弐
「わかっているわ」
ついでに自室へ荷物を置いてこようと、進行方向を変えて向かおうとした時だった。
廊下から外に通ずる場所に、大きな桜の木があるのだが。
風に乗って、花びらがたくさん家の中に入ってきたのだ。
舞い落ちてくる桜の花びら、その中の一枚を手に取ると、ふと、昔のことが思い出された。
……まだ母がいた頃の話だ。
母方のおばあ様が主宰の、ガーデンパーティーに出向いた時のこと。
盛大に執り行われていたパーティーに、ユリは飽き飽きして祖母の目をかいくぐり、外へ抜け出したのだ。
そして、抜け出した先で子犬を拾ってしまった。
お世辞にも、綺麗とは言いがたい子犬を連れ帰れば、おばあ様は目をつり上げて捨ててこいと言うに決まっている。
だけど、命を捨てるなんて。
子犬と一緒に座りこんで、動けずにいると。
ユリと同じように、おめかしをした男の子が座りこんだ桜の木の反対側から、ひょっこりと顔を見せた。
『可愛えーな!』
にぱっ、と笑う男の子。
最初は、子犬に対して言ってるものだとばかり思っていたけど、数年経ってあれは自分に言っていたのだと気づく。
男の子は、まっすぐユリだけを見ていたからだ。
『ん?なんやその犬』
『……捨てられていたの。連れて帰ってあげたいんだけど、おばあ様が絶対許してくれないから……っ』
当時、母方の祖母の言うことは絶対だった。
たとえたった一人の孫であろうとも、厳しく律せられたのだ。
それを、生き物を飼いたいと言えるはずもなく――――ユリは今度こそ、泣き出してしまった。
こぼれる涙を、子犬が舐めとる。
男の子も慌てて、持っていたハンカチを差し出してくれた。
『っ……ありがとう』
『ええって!……なあ、その犬、俺が連れてってもええか?』
思いがけない申し出に、ユリは男の子をまじまじと見てしまう。
ユリに見られて、顔が赤くなるのを必死に隠しながら、男の子は慌てて説明し始めた。
『うちのオトンもオカンも、太っ腹やから大丈夫!なんとかなる!!』
『本当……?』
『連れて帰って、大事にして、長生きさせたる!だから安心してや』
ユリから子犬を受け取って、ちょっと重たかったのか、バランスを崩して倒れてしまった。
慌てて男の子と子犬に駆け寄ると、子犬が転んだ拍子に男の子の顔に乗っかって、ペロペロと顔中を舐めていた。
『うきゃっ?!くすぐったいっちゅーねん!』
『ふふっ……』
その様子を見て、安心したのか両手で軽く口元を押さえ、クスクスと笑う。
それを見て、男の子もニカッと笑った。
『ありがとう……その子をもらってくれて、本当にありがとう。私は、ユリって言うの』
男の子と子犬に、優しく微笑むユリ。
たくさん舞い落ちる桜の花びらと、それは見事に溶け込んでいて。
男の子はまた、ポーッと見惚れていた。
そのせいで、自分も名前を名乗るということを、頭からすっかり抜け落ちた男の子は。
『…っ……!!困った時は、お互い様や!』
それしか、言葉に出来なかった。
草が髪に付いていたり、転んだ拍子に土が付いたりして、少し笑ってしまう格好だったのだけど。
でも、ユリにはその男の子がすごく、眩しく見えたのだ。
……その後すぐにユリの両親が探しにきて、そのまま別れてしまったが。
今となっては、ユリにとって一番綺麗な思い出だとしみじみ思う。
あの思い出の男の子と子犬は、今頃どうしているだろうと。
「お嬢様ー!!お電話でございますよー」
「すぐに行くわ!」
ただ今は、今を生きることで精一杯なのだ。
思い出は思い出として、大切にしまっておこう……。
「もしもし、お電話代わりました」
『お久しぶりね』
うららかな春の昼下がりも、一気に氷点下まで下がる。
ばあやが電話に出た時は、他の人間にかけさせたのだろう。
相変わらず、姑息な手を使う。
「……お久しぶりです、相変わらずのようですね」
母方の祖母からの電話だった。
定期的に、本人からユリに電話がかかってくるのだ。
いつもなら、ばあやが祖母を嫌っているので取り次ぎはしないのだが。
向こうもやはり馬鹿ではないので、他の人に電話をかけさせ、ユリが電話に出るのを待っていたのだ。
『まずは、龍御寺財閥が経営する進学校への入学、おめでとう』
「ありがとうございます」
『ようやく、一歩を踏み出したというところかねぇ?随分と時間がかかった』
「踏み出せなかった頃に比べれば、幾分かマシです。――――あの時交わした誓約は、必ず守っていただきます!」
語尾がきつくなってしまったが、仕方ない。
憎い人だが、憎みきれない。
これでも血の繋がった肉親なのだ。
『それはお前が、皇麟学園を成績一位を保守した状態で無事に卒業すれば、叶えてやる。私は一度交わした誓約は、死んでも守るからねぇ』
「必ず、叶えてくださいよ?……その為に私は、今まで努力し続けてきたのだから……!」
『守るさ、私も娘と孫は可愛いからねぇ』
どの口が物言うか!
