妹とお出かけしました。
俺は未だ夢から覚めることなく、なにも見えない闇の中を漂っていた。
幼い自分から意識を切り離してもなお、その恐怖と悲しみが心を包み込む。
『嫌だ――ここに居たくない！』
そんな暗闇の中でもがき続ける俺に、一瞬か細い光が見えた。必死に暗闇の中をもがきながら、俺はか細い光が見えた場所を目指す。
「――嫌だっ！」
急速に意識が覚醒し、俺は目を覚ました。
目を開けた先には見慣れた自室の天井があり、視線を泳がせた天井の片隅には、昔雨漏りした時にできたシミの跡が見てとれた。どうやらもう、夢ではないようだ。
視界に入った掛け時計の時間を見ると、そろそろ午前１１時を迎えようとしている。それを見た俺はゆっくりと上半身を起こし、額に出ている汗を服の袖で拭う。
「またあの夢か……」
“あの夢”――とは言うものの、目覚めた時には夢の内容をほぼ覚えていない。
覚えていることと言えば、とても嬉しくて、とても悲しい思いをしたということだけ。
「んんっ」
少し気分を落ち着けた俺の横から、小さく明日香の声がした。
そういえば、昨日は同じベッドで寝てしまったんだったな。
隣で穏やかに眠る明日香を見ながら、その頭を優しく撫でる。
「い、や――」
しばらく頭を撫でていたその時、呟くように明日香がそう言うのが聞こえた。その顔をよく見ると、穏やかな寝息を立てていた表情が段々と苦悶の表情へと変わっている。
「いや……イヤッ……嫌っ！」
「どうした明日香！？ しっかりしろっ！」
明日香から発せられる言葉はより一層激しさを増していて、俺は急いで身体を揺すり起こそうとした。
「いったいどうしたってんだ！？」
なかなか起きない明日香の身体を更に強く揺らし、目覚めるように促す。
「――おにい……ちゃん？ お兄ちゃん！」
しばらく身体を揺らしたあと、明日香が涙に濡れた瞳をぱちっと開けてからこちらを見ると、そのまま俺に抱きついてきた。
胸の中で大泣きする明日香が落ち着くようにと、左手で頭を優しく撫でながら、赤ちゃんをあやすように右手の平で背中をリズム良くぽんぽんと叩く。
「怖い夢でも見たのか？」
小さな声でそう問いかけると、明日香は言葉を出すことなく何度も頭を上下に振って頷いた。
兄妹そろって悪夢を見るなんて、俺たちも随分と仲のいい兄妹になったもんだ。
「静かな水の中に居たの――」
胸から頭を離した明日香が、赤くなった瞳で俺を見ながらそう言ってきた。
それにしても、静かな水の中とはなんだろうか。
「どんな夢を見たんだ？」
「私ね、温かくて静かな水の中に居たの。そこではふわふわと浮かんでいるような感覚で、時々誰かの楽しげな声が聞こえたり、綺麗な音が聞こえてたりしてたの――」
抽象的な表現ではあるものの、そこがとても心地良い空間だというのは伝わってきた。明日香の言うその抽象ささえも、夢ならではと言ったところだろうか。
「――でもね、急にその世界が壊れて、私の意識はなくなっちゃったの。とても嬉しくて、とても楽しみな思いがあって。でも、それが急に叶わなくなった夢だったの」
話の内容こそ俺とは全然違うけど、その感じ方がちょっと似ているというのが気にかかった。
「大丈夫だよ、明日香。それは夢なんだから、そんなに泣くことはないんだ」
「うん」
優しくそう言うと、明日香は小さく微笑んで頷いてくれた。
「そうだ明日香、これから映画でも見に行かないか？」
「映画を？」
「ああ、お兄ちゃんが小さな頃にやってたアニメ映画のリメイク版だけど、それでいいなら」
「行きたいっ！」
「よし。じゃあ、お出かけの準備をしておいで」
「うん！」
明日香は嬉しそうに表情を綻ばせながら部屋を出て行った。
２人で見に行こうとしているのは、俺がまだ小学校一年生くらいの時に流行った冒険ファンタジーのアニメーション映画だ。
当時の俺はこれが大好きで、暇を見つけては家のテレビでＤＶＤを見ていたのを覚えている。音楽とかが神秘的で綺麗なんだよ。
今回１０年ぶりにリメイクされたらしく、いつか見に行こうと思っていたわけだが、この際だから丁度いいかもしれない。
× × × ×
真夏の太陽は凶悪なまでにその本領を発揮し、その光の下に居る者たちを容赦なく照らし熱している。
「あっちぃなー！」
そろそろお昼になろうかという時間帯の夏の暑さは本当に尋常ではない。日本の暑さは湿気による不快さがなによりも辛く、それは日本より外気温が高い国の住人でさえ、日本の夏には根を上げると聞くほどだ。
しかもその不快さを更に増してくれるのが、蝉たちのせわしない鳴き声。それがいつまでも余韻のように耳に残る。
「大丈夫？ お兄ちゃん」
真っ白なワンピースのスカート部分をひらりと翻しながらこちらに振り向く明日香。こんな暑さの中でも、明日香はその笑顔を絶やさない。
