俺に妹は居ないはずだが、突然妹ができました。

妹を迎えに行きました。

　俺がパソコンに記録していた日記を見たことにより、前世の記憶を呼び覚ましてしまった明日香。

　そして今、明日香はその影響で自我の崩壊を招きつつあった。

「――とりあえず今まで説明したことが、明日香の精神世界に入った時の注意事項よ。分かった？」

「ああ、分かった」

　そんな自我の崩壊をしつつある明日香を助けるための手段は一つ。それは崩壊しつつある自我の中から明日香を助け出して来ること。

「じゃあいくよ？」

　ベッドの上ですっかり静まり返ってしまった明日香の右隣に仰向けで寝そべり、その右手を左手でギュッと握り締めた。

「頼む」

「クラヒヲチミトヘトモノノモルタジトロココ、ニココレワ」

　返答をするとサクラは大きく頷いてからブツブツと呪文のような言葉を呟き始める。するとサクラの両手が淡く優しい温かな緑色の光を放ちだした。

　そしてその温かな光を纏《まと》った手で、俺が明日香と握っている手に触れてくる。

「気をつけて涼太くん、絶対に無事に帰って来て」

　サクラのそう言う言葉が聞こえたかと思うと、俺の意識は急速に薄れていった。

×　×　×　×

　目覚めた――と言う言い方が正しいかは分からないけど、俺は薄暗く肌寒い場所で目覚めた。

「ここが明日香の精神世界？」

『涼太くん、私の声が聞こえる？』

「サクラか！？　聞こえるぞ！」

　暗い空間に響き渡ったサクラの声。この冷たく凍えそうな場所で、知っている人物の声と存在を感じるというのはなんとも心強い。

『良かった。まだ私の声は届くみたいね』

「まだ？」

『人の精神はどんな迷宮にも勝る迷路、その形はどれ一つとして同じものがない。そしてその世界に干渉するというのは、本来なら不可能なこと。当たり前だよね、だって誰であろうと人の心の奥深くを覗くなんて真似はできないんだから』

　サクラの言っていることは理解できる。確かに誰であろうと人の心にある本音は分からないし、それを知りたくても覗くことはできない。

　仮にそんなことができたとしたら、もはや人間社会は成り立たなくなるだろう。

「つまり明日香の精神の深層に近づけば近づくほど、サクラの声は聞こえなくなるってことか？」

『簡単に言うとそういうことかな。だからどこまで涼太くんをサポートできるかは分からない』

「分かった。ここまで来たんだから、明日香を見つけるまでは帰るつもりはないからな。サクラ、サポートよろしく頼む」

『うん。じゃあ涼太くん、そこから右の奥に白の扉があるから、そこに入って』

　サクラに言われるがまま右を向き、仄暗《ほのぐら》いトンネルの中にでも居るかのような空間を歩き始める。

「――あれか」

　どれくらいの距離を進んだのかは分からないけど、サクラの言うように歩いた先には確かに白の扉があった。それにしてもこの白の扉、なんだか見覚えがある気がする。

「ここに入ればいいんだな？」

『うん、でも気をつけて』

　サクラのそんな言葉を受け、俺はそっと扉のノブを回してから少しずつ引き開けていく。

　そしてゆっくりと開けた扉の奥からは、最初に居た空間と違って眩しい光が差し込んでくる。その明るさに少し安堵したが、その扉を通った先で俺は信じられない光景を目の当りにした。

「あれだけ言っておいたのに、また公園の猫の所に行ってたのねっ！」

「ご、ごめんなさい。でも、猫ちゃんお腹を空かせてるから――」

「口答えしないのっ！」

「きゃあっ！」

　開けた放った扉の先は玄関だった。

　そして俺の目の前には、生前の明日香とその母親と思われる人物の姿。

　その母親と思われる人物は玄関に尻餅を着いた明日香に対し、執拗《しつよう》に平手打ちを繰り返している。

「ちょ、ちょっと！　止めて下さいっ！」

　目の前で行われている行為に対し、俺はそれを止めようと間に割って入った。

　しかしその行為を止めることはできず、相手の振り下ろされる手は俺の身体を通り抜けて明日香へと容赦なく当たり続ける。

「くそっ！　止めろっ！　止めろって！」

　俺はそれでも目の前で行われている行為を止めさせようと足掻《あが》く。

　しかしここが明日香の精神世界である以上、俺のやっていることは陽炎《かげろう》に映る物を掴もうとしているようなもの。それは分かっていることだけど、それでもなにもせずにはいられなかった。