昔から、私たち親子を苦しめてきた元凶に、ユリは苦虫を噛み潰したような顔になる。
思わず、受話器を握る手に力が入り、ミシミシという音がやけに耳障りだった。
父と母が一緒に暮らせないのは、誰のせいだと思っているんだ!!
『入学式に、私は出られないけどね。ユリの新入生代表の挨拶はどうだったか、後で人伝に聞いておくよ』
「あなたの期待を、大いに上回る結果にしますよ。お楽しみに」
『それは楽しみだこと。……それでは、いずれまた』
返す言葉は何ひとつ無く、乱暴に電話を切った。
お腹が空いて、いつもより苛立っているというのに今の会話で余計に腹立たしく感じる。
「ばあや!」
「お嬢様、お電話はもうお済みになられたのですか?」
「済んだわ。だから早く食事を摂らせて」
「そのように慌てずとも、食事は逃げたりいたしませんよ。ゆっくり味わってお食べ下さい」
炊きたてのご飯に、温かい味噌汁にいい匂いのするおかずたちが、ユリの目の前に並べられていく。
いつもながら、ばあやの作るご飯はどれも美味しそうだ。
ユリも料理は作れるが、やはりばあやの作るご飯が一番だとめったに作ることはない。
ばあやと食事に感謝して、美味しい食事にありついたのだった。
――――――ユリの一日は、勉強や作法のおさらいをして終わる。
今日のバイトは、比較的早く終わった方なのでその分、他のことに時間を回せた。
父とばあやに見てもらいながら、教養を身に付ける為の稽古事や作法、手習いや勉学に至るまでを、夜遅くまでおさらいする。
ユリはこの歳ですでに、華道・茶道・日舞・和楽器類は師範免状を持っていた。
更には洋楽器類も弾きこなし、社交ダンスや五ヶ国以上の語学も習得している。
さすがに一日で、それら全てを稽古出来るはずもなく。
日によってきちんと、おさらいすることを決めている。
今日はたまたまバイトが早く終わったから、一度に多くの稽古事をおさらい出来るのだ。
ユリはその才能を腐らせるのではなく、さらに磨きをかけて、輝きを保つ努力を欠かさない。
父やばあやには、無理をしていないかと心配されているが――――それでもユリは止めない。
叶えたい、望みがあるからだ。
その為には、これくらいのことをこなせなくてはいけない。
敵も、そう望んでいる。
ユリが、さらなる高みへと昇ることを。
今日の稽古の仕舞いは、日本舞踏の藤娘。
藤の花が描かれた着物を着て、ばあやが三味線を叩き、父が長唄を唄い合わせる。
日によって稽古する内容は違っているが、藤娘はユリが得意とする、舞踏の一つであった。
……ばあやの三味の音は、幼い頃から変わらない……。
父の声も、耳にとても心地がいい。
藤の花房色よく長く
可愛いがろとて酒買うて 飲ませたら
うちの男松に からんでしめて
てもさても 十返りという名のにくや
かへるという忌み言葉
はなものいわぬ ためしでも
しらぬそぶりは ならのきょう
松にすがるも すきずき
松をまとうも すきずき
好いて好かれて
はなれぬ仲は ときわぎの たち帰えらで
きみとわれとか
おゝ嬉し おゝうれし
夜が更けた中、三味の音と父の長唄だけが外の静けさの中でよく響いていた。
――――――――あれから時は過ぎ、皇麟学園の入学式の日となった。
真新しい制服に身を包んで、入学式の挨拶の打ち合わせがあるからと二人より早く家を出た。
……すると、角を曲がった先になぜかバイクに乗った藍月堂の康介の姿が。
どこか不機嫌そうに見えるのは、気のせいだろうか?
「おはようございます、康介さん」
「さん付けはやめろ!……幼なじみなんだから、呼び捨てでいいだろうがっ!」
「なんとなく、癖になってて。……それより、こんな朝早くにどうかしたんですか?」
あれからずっと、家には帰っていないのだと女将からは聞いていた。
しかし、康介は皇麟学園の制服を着ているのでとうとう帰ったようだ。
そのことに少なからず、安堵していると。
いきなり康介から、ヘルメットを渡された。
正直、訳がわからない。
「あの……?」
「どうせ行くところは同じなんだから、送ってやる!お前、今日は新入生代表で挨拶すんだろ?」
「女将さんから聞いたんですか?」
「そうだよ。お前の晴れ舞台だからって、わざわざおふくろからメールが来ててよ……ならついでに、送ってやろうと思っただけだ!」
そう言い捨てて、さっさとまたヘルメットを被り、後ろに乗るよう促してきた。
女将から言われたのではなく、自分が望んできたのだということはユリにはすでにバレバレだ。
わかりやすいのだ、康介という男は。
目つきが悪くて、アクセサリーやピアスもじゃらじゃら付けて、昔は綺麗な黒髪だったのに派手な金髪に染めて。