妹の生前を見てきました。
意識が遠のいたあとで身体に突き刺さるような寒さを感じて目を見開くと、俺は暗い夜空にふわふわと浮かんでいた。
そんな闇に染まった世界に、真っ白な物がチラチラと舞っているのが分かる。どうやら雪が降っているようだった。
ふわふわと宙に浮いている自分に疑問を感じつつも、身体に伝わってくる寒さの方が気になり、両手で身体を抱き包みながらスリスリと手を動かして温めようとする。
しかしどれだけ手を動かして温めようとしても、身体に感じる寒さは緩まることなくこの身体を冷やしていく。
それにどことなく寂しいような、悲しいような感覚が心の中に渦巻いている。なんだろう……この感覚は。
『――涼太くん、私の声が聞こえる?』
「サクラか!? どこに居るんだ?」
突然聞こえてきたサクラの声に、俺は辺りを見回しながら言葉を発する。
『私を捜してもそこには居ない。私は今、涼太くんの意識に話しかけているから』
いったいどうしてそんなことをと思ってしまったけど、サクラは続けて言葉を発してきた。
『そこはね、いわゆる夢の世界。でも、夢だけど夢じゃない世界なの』
なんだその矛盾に満ちた説明は……夢だけど夢じゃないって、じゃあここは夢なのか現実なのかどっちなんだよ。
この身に感じる寒さは、夢や幻と言うにはあまりにもリアル過ぎる。
身体に感じる寒さに再び身を縮めると、サクラが更に言葉を発してきた。
『涼太くん、今居る場所から下の方に、赤い屋根の二階建て一軒家があるはずだけど、見えるかな?』
そう言われて顔を下へ向けて確認すると、そこには確かにサクラの言うような赤い屋根の二階建て一軒家があった。
「ああ、確かにあるよ」
『じゃあその家の一階にあるベランダまで行ってみて』
とりあえずサクラに言われるがままにその家へと向かい、一階のベランダを探す。
以前サクラの身体を借りて空を飛んだ経験があるからか、そのふわふわした感覚にもすぐに慣れ、わりとスムーズに移動をすることができた。
そして一階のベランダを見つけた俺は、そのベランダの足場にちょこんと体育座りをしている女の子を見つけ、その子にそっと近寄ってみる。
「あれって……明日香か?」
そこで身を震わせながら体育座りをしている女の子は、細かい違いこそあるものの、ほぼ間違いなく明日香だった。
明日香は赤い長袖のシャツにチェック柄のスカートと、とてもこんな雪が降る夜に着るような服装をしておらず、その身体がブルブルと大きく震えている。
「明日香! どうしたんだこんな所で!?」
目の前に居る明日香に近寄って声をかけるが、その声に反応するどころか、こちらを見向きもしない。俺のことなどまったく認識されていないようだった。
「サクラ! これってどういうことなんだ!? なんで明日香がこんな所にいるんだよ!」
『そこに居る明日香は、涼太くんの知る明日香であって、涼太くんの知らない明日香なの』
また禅問答のようなことを言い出すサクラ。さっきからなにが言いたいのかさっぱり分からない。
「サクラ、いい加減どういうことなのかちゃんと説明してくれないか?」
『……涼太くんは今、夢の中で生前の明日香の人生を見ているの。これは夢だけど、現実にあった出来事。だから夢でもあり、夢でもない世界。そして今の涼太くんは、そこに居る明日香と感覚や意識がある程度リンクしているの』
なるほど。さっきからいくら身体を擦っても身体が温まらないのは、目の前に居る明日香の感覚が俺に伝わってきているからか。てことは、この心に感じている寂しさや悲しさのような感覚も、明日香が感じているものなのだろう。
それにしても、なぜ明日香はこんな寒空の下で震えているんだろうか。
「なあサクラ、明日香はなんでこんな所に居るんだ?」
『明日香が生前、母親や兄姉から虐待を受けていた話はしたよね?』
「ああ、そう言えばそうだったな……」
確か生前の明日香は家族からの、主に母親からの虐待が原因となってその一生を終えたんだったな。てことは、目の前に居る明日香は今まさに虐待を受けている最中と言うことになる。
俺はなんとかその身体の震えを止めてあげたいと思って近寄るが、その身体を擦って温めてあげるどころか、その身体に触ることすらできない。
「くそっ!」
目の前で震えて縮こまる明日香が居るのに、なにもしてあげることができない。そのことに凄まじいもどかしさを感じる。
「美羽! 今日はそこで朝まで大人しくしてなさい!」
カーテンのわずかな隙間から光がもれる部屋の中から、おそらく母親と思われる人物の甲高い声が聞こえてきた。
『美羽っていうのは明日香の生前の名前。この時期明日香の母親は、こうして寒空の下に明日香を出して虐待することが日常化していたの』
「なんだって!? こんな薄着の子供を寒空の中に放り出すって、いったいなにを考えてるんだ!?」
俺は生前の明日香の母親に対し、激しい憤りを感じた。世の中にはこのように子供を虐待する親が居るという話は聞くが、目の前でそれを見ると、これほど胸糞悪いものはない。
「温かいお鍋が食べたいなあ……」
明日香が身体を震わせながら、ポツリとそう呟く。そんな明日香の孤独と悲しさが、俺の心へと流れ込んでくる。