『これは明日香の前世の記憶ね、ここまで思い出してしまったんだ。これは思っていたよりもずっと状況が良くない』

　止めようのない状況を止めようと必死で足掻く俺の耳に、サクラの悲痛とも言える声が聞こえてくる。

「状況が良くないってどういうことだ？」

『今の明日香は前世での出来事を凄い速さで思い出しながら追体験している状態なの。そして前世の記憶を最後まで追体験してしまうと、もう手遅れになる』

「そんな！？」

　てことは、もうかなりヤバイってことじゃないか。

　前世の明日香の母親が猫の話を出していたことを考えると、おそらくもう、残された時間はほとんどないと考えるべきだろう。

「あっ、あれっ？」

　そんなことを思っていると、いつの間にか目の前が元の仄暗《ほのぐ》い空間に戻っていた。

『お兄ちゃん…………』

「えっ！？　明日香？　明日香なのか！？」

『涼太くんどうしたの！？』

「明日香の声が聞こえたんだ。サクラには聞こえなかったか？」

『ごめん涼太くん、私には精神世界の映像を見て涼太くんの声を聞くのが精一杯。だから明日香の声が聞こえたとしたら、それは明日香の精神世界の中に居る涼太くんにしか声は聞こえないの』

「サクラ、俺はどうすればいい？」

『方法は一つ。そっちに行く前に言ったように、明日香を見つけ出してなんとか現実《こっち》に連れ出して来て。涼太くんの目の前には、明日香の生前の記憶がちらつくかもしれない。けどそれに惑わされずに見つけ出して！　涼太くんと一緒に過ごしてきた妹の明日香を、私たちの大事な明日香を救ってあげ――』

　そこまで聞こえたあと、急にサクラの声が途切れた。

「サクラ！？　どうした！？」

　その言葉にサクラからの返答はなかった。おそらく明日香の精神に弾かれてしまったのだろう。

　俺はふうっと短く息を吐いたあと、大きく息を吸い込んだ。

「明日香――――！　どこだ――――――――！」

　暗い空間でどこともなく俺は叫んだ。その声は反響するでもなく、ただ暗闇に飲み込まれて消えていく。

「あっ」

　明日香の名前を叫んだ数秒後、再び場面が移り変わった。

「ここは……」

　移り変わった風景には見覚えがあった。いや、見覚えがあったと言うよりは、忘れようがなかったと言うべきだろうか。

　俺の目の前には、暗い空の下でベランダに震えながら座り込む生前の明日香の姿があった。

　それを見た瞬間、俺はその震える身体に手を差し伸べようとした。でもサクラの言葉を思い出してその手を止める。

　本当は手を差し伸べてその身体の震えを止めてあげたい、もう大丈夫だよと言ってやりたい。

　しかしどんなに願っても、過去を変えることもあったことを無かったことにすることもできない。

「明日香――――！　どこに居るんだ――――！」

　生前の明日香に背を向けて思いっきり叫ぶ。

　過去の出来事を覆《くつがえ》すことができないのなら、やるべきことは今の明日香をしっかりと守ること。今助けるのは俺の妹の明日香だ。

『お兄ちゃん……』

　何度か明日香の名前を叫んだあと、再び暗くなった空間で微《かす》かに明日香の声が聞こえてきた。

　その声はあまりに弱々しく、今にも消えてしまいそうだったが、俺にはなぜかその声がしてくる方が分かった。

「明日香――――！」

　明日香の名前を呼び続けながら、それに反応するように聞こえてくる微かな声を頼りに暗い空間を進む。

　そしてしばらく歩みを進めると、暗かった空間に仄《ほの》かな光が見えてきた。俺はその仄かな光に向かって走り出す。きっとそこに明日香が居ると思ったからだ。

「――明日香！？」

　辿り着いた先には、まるで透明のガラスの中に閉じこもるように体育座りをしている明日香の姿があった。

　その明日香を包むガラスのようなものは、以前母さんから送られてきた写真にあったエリカという花によく似ている。

　エリカを一般的によく知られている花で例えるなら、鈴蘭《すずらん》の花と言うところだろうか。

　明日香はその中で顔を伏せ、身体を震わせながら泣いているようだった。

　サクラの言っていたタイムリミットに間に合ったのか、それとも間に合わなかったのかは分からないけど、俺は明日香と一緒に帰るために一歩前へと足を踏み出す。