながら、チラチラと俺の前にあるストロベリーパフェを見ていた。
いつもながら甘い物を目の前にすると、明日香はその欲求が素直に態度と視線に現れる。本当に可愛らしいもんだ。
「お兄ちゃんのも食べてみるか?」
「えっ? いいの!?」
「ああ」
「ありがとう、お兄ちゃん!」
目の前へ差し出したパフェを素早く受け取ると、明日香は嬉しそうにデザート用スプーンでイチゴクリームをすくって口へと運んだ。
「んんー、美味しーい!」
口に含んだイチゴクリームをゆっくりと堪能しながら、表情を綻ばせる明日香。
そんな明日香を見て俺も表情を綻ばせながら、幸せそうにパフェを食べる妹を見守った――。
「ごめんね、お兄ちゃん」
レストランを出る少し前から、明日香はずっとこんな風にして俺に謝ってきている。その理由はなんとも単純なことなのだが、俺が注文したストロベリーパフェを明日香が全部食べてしまったからだ。
俺は別に甘いものに対してそこまでのこだわりや執着はないので、はっきり言って気にしてはいない。
だけど夢中で俺のパフェを食べてしまった明日香はそうはいかないようだった。
「いいよいいよ、だからそんなに気にするなって」
「うん……」
「それよりほら、次はどこに遊びに行こうか?」
「えーっとねえ――次はゲームセンターに行きたい!」
「ゲーセンか。よし、行こうか」
そう言って明日香の手を握り、俺は園内にあるゲームセンターへと歩いて行く。
「――1年ちょっと来てないと、結構様変わりするもんだな」
「本当だね」
前に来た時との店内の違いに、俺は思わず出入口で足を止めてそう言った。
当然と言えば当然だろうけど、店内はクリスマス仕様ということで煌びやかに装飾されていて、クリスマス仕様になったグッズなどを中心としたクレーンゲーム機の数が多くなっているように見える。
「あっ、あのぬいぐるみ可愛い」
明日香はそう言うと、出入口からほど近い場所にあるクレーンゲーム機へと向かった。
それを見た俺は、明日香に置いていかれまいとそのあとをついて行く。
「ねえ、お兄ちゃん。このぬいぐるみ、小雪に似てない?」
目的のクレーンゲーム機へと辿り着いた明日香が、景品ケースの中を指差しながらそう言ってくる。
その言葉を聞いて景品ケースの中へと視線を移すと、確かに小雪そっくりの猫のぬいぐるみがあった。
「本当だな、確かに小雪によく似てる」
「でしょう」
俺と明日香が見つめるクレーンゲーム機の中には、サンタの赤い帽子を被った白猫のぬいぐるみが一つあった。大きさもちょうど小雪と同じぐらいだし、見た目もかなり似ている。
「お兄ちゃん、あのぬいぐるみ取れないかな?」
「ん~、結構微妙な位置にあるし、どうかなあ」
「私やってみるね」
言うが早いか、明日香はポケットからがま口の財布を取り出して開き、中から500円硬貨を取り出すと素早く投入口へと入れ込んだ。
「よーし、頑張るぞー!」
明日香は気合を入れながら、クレーンゲームのアーム操作ボタンへと手を伸ばす。
「――ああっ!」
アームが軽く掴み上げたぬいぐるみがポトッと落ちると、明日香が悔しそうな声を上げた。
500円でのプレイ回数は3回だが、どう考えても残り2回で取れそうな状況ではない。
「次こそゲットするんだから」
「頑張れ、明日香」
多分無理だろうなとは思ったけど、一生懸命な様子の明日香を見ると素直に自分の本心を口にすることはできない。
そして2回目のチャレンジも失敗し、とうとうあとがなくなった明日香は、まるで祈りでも込めるかのように両手を握り合わせたあと、再びアームの操作ボタンに手を伸ばした。
「おっ」
アームの腕に捕らえられたぬいぐるみを見て、俺は思わず声を出した。
絶妙な位置でぬいぐるみを捕らえたアームが、ゆっくりと上がって行く。そして上がりきったアームがぬいぐるみをわずかに揺らしながら、景品取り出し口に向かって移動を始める。
「「あっ!?」」
一瞬アームが大きく揺れたその時、その衝撃でぬいぐるみの位置がずれて落ちそうになり、俺と明日香はほぼ同時に声を上げた。