それは今まで俺が感じたこともないもので、それだけで心が押し潰されてしまうのではないかと思うほどに辛かった。
「あれっ?」
急に周りの情景が変わり、思わずまた辺りをあちこちと見回してしまう。
周りに見える遊具などから察するに、どうやらここは公園らしく、茜色の陽が射す公園の真ん中辺りに俺は立っていた。
そのまましばらく公園を見回していると、その出入口から1人の女の子が走って入って来る姿が目に入る。
息を弾ませながらやって来た女の子は明日香で、その手には半透明のコンビニ袋のような物がぶら下げられていて、そのまま一直線に公園の一角へと向かって行った。
「遅くなってごめんね。今日は日直だったから」
明日香がそう言いながら公園の茂みから小さなダンボール箱を取り出すと、持っていた袋からパンを取り出して小さくちぎり、その中へと差し出した。
その様子を見た俺は、そのまま明日香の方へと近づく。そしてそのダンボール箱の中を覗くと、小さな仔猫が明日香の差し出した小さなパンをモグモグと食べていた。
「たくさん食べてね、小雪」
俺は明日香が口にした名前を聞いて驚いた。うちで飼っている猫と同じ名前を口にしたからだ。
「これってどういうことなんだ? サクラ」
『12月の初め。小さな雪が降るある日のことだけど、明日香は下校中のこの公園で仔猫を見つけたの。それから明日香は、毎日こうして仔猫の様子を見に来ていた。名前は明日香がこの仔を見つけた日にちなんで、小雪って名づけたの』
「てことはもしかして、明日香は生前の記憶から小雪って名前をつけたってことなのか?」
『生前の記憶はないはずだからそれは考えにくいんだけど、まったくありえないとは言い切れないかな』
そうか、小雪を飼いだしてから名前を明日香につけさせた時のサクラの妙な反応は、この日のことを思い出させたからなのだろう。
俺は再び小雪に餌をやる明日香を見つめた。その表情はとても優しく、心に伝わって来る温かさから、明日香がとても穏やかな気分でいることが分かる。
そんな温かな気持ちにしばらく浸っていると、再び場面が移り変わり、最初のベランダの足場に座り込む明日香が目の前に現れた。
空を見上げると降り出した雪は次第に大きくなり、街を少しずつ白に染め上げようとしていた。
「小雪、大丈夫かな……」
明日香は体育座りで埋めていた頭を上げ、降りしきる雪を眺めながらそう呟く。
しばらくすると明日香はなにを思ったのか、素足のままで白く色づき始めた地面へと足を下ろして家を飛び出し、どこかへと向かって走り始めた。
「お、おい!? どこに行くんだ明日香!」
その声が聞こえないのが分かっていながらも、走って遠ざかる背中にそう呼びかける。俺は走り去る明日香に声をかけながら、急いでその後を追いかけた。
明日香は冷たい雪が積もりつつある地面を素足で駆けながら、小雪が居る公園へと向かっているようだった――。
「小雪、大丈夫?」
公園へと辿り着いた明日香は、茂みの中のダンボールを取り出して小雪の安否を確認していた。
しかし小雪の身体はブルブルと震えていて、明日香が小雪を抱いたその冷たい感覚が俺にもそのまま伝わってくる。
「しっかりして……」
明日香は必死にそう声をかけながら、ダンボールの中にあった厚手の布に小雪を包んで暖める。だけどその呼びかけに、段々と小雪の反応は鈍くなってくる。
そしてそれからどれくらいの時間が経っただろうか……小雪は明日香の呼びかけにまったく反応しなくなってしまった。
最期に小雪が弱々しく鳴いた時の顔は明日香をじっと見ていて、それはまるで明日香に対し、“ありがとう”――と、お礼を言っているように感じた。
「――小雪、ごめんね。なにもしてあげられなくて……」
明日香は静かにそう言いながら大粒の涙を流していた。その感情が俺にも流れ込んでくる。
なんて激しい悲しみだろう……とてもこんな子供が抱える悲しみとは思えない。
「もし生まれ変わることができたら、今度は一緒に遊ぼうね……」
そう言って明日香は布に包まれた小雪を優しく抱いたまま、その場に倒れた。
× × × ×
明日香が倒れたのを見た瞬間、俺は目を覚ました。上半身を起き上がらせ、今見てきたことを思い出す。
瞳からは涙が溢れ、俺は顔を俯かせながら静かに泣き続けた。
「涼太くん、大丈夫?」
心配そうに声をかけてくるサクラの言葉に対し、俺は反応することができなかった。でも、涙で震える声でサクラに聞いた。
「サクラ、あのあと明日香はどうなったんだ?」
「…………12月24日の夜。明日香は小雪を抱いたまま、あの公園で息を引き取ったの」
俺の問いかけに少し間を空けたあと、サクラは沈痛な面持ちでそう答える。
そしてそれを聞いた俺は、両の拳を力いっぱい握ってベッドに思いっきり叩きつけた。
「なんだよそれ……なんなんだよそれはっ!」
なんであんなに優しい子があんな目に遭わなきゃいけない? なんであんな理不尽な目に遭わなきゃいけないんだ? ねえよ、そんなのってねえよ……悲し過ぎるだろ……理不尽過ぎるだろっ!
ベッドの毛布をこれでもかと言うくらいに力一杯握りこみ、激しい怒りと悲しみ、明日香が経験した生前の理不尽で身体を震わせながら、俺はずっと泣き続けた。




