15話
御簾納松実は、佐倉川利玖が煎茶を淹れた時の所作を思い返しながら二之間の中を歩いていた。伸ばした左手の先は壁に触れていて、それに沿ってゆっくりと部屋を一周しようとしている。
まだ覆面を外す前だった。しかし、ある程度は周りが見えるよう、目の部分に工夫がされていたので、彼女の手もとを見ることは出来た。
一朝一夕で身につくような手捌きではなかった。
根気強く、修練をくり返させたのだろう。
彼女の母親も……。
一瞬の追慕が、枯れた芒の穂のように記憶の底から剥離しかけたが、それを捉えるよりも早く、松実の意識は壁に向いた。今、自分の指先が触れている、まさにその箇所だ。
漆喰仕上げの、どうということもない壁である。窓枠があるわけでも、変わった絵が飾られているわけでもない。
しかし、『入り口』に使うならここが一番相応しいことが、松実にはわかった。
帯に挟んでいた口紅を取り出し、キャップを外す。ダイヤルを回して芯を出し、それを使って壁に楕円形を描いた。
「御簾納松実が御招待申し上げる」口紅を帯の間に戻して、彼女は、ぱん、と手を打ち鳴らす。「太白殿。此方の『門』より御出でませ」
口紅で囲まれた内側の壁が水面のようにぞわりと揺れた。
向こう側で、誰かが抜け出てこようと藻掻いているように、その揺れは徐々に大きくなり、やがて白い腕がぬっと現れる。それに続いて着物の袖、男の肩、陶器の作りもののように美しい顔が、薄ら笑いを浮かべた表情で現れた。
「困るなあ」プールサイドにでも上がるように両腕で躰を支えながら、その男──太白は二之間へ入ってきた。「貴女には手を出すなと言われているんですよ。それなのに、そんな美しい声で招かれたら、応じないわけにはいかない」
松実はそれを無視して、壁際に置かれていた重箱の前で膝を折り、底に隠していた布巾を取り出す。たれを絡めた料理を包んでいるため、白い生地にはじわっと染みが浮いていた。
「わたしの問いに一つ答えるごとに、これを一本ずつあげるわ」
松実は太白の前で布巾を開く。
そこには、カイコの蛹を串焼きにしたものが十本ばかりも並んでいた。一之間で皿の上にあるのを見つけ、何かの取り引きに使えるかもしれないと思い、こっそり布巾に包んで持ち出したのである。彼女は、一之間では誰にも会わなかった。
「重箱の中身と貴方は、遺伝子が同じ?」松実は質問を始める。
「いいえ」太白はにっこりと笑って首をふった。「双子でも三つ子でもない。勿体ないですが、一回お手付きですね」
松実は内心、臍を噬む。同種なのか、と訊くつもりだった。だが、それを表情には出さず、串焼きを太白に渡し、二本めを指に挟んだ状態で質問を続ける。
「貴方は重箱の中身を食べる?」
「はい」
「つがう?」
「はい」
「それは、子を為すために?」
「いいえ」太白はそう答えて、口もとを少し斜めにした。
「そう……」松実は短く息を吸う。「わたしの知る昆虫にも、つがった相手を食べるものがいるわ。しかし、貴方はそうではない。この串焼きと同じ、ただそれを食べたいから、重箱の中身が欲しいというだけなのね」
「何もおかしいことはありませんよ。その箱は元々、特別な料理を入れるために作られたものなのでしょう?」太白は肩を竦めて、指についた脂を舐め取る。「まさか、このお話をするために私を呼んだわけじゃありませんよね?」
松実は頷き、次の串焼きを差し出す。
「ここに連れてきてほしい人物がいるの」
「ああ、それは出来ない」太白は顔を顰めて首をふる。「私も、貴女がたが〈四方草掻〉を終えられるまでは外に出られなのです。それに、これが最後の機会ですからね……。余分な仕事を請け負う余裕がないというのが、正直なところでして……」
「最後の機会?」松実は首をかしげた。