「「はあ~」」
その衝撃でぬいぐるみが落ちたと思ったが、運良くサンタ帽子と猫の頭の隙間部分にアームの先が入り込み、ギリギリのところで落下は防がれた。お互いほぼ同時に安堵の溜息を漏らし、景品を落とすための穴へアームが向かうのを見守る。
そして穴の上へと戻ったアームがゆっくりと開き、小雪に似た猫のぬいぐるみをその穴へと落とす。
「やったよお兄ちゃん!」
景品取り出し口を開けて落ちてきたぬいぐるみを手に持つと、明日香は満面の笑みでそれを見せてきた。
「凄いじゃないか明日香!」
「えへへっ」
まさか3回のチャンスでゲットできるとは思っていなかったので、俺は本当に驚いていた。そんな俺の賛辞の言葉に、更に表情をにこやかにして喜ぶ明日香。
そして明日香は手に持った小雪似のぬいぐるみを大切そうに抱き締める。
「良かったな、明日香。じゃあ、他のも見て回ろうか」
「うん」
そして明日香と一緒に店内を歩き回っていると、なんとも懐かしいゲーム機と出くわした。
「これ、小雪と勝負したもぐら叩きだ」
明日香はそのゲーム機に近寄ると、まるで遠い昔を懐かしむように備えつけられたハンマーを優しく手に取る。
「そういえばあの時、明日香は小雪にボロ負けしてたよな」
「だって、小雪強過ぎるんだもん」
明日香はそう言うと、餌を口に詰め込んだハムスターのように口を膨らませた。
「確かに猫とは思えない上手さだったよな」
当時のことを思い出し、あの猫とは思えないほどの賢さと器用さを改めて不思議に思ってしまう。
そんな思い出に耽ったあと、俺はしばらく明日香と一緒にもぐら叩きゲームとお菓子取りのクレーンゲームで遊んだ。
明日香は勘が良いのかクレーンゲームがなかなか上手く、お菓子をちょっとした袋いっぱいにゲットしていたが、俺は去年と同じように、ラムネ菓子1個だけだった。
× × × ×
ゲームセンターをあとにしてから、俺たちは再び他のアトラクションを全力で楽しんでいた。それはもう、園内にあるすべてのアトラクションを制覇したのではないかと思うほどに。
「ああー、楽しかった」
「そうだな、結構色々な物にも乗ったし」
園内にいくつかある時計が備えつけられた場所を見ると、そろそろ16時を指し示そうとしていた。
空には徐々に沈みつつある夕陽が見え、茜色と夜の黒のグラデーションの比率が、段々と黒一色に変わろうとしている。
「お兄ちゃん、最後に観覧車に乗ろうよ。きっと夕陽が綺麗だから」
先ほどまでの明るく楽しげな声音と違い、明日香は優しくも寂しげな表情でそう言ってきた。
その明日香の表情と言葉を見聞きした時、俺はついにこの時が来てしまったのかと思った。
「……そうだな」
今にも心が暗い気持ちに押し潰されそうになりながらも、俺は明日香に笑顔を向けた。きっとこれが、明日香と俺が一緒にいられる最後の時間だから。
「行こう、明日香」
「うん、お兄ちゃん」
ゆっくりと俺が右手を差し出すと、明日香は自分の右手にぬいぐるみとお菓子の袋を持ってから左手で俺の手を優しく握り、にこっと笑顔を向けてきた。
俺たちが向かう場所は、ゲームで言うとエンディングを迎えるためのラストステージ。そのラストステージへと、速くもなく、遅くもない歩調で向かう――。
ほとんど時間を取られることなく観覧車へと乗り込めた俺と明日香は、本当にゆっくりと回る観覧車の中から沈みつつある夕陽と町並みをじっと見つめていた。
そしてちょうど観覧車が4分の1ほどを回ったあたりで、明日香が夕陽を見ながら感嘆の声を上げる。
「わあー、やっぱり綺麗だなあ」
「本当だな」
「……ねえ、お兄ちゃん。私が妹になって良かった?」
俺の隣で夕陽を見ていた明日香がこちらを向き、突然そんなことを聞いてきた。
「どうしたんだよ、急に」
「私はね、お兄ちゃんが私のお兄ちゃんで本当に幸せだったよ。でもね、私はたくさんお兄ちゃんに迷惑をかけちゃったから、お兄ちゃんは私と出会ったことを後悔してないかなと思って……」
「そんなこと、あるはずないだろ――」
