終わりの始まり
埃の舞う古びた馬小屋で、僕は小さく呼吸しながら、小窓から差し込む月明かりを見つめていた。
もう随分長い間、人の出入りのなかった家屋特有の匂いと、随分とは言わないまでも、長い間汗や汚れを洗い流すことのなかった衣服の匂いが混じり合って、この冷たい静けさの中に、僅かでも残っている命の温もりを僕に伝えている。
大丈夫、僕らはまだ生きてる。
寂れた小屋の中。
人間が2人。
大人と子供。
彼と僕2人きりだ。
閉まりきらずに頼りなく揺れている入り口の戸の影で、彼は座り込んで体を壁に預けた体勢で、僕と向き合っている。
僕らは互いに向き合っている。だが、僕らの視線は全く別の方向を見つめたまま、重なることはない。
僕は月明かりをぼんやりと眺め、彼はその僅かに開かれた戸の隙間から外の様子を伺っている。
僕らは生きている。どうにか今を死なずに過ごせている。
差し込んだ月明かりは2人を照らすことはない。僕らは常に、光に照らされることのない場所を動き、その影に放り込まれる僅かな食料と資材を奪い合い、時に奪われ、時に分け合いながら、決してその光に触れることはないまま、今にも潰えてしまいそうな日々をどうにか繋いぎあわせて、ここまで辿り着いたのだ。
誰かに何かを与えられた記憶なんてない。
少なくとも、そんな風に誰かから何かを受け取った記憶はない。
奪って奪われて、時に同じ一つを同じだけ分け合う。
今だってこうやって、この狭い馬小屋の影で、僕らはまた、目に見えない何かを分け合い、目に見える何かを奪われようとしている。
「こちらの方向に近付いてきている‥マズいな、奴らの方がここの土地に詳しいのは当たり前だった‥この小屋じゃ見つかっちまうぞ。」
痩せ痩けて黒ずんだ頬を、冷たい汗が伝う。
状況は決して良くはない。いや、むしろ最悪の部類に入れるべきなのかもしれない。
「賭けるか?2人で別々の方向へ走って、どちらかが助かるかもって可能性に。」
「らしくないよ、そんな方法。少なくともどちらか1人はどうあっても逃げ延びれるくらいの確実さを今までは残していたのに‥」
「準備不足だ、今回は今までとは違うだろ?こんな突然に‥いやだが臨機応変だ、対応は出来なくても、冷静に‥状況を常に正確に捉えろ。」
それは僕に向けられた言葉なのか、それとも彼が彼自身にそう言いかせていたのか、今はもう分からない。それでもその言葉は、今でも僕の頭の中の、一番奥に大事に残されている。
それはときに、いつでも取り出せるようポケットの中に忍ばせたナイフのように、僕のちっぽけな勇気の拠り所となっている。
とりわけ自分が危機的な状況に晒されるほど、その言葉は鮮明に、僕の中に熱をもって蘇る。
冷静に、状況を常に正確に捉えろ。
そう言って彼は、左手に着けていたブレスレットを外した。小さな鎖を繋ぎ合わせて出来ている、鋼色のブレスレットを僕へ放り投げる。
僕は音もなくそれを受け取る。静寂の中で、それを壊さずに行われるやり取り。僕らが生きていく上で最低限身に付けておかなければならない処世術。
「‥形見のつもりなのかな?」
「馬鹿なことを言ってんじゃねえよ。ミサンガつってな、身に付けた者の願いを叶えるまで、絶対に切れない。どんなことをしても、切れたりはしない。
とりあえず、願いを込めてその鎖を噛め、願いがその中に閉じ込められたら淡く光る。‥光が漏れないように気をつけろ。」
「‥」
僕は座り込んだ体勢で、抱え込むようにしてミサンガを噛む。舌に当たる鉄の味が、口の中に広がる。
「光らないよ?」
「?渡したの違ったか、こっちだ、こっちを噛め、早くしろ」
そう言って彼はもう一つ、ミサンガを放った。急に放られたミサンガをとるには、体勢が苦しくて、僕は持っていたミサンガを取り落として、放られた方をどうにか掴む。そして同じ様に願いを噛みしめる。
「‥光った」
「じゃあさっき渡した方を早くこっちへ放れ‥
ぎいいい
言い終わらない内に僕が放ったミサンガは、こちらを向いていた彼の手の中には収まらず、地面に落ちた。しかし彼はそのミサンガを素早く握り直し、勢いよく戸へ向かっていく。
音を立てて月明かりが小屋の中に入ってきた。
小屋の中にあった静寂はもう壊されてしまった。
小屋の外側から持ち込まれた暴力によって。
その徹底的な敵意に、僕らは立ち向かった。
徹底的な敵意。
小屋の中にあったものの幾らかは壊れ、幾らかは人の血によって汚されていった。
僕らが持ち込んだ命の温もりは、冷ややかな殺意でもって外界の敵に抗う。
奪われまいとして奪うんだ。
僕らは2人きりで、常に形のない何かを求め、そして何者かに追われていた。
そうして辿り着いたこの小屋で、とうとう僕らは離れ離れになってしまったのだ。
数人の追う者たちの手によって僕は囚えられ、彼は僕を身代わりにして去って行った。
逃げたのではない。彼は僕のもとを去って行ったのだ。
それからもう二度と、僕が彼の姿を見ることはなかった。
僕は1人になった。
両手を拘束され、木の棒で背中を打ち叩かれ、僕は彼らに連行された。
そこで出会ったのだ。
空を舞う飛行艇が、僕を彼らの手の内から救い出したのだ。
1人の老人と、2人の少女。
彼ら、彼女らは突如として、空から僕と僕を捕えた者たちの目の前に現れ、僕に手を差し伸べてくれた。
月明かりすら、僕に安堵や安らぎを差し伸べたことはなかった。
見えていた光の中心。
一度として触れられず、入れずにいたその中にあった温もりに初めて触れたとき、僕の物語はやっと、目の前にあった道筋を掴み取り、少しずつ前へと進み出した。
「あんたみたいな汚くて臭い人間、近くにいるだけでも本当は嫌なんだけどさ、顔は悪くなかったから。
ちょっとばかしの恩を売ってやるよ。」