5話
館内図を頼りに引き返して、一つ手前の角を曲がった。少し歩くと、すぐにまた曲がり角があったが、壁が幅広く、深く陥没しているためにそう見えるだけで、実際には五メートルもないほどの短い袋小路だった。中を覗くと、廊下からは見えにくい位置に引き戸がある。さらに近づき、引き戸の横の木札に書かれた文字を確かめると、自分達に割り当てられた部屋の名前と一致した。
「ああ、ここだ」史岐がほっとしたように言う。「一昨年と同じ名前の部屋だったから、間違えないと思ったんだけど、なんでだろう……。模様替えでもしたのかな」
「ちょっと、引き返して見てみますか?」
荷物を置いて、もう一度廊下に出る。探検のつもりで、ちょっとした装飾品にも目を向けながら来た道を戻っていくと、角を何回か曲がったところで、壁の方を向いてじっとしている人影が見えた。高さが七十センチくらいの棚があって、そこに置かれたものを見ているようだ。仕立ての良い古風な和装で、髪は長く、絹のように白い。眼鏡をかけているようだ。体格からすると、たぶん男性ではないか、と思えたが、かなり距離が離れていたのではっきりとはわからない。
利玖達に気がつくと、その人物はふいっと壁の中へ消えてしまった。ここからは見えないが、やはり袋小路があって、奥に入り口があるのだろう。
その棚の前まで来たところで、史岐が立ち止まった。
「ここ……」彼は棚の上面を指さす。陶製の花瓶があり、白のカンパニュラが活けられていた。「一昨年は、花じゃなかった。確か、蠍の像が飾られていたはず」
「蠍……、ですか?」
「そう」史岐はしっかりと頷いた。記憶は鮮明に残っているようだ。「たぶん、それぞれ種類の違う木材で、二匹の蠍が彫られていてね。台座に工夫がしてあって、上の蠍が襲いかかってくるのを、下の蠍が鋏を振り上げて迎え撃つような、ダイナミックな構図だったんだよ。結構、大きかったし、標本みたいに細かいところまで彫り込まれていてね……。毒針なんて、触ったら、本当に死ぬんじゃないかっていうくらい迫力があった。ちょっと気味が悪くて、一昨年はあまりよく見られなかったから、今回はリベンジのつもりで来たんだけど」そこで、史岐はちらっと笑って利玖を見る。「蠍は平気?」
彼女は脚の多い虫が大の苦手なのだ。チョウやガの幼虫などはてんで駄目である。しかし、蠍はそのグループに入っていない。
「肺の形に興味があります」利玖は正直に答えた。
蠍の像がないことを確かめて、二人は部屋に戻った。貴重品を金庫に仕舞い、キィは史岐が持っておくことになった。
夕食の会場は大広間で、他の招待客と顔を合わせることになるため、利玖は服を着替えた。髪をほどき、鞄から取り出したドライヤで整える。大体まっすぐになったところで、カチューシャを着け、鏡に顔を近づけて仕上がりを確かめた。大学に行く時にはカチューシャなんて着けない。かといって、休日にだって、そんなお洒落はしないのである。自由意志でカチューシャを着けるのは、ひょっとしたらこれが初めてかもしれない、と考えた。
カチューシャと是非合わせるように、と渡されたワンピースは、天鵞絨のような深い緑色で、ボタンもベルトも同じ生地、同じ色で統一されている。先端が三角形になるようにカットされた襟と、袖口だけがクリィム色だった。ボタンを留め、自宅で練習してきたとおりに、中心よりもやや左寄りの位置でベルトを蝶々結びにする。
彼女の生家・佐倉川家でかつて住み込みの医師として働いていた別海那臣という老女が、隠居した今でも、時折こうして服を送ってきてくれるのだ。ガーリィで、金平糖みたいな儚い甘さでデコレイトされた作品(そう、正にそう呼ぶのが相応しい)ばかりで、ずっとクロゼットの隅で眠らせていたのだが、史岐と一緒に行動することが増えてからは、幾分か日の目を見るようになっている。
申し訳程度の化粧も済ませたが、最後のアクセサリィが、なかなか決まらなかった。彼女は普段、細い黒のチョーカーを着けている。トップには、真珠に似た淡い緑色の石が一つだけついている。これは、高位の妖のみが授けることを許される蛉籃石という石で、以前、とある山のヌシの頼みを聞いた時にお礼として貰い受けたものだった。妖絡みの厄介な問題に巻き込まれることが多い利玖は、この蛉籃石を、ささやかな魔除けの機能も持つように加工して、なるべく肌身離さず持ち歩くようにしている。
しかし、ワンピースは襟ぐりが広くなるように仕立てられていて、チョーカーを着けない方がすっきりとして見えて好ましい気がする。それに、別海は、ワンピースと一緒に真珠のイヤリングも送ってくれた。やや歪なチョーカーの蛉籃石とは対照的に、完璧な球形の曲線が優美な印象を与える純白の真珠である。試しに片耳に当ててみると、ワンピースのアクセントとして使われているクリィム色と良く馴染んで見えた。
左右それぞれの手でチョーカーとイヤリングを持ち、鏡の前でしばらく悩んだあと、利玖は廊下に顔を出して史岐を呼んだ。
「何も言わないでください」利玖は片方の掌を突き出しながら、もう片方の手で史岐の腕を掴んで部屋に引っ張り込む。入り口にある大きな姿見の前で隣に並んだ。「前を向いて、まっすぐ……、あ、良いですね、そのまま、じっとしていてください」
利玖の蛉籃石は、実は、史岐のピアスと原石が同じである。元は一つだったものを、割って二つに分けたのだ。しかし、史岐のピアスには魔除けの加工が施されておらず、元来の高い透明度と鮮やかな緑色を保っている。チョーカーを着けて並んでも、ペアのアクセサリィという風には見えないだろう。
彼女はチョーカーを鞄に仕舞って、真珠のイヤリングを両耳に着けた。
「ありがとうございました」史岐の背中を押して、利玖は一緒に廊下へ出ようとする。
すると、史岐が振り向いて空中に指で文字を書いた。ダブリュー・エイチ・ワイ、最後にクエスチョンマーク。
「センスを磨きたかったので……」利玖はそう答える。「こういう時、史岐さんの隣に並んでも不釣り合いに見えない格好を、自分一人でも選べるようになりたいと思いました」
史岐は無表情で頷く。
「ごめんなさい」利玖は軽く下唇を噛んだ。「喋っても良いですよ」
「褒めるのも駄目?」史岐がすぐに訊く。
「ええ、今は……」利玖は真剣な表情で首をふった。
褒めてもらえたら、もちろん嬉しい。胸が熱くなって、一センチくらい床から浮いて、しばらくそのまま漂っていられそうな気さえする。
だけど、このあと大広間で、他の招待客の視線に晒される間は、それによって生じる緊張やプレッシャを正面から受け止めたかった。それらを克服して初めて、彼のパートナとして招待された役目を果たせるのではないか、と思った。
「夕食が終わって、この部屋に戻ってきて……、お酒とおつまみを持ってきてもらって……、その時に感想を聞かせて頂けると助かります」
史岐は、瞬きをしたあと、咳き込むように吹き出し、それからお腹を押さえて笑い始めた。
「すごい、ことを……、言うね」
利玖は首をひねる。
そんなにバランスを偏らせるような条件だっただろうか。