声が震えそうになりながらも、力強くそう言った。だって明日香が居たから、俺は誰かが側に居る日常を良いと思えるようになった。
明日香が居たから、拓海さんや由梨ちゃんたちのようなかけがえのない人たちと出会えた。
明日香が居たから、俺は琴美と離れずに済んだ。
明日香が居たから、俺はずっと幸せだった。
「――俺は幸せだったよ。明日香が妹になってから大変なこともたくさんあったけど、毎日が新鮮で、ずっとこんな日々が続いていけばいいのにって思ってたんだから」
「……ありがとう、お兄ちゃん。その言葉が聞けただけで、私は本当に嬉しいよ」
大きな瞳に涙を浮かべながらも、明日香は満面の笑みでそう言った。
「あっ、そうだ。お兄ちゃん、これを受け取って」
明日香は瞳に浮かんだ涙を手で拭うと、持っていたぬいぐるみとお菓子の入った袋を手渡してきた。
「私からお兄ちゃんへのプレゼントだよ。お菓子はオマケだけどね」
えへへっ――と微笑む明日香からそのプレゼントを受け取ると、明日香は満足そうに何度も頷いた。そんなにこやかな笑顔を向ける明日香を見ているだけで、俺は涙が溢れそうになる思いだった。
「ありがとう。でも俺はなにも明日香にあげられる物がないのに」
「ううん。私はもう、お兄ちゃんからプレゼントを貰ってるよ」
「えっ?」
「私はね、毎日お兄ちゃんからプレゼントを貰ってたんだよ? お兄ちゃんと過ごしてきた毎日が、1分1秒が、私にとってのプレゼントだったの」
「…………」
「だから今のこの瞬間も、私はお兄ちゃんからのプレゼントを受け取ってるの」
そう言うと明日香は、その小さな身体で俺の身体を大きく抱き包んできた。
「お兄ちゃん。お兄ちゃんが居てくれたから、私は来世に希望を持つことができた。お兄ちゃんが居てくれたから、私はずっと幸せで居られた。前世で傷ついていた私を、お兄ちゃんがずっとずっと救ってくれていたんだよ? だから――ありがとう、お兄ちゃん。私はもう、思い残すことはないよ」
明日香はゆっくりと抱きしめていた両手を離し、にこっと微笑みながら俺を見つめた。
「明日香!」
それを見た俺は、もう涙を堪えることができなかった。
まるで涙腺が壊れてしまったかのように、涙が次から次へと溢れ出す中、俺は明日香を力強く抱き締める。
「もう、お兄ちゃんたら……そんなに泣かないでよ……」
抱き締めた明日香から、震えるような涙声が聞こえる。もはや身体に感じるその震えが、自分のものか明日香のものかという区別すらつかない。
「――お兄ちゃん、寂しいけど時間が来たみたい」
「あっ……」
明日香の言葉にそっと身体を離すと、明日香の身体が少しずつ薄らいでいた。
「消えないでくれっ!」
無理なことだと分かっていた。
それが俺の我がままだと分かっていた。
言えば明日香を困らせるだけだと分かっていた。
だけど俺は、最後の最後でその言葉を口にしてしまった。
でも明日香は、涙を流しながらも可愛らしい笑顔を浮かべてこう言った。
「ありがとう、お兄ちゃん。私もできるなら、このままお兄ちゃんと過ごしていたかった。でもね、私思うんだ。お兄ちゃんとはきっとまた会えるって」
「明日香……」
「だからね、私はお兄ちゃんにバイバイは言わない。だからもし、いつか私がお兄ちゃんのもとに帰って来たら、その時は『お帰り、明日香』――って言って私を出迎えて」
薄れゆく明日香が次第に見えなくなっていく。
俺はその言葉を聞いて、ただ頷くことしかできなかった。
「ありがとう、お兄ちゃん。私のこと忘れないでね。私もお兄ちゃんのこと、忘れないから……。じゃあまたね、お兄ちゃん。大好きだよ――」
「あっ――」
最後にそう言い残すと、明日香はまるで空気に溶け込むかのように消えてしまった。
「明日香……明日香――――――――!」
俺が見た明日香の最後の表情は、満面の笑顔だった。
夕陽がもう沈んでしまった風景の中、俺は明日香の香りが残るぬいぐるみを強く抱きしめながら、これでもかというくらいに大きな声で明日香の名前を叫んだ。
そしてその大きな声は、まるで冬の冷たい空気に溶け込むように消えていった。