頭には小さな向日葵の装飾品がつけられた麦わら帽子を被っており、その様相は夏という季節をこれでもかと言うくらいに表している。元気で明るい明日香にはとてもお似合いだ。
「ああ、大丈夫だよ」
明日香にはそう言ったが、アスファルトの道路から来る照り返しは相当にきつく、思いっきり水をぶち撒いてやりたくなる。
そんな中をしばらく２人で歩いて行き、やっとお目当ての映画館へと辿り着いた。
「――えっと、上映時間はどこを見ればいいんだ？」
久しぶりに来る場所ってちょっと戸惑ってしまうんだよな。
そう思いながら今日見る映画の上映時間案内を探す。
「えーっと……次の上映は１４時からか」
会場の時計を見ると、午後１２時２０分を指し示していた。
ちょうど２回目の上映が始まったところだし、ちょっとタイミングが悪かったみたいだな。
「お兄ちゃん、入らないの？」
「ああ。始まって１０分過ぎてるから、次の上映時間までどこかで時間を潰そう」
「うん、分かった」
とりあえず次の開始時間までどうするかを考え始めたその時、俺のお腹がぐうーっと大きく鳴った。
そう言えば、今日はまだご飯を食べてなかったな。
「明日香、ご飯も食べてなかったし、駅前のファミレスにでも行ってみるか？」
「ふぁみれす？」
小さく頭を横に傾げる明日香。
そっか、明日香とファミレスに行ったのは遊園地以来だし、ファミレスってもんを説明したこともなかったもんな。それにあの時のレストランはファミレスと言うには内容が高級感に溢れていたし、明日香にとってはこれが初ファミレスと言ってもいいのかもしれない。
とりあえず明日香を連れ、駅前にあるファミレスへと向かうことにした。
× × × ×
「ああー、涼しい～！」
映画館から出て約１５分ほど炎天下の中を歩き、目的のファミレスへと到着した。
店内は程よくクーラーが効いていて、外の暑さが嘘のような快適さ。エアコンてのはまさに、人類の生み出した傑作の一つだ。
「ここがふぁみれす？」
明日香は初めて訪れる場所に興味津々と言った感じであちこちを見回している。
「ああ。さて、空いてる席に座るぞ」
「うん！」
楽しそうに後ろからついて来る明日香が非常に可愛い。妹を持つ兄の気分てのは、みんなこんな感じなんだろうか。
とりあえず２人で空いている席に座り、メニューに目をとおす。俺は軽めの食事をしようと考えていたので、サンドイッチセットを頼むことにした。
注文する品を決めたあと、俺はメニュー表を元の位置に戻す。
続いて明日香の方を見ると、険しい表情でメニュー表と睨めっこをしながら忙しくページを捲って悩みまくっていた。
「ふふっ」
そんな明日香を見て、思わず小さく笑いがこぼれた。険しい表情で注文品を選んでいる明日香の姿はなんとも可愛く、見ているだけで微笑ましく思ってしまう。
明日香はそこから約数分間悩み続け、ようやく注文する品を決めた。
「――か、勝手にジュース入れていいの？ お兄ちゃん」
フリードリンクを２人分注文したのでジュースを注ぎに来たのだが、コップにジュースを注いでいく俺を見ながら、明日香は不安げな表情をしていた。
「大丈夫だよ。とりあえずここにある飲み物は、何回でも注いで飲んでいいから」
「えっ！？ そうなの？ 何回も飲んでお店は大丈夫なの？」
わざわざお店の心配までしてあげるとは、我が妹はなんと優しいのだろうか。
「大丈夫だよ」
明日香にこうは言ったものの、実際に店が大丈夫かどうかなんて俺には分からない。
そういえば俺も、小さな頃は疑問に思ったことがあったな。食べ放題や飲み放題のお店って、あれでよく潰れないな――とか。
あれだけ飲み食いさせて採算が取れるようにやってるんだから、本当に凄いと思う。
明日香からの何気ない疑問の言葉を聞き、昔の自分も同じようなことを思っていたことを思い出した。
人ってのは周りにあるその環境を普通にあるものだと認識してしまうと、その些細な疑問すらも疑問ではなくなってしまうのだろう。なんて言うか、明日香と一緒に居ると、改めて気づく人の一面というものがある。
そんな明日香はジュースをコップに注ぎながら、その好奇心溢れる目を輝かせていた。
あと特に興味を持ったのはデザートで、自身で注文したフルーツパフェには相当感動したらしく、終始笑顔。
ちなみに俺が食べようと注文していたイチゴクレープは、じーっとクレープを見つめていた明日香に差し出し、綺麗さっぱりとなくなった。
やはりデザートへの興味というのは、女の子にとっては相当なものなんだろう。
「――ごちそうさまでした！」
とても満足そうな笑顔で両手を合わせる明日香。こんなに喜んでもらえると、こちらとしても嬉しくなる。
時間は次の上映開始時刻の３０分前。腹ごしらえを終えた俺たちはファミレスをあとにし、本来の目的である映画を見るために再び映画館へと戻って行く。
