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25話

「昔、これと似たお風呂に入ったあとに倒れたことがあるんですよ」と最初に言ったのが良くなった。

 利玖にしてみれば、それは大学で一番の友人である阿智茉莉花との出会いのエピソードで、その時に介抱してくれたことがきっかけで仲良くなったのだ、と話を続けるつもりだったのだが、史岐は“倒れた”という事実を純然たる不安材料とみなして浴場の中までついて来た。

「大丈夫ですよ、もう……」利玖は、薬草の成分が抽出されて濃い色に染まっている湯の中で振り返る。湯気と一緒に、独特な匂いがふわっと顔の周りを包んだ。「その時の苦い経験があるのですから、倒れたりしません」

「でもなあ」史岐は白いプラスティックの椅子に座っている。洗い場の隅に置かれていたものを浴槽の隣まで運んできたのだ。寝室に用意されていた矢絣柄の浴衣を着ていたが、足もとが濡れているため、裾を少したくし上げていた。「本来、良くないと思うよ。虫刺されのあとにお湯に浸かるっていうのは……」

「そうですね、痛みや痒みが悪化するとも言いますし」利玖は右腕を湯の中から持ち上げる。そこは別に、何ともない部位なのだが、湯帷子を着せてもらっているとはいえ、ふくらはぎを見せるために裾を捲ることには抵抗があった。「だから、あのお医者様が仰ったとおり、殺菌と代謝の促進が主な目的なのだと思います。このお湯も、ずいぶんぬるめですよ」

「あと七分だね」史岐が壁を見上げて言う。

 スポーティなデザインのデジタル時計が壁に取り付けられていて、やや過剰なくらいに時間の経過を視覚化していた。大衆浴場ではあまり見かけない、それどころか、むしろ敬遠されるはずのレイアウトだが、この施設の特性を考えれば不自然なことではない。

 昨夜、酬笄館から出た利玖は、すぐさま東杢比野家の使用人によって応急処置を受けた。氷嚢で患部を冷やしながら竹垣の外に出ると、どこを通ってきたのか、見覚えのある黒のセダンが停まっており、仁村氏が運転席で待機していた。

 史岐とともに後部座席に乗り込むと、仁村氏はすぐに車を出し、県道沿いのホテルまで二人を運んだ。といっても、ホテルのエントランスの前で下りたわけではない。職員用の駐車場よりももっと奥に、森の奥へ入っていく小道があり、そこを通り抜けて、ちょこなんと切り分けられた高野豆腐のような白い建物の前に出た。用途不明の発電所のように堅固で近づきがたい印象だったが、仁村氏によると、メインの機能としてζ種の毒の解析を、サブの機能として、それに冒された人間の治療を行っている、療養所のような施設だそうだ。治療行為の一環として、簡素なものではあるが、寝室と浴場も用意されているため、利玖さえ良ければここで休んでいってほしいというのが東杢比野漱人の意向だと、仁村氏は説明した。おそらく、湯を引いたり、取扱いに注意を要する物資を運び込んだりする上では、ホテルに隣接している方が都合が良いのだろう。

 東杢比野漱人とは、ほんの四、五分ほどではあるが話すことが出来た。顔を合わせたわけではない。仁村氏が持ち歩いている端末に電話がかかってきて、それが利玖に渡されたのだ。漱人は、直後謝罪することも出来ない自身の状況を、何度も『不誠実』という言葉で形容したが、史岐から事情を聞いていた利玖は、そっくり同じ数だけそれを否定した。もし、母屋で休ませてもらうしか方法がなかったら、確実に彼の逃亡の妨げになっていただろう。療養所が離れたところにあったことは、利玖のプレッシャも小さくしてくれた。

 仁村氏と別れ、史岐に付き添われて療養所に入ると、白衣を着た小柄な老医が待っていて、手際良く利玖の傷を診てくれた。蕉から渡された塗り薬も、その時、容器ごと彼に見せたのだが、にっこりと笑っただけで驚く様子もなかった。おそらく、彼が調合したものが蕉の手に渡っていたのだろう。

 史岐と二人で一泊することにして、シャワーを浴びて服を着替え、布団に入ったが、眠りが浅く六時過ぎに目が覚めてしまった。朝食は八時にホテルから運んでもらうことになっているので、どうせ時間を持て余すならと、老医の使用許可も下りているこの薬草風呂に入ってみる気になったのだった。元々、薬草にも温泉にも興味津々な利玖である。是非入ってみたいと思っていた、というと些か不謹慎だが、大学の温泉同好会に所属しているくらいだから、稀少な湯に──成り立ち上、他のメンバに入ったことを話せないとしても──浸かって癒やされることには、平均より大きな幸せを感じるのである。しかし、無用な心配をさせないように、史岐の前ではつとめて冷静に振る舞っていた。

「前に倒れた原因は何だったの?」史岐が訝しげに湯に目を凝らしながら訊く。

「あ、そう、その続きを話したかったんですよ」利玖は躰を斜めにして浴槽の縁に肘をつく。「単にのぼせただけです。薬草の成分が体質に合わなかったわけではありません。こう……」利玖は両手でサッカーボールくらいの大きさを示す。「薬草が詰まった袋がお湯に浮いていて、どれが、何という植物で、何に効くのかを考えていて、つい長湯になってしまいました。温泉同好会の歓迎会だったので、茉莉花がいて、そこで介抱してくれたことがきっかけで知り合ったんです。茉莉花には、史岐さんも、会ったことがあるでしょう?」

「うん」史岐は頷いた。「学園祭でウエハースを集めていた子だね」

「あの……」利玖は眉をひそめて首をふる。「もっと他の印象はありませんか?」

「覚えていない」史岐は微笑んだ。「あの時は、温泉同好会のお汁粉を宣伝するために、利玖ちゃんとお揃いの浴衣を着ていたし、僕が近づいた時、確か、化粧がちゃんと出来ていない、というようなことを言って顔を隠した。だから、外見のことは記憶に残していないよ」

「ああ、そういえば……」利玖は視線を上に向けて考える。あのあと、色んなことがあったので、そのたった一瞬の出来事を鮮明に覚えているわけではなかったが、史岐が茉莉花に対して気を遣ったことはわかった。「ええ、そうだったかもしれませんね」

「十分経ったよ」

 史岐が立ち上がり、浴槽の縁で膝を折ってしゃがみ込む。彼が伸ばした手につかまって、利玖は少しの名残惜しさを感じながら、薬草の匂いがする湯から出た。

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