「串焼きがもらえませんね」太白は苦笑して壁に寄りかかる。「まあ、良いでしょう。一之間ではお預けを食らいましてね。そこにあるのに食べられない、という状況はどうにも堪えましたから……。偶然でしょうが、貴女がこれを取り引きの材料に選んでくれたのは大変ありがたいことだった。そのお礼としてお話ししましょう。漱人氏は今年限りで〈四方草掻〉をやめるおつもりなのですよ。ええ、確かなことです。私は〈四方草掻〉が執り行われる夜、母屋に飾られる蠍の像を見に行くことが楽しみの一つだったのですが、今年はそれがなかった。飾られる場所はいつも同じでしたからね、おや、おかしいな、と思って、偶々通りがかった下働きを捕まえて聞いてみたら、蠍の姿があまりにも真に迫っていて恐ろしいという苦情が何件もあったので、今年から飾らないことにしたという。そんなわけはない。以前、住み込みで働いていた女中と寝た時、あの蠍の像は自分よりもずっと高い値がつくと言っていたのです。悪戯をされるのを恐れて仕舞っておくというのならまだしも、忌々しいもののように扱って、人目から遠ざけるだなんてあり得ない」
太白は人さし指を上に向けて、くるりと円を描くように動かした。
「一度疑えば、そこら中に痕跡がありました。客に悟られないように、何とか隠そうとしていたみたいですけれどね。居住空間に本や財産類がない、大きな家具をどかしたような床の変色がある、物陰を覗けば畳まれた段ボールがある……」太白は顎をつまみ、上目遣いで松実を見る。「そこまで準備を進めておきながら、客には何も知らせずに、いつもどおり〈四方草掻〉を執り行おうとしている。これは何かあるな、と思いましたよ」
「それで、漱人さんを脅迫したのね」
「いやいや、そんな物騒なことは……」太白は白い歯を見せて両手を広げた。「ただ、我々は、何と言いますか、彼らの弱味を握っておりますので、それを表沙汰にしない代わりに、重箱の中身が欲しいと言っただけです」
「嘘ばっかり」松実はくすっと笑みをこぼす。「わたし、これでも一応、妖に縁のある家に嫁いでおりますのよ。貴方にそんな力がないことはわかります。ひと晩、人間の男に化けて遊ぶだけで精一杯なのでしょう? その立場でどうして、東杢比野家の秘密を暴露するだなんて大それたことが出来るのかしら。わたし達の社会って、それほど単純には出来ておりませんわ。むしろ……、貴方、ほっとしているのではなくて? 漱人さんは、家財道具を処分してどこかへ逃げるおつもりでいらっしゃる。この土地を、貴方がたの生息地を去るのです。秘密が露見することを恐れて、貴方がたを一族郎党皆殺しにするわけではない。そうでしょう?」
太白は黙っている。
握った片手を口もとに当て、松実を見つめる顔にはもう笑みはなかった。
「この重箱に入っているのが、貴方がたにとってのご馳走だなんて全然想像しなかった」松実は重箱を見下ろして微笑む。「漱人さんは、それと勘付かせるようなことも、ひと言もおっしゃらなかったわ。お若いのにしっかりしていらっしゃるのね」
「その重箱と引き換えに、貴女に洗いざらいお話ししても良い」太白が呟くように言う。「人間にとっては使い道があるのでは?」
「知りたがる人もいるでしょうね。でも、わたしは興味がありません」松実は首をふる。「漱人さんも貴方がたも、こぞって捨てようとしているものに、どうして価値を感じられましょうか。わたしが欲しいと言っているものは、ずっと一貫しています」
「私は酬笄館から出られない。しかし、万が一の事態に備えて、配下の者を潜ませております」
「では、その方を使ってください」松実は事もなげに言った。「探す手間は省けるのではないかしら。きっと心配して、近くまで来ているはずよ。必要なら、わたしが手がかりを提供出来ます」
「それは助かりますが、私と違い、人間に化けるのが少々不得手でして、ご期待に添えるかどうか……」
「あら、それは残念」松実は片手で口もとを隠して、ほほほと笑う。「きっと見破られてしまうわね。彼、目が良いの。貴方のことだって、ええ、このくらいの近さで見れば、すぐに人間ではないと気づくはず。それを頭に入れて指示をお出しになってね。上手くいけば、貴方もお土産を一つ多く手に入れることが出来るかもしれないわ」
太白は腕を組み、松実を睨む。
「何か筋書きがあるのなら、教えてもらえませんかね」
「そうね、まだ、詰めの甘いところばかりですけれど……」松実は瞬き、一度視線を畳に落としてから天井を見上げる。「わたしは三之間で幻覚を見る。そこにいるはずのない人物と遭遇して、彼に襲われると思い込んでしまうの。とにかく必死に抵抗して、結果的には、返り討ちにしてしまうのね。これも〈試し〉の一つだろうと思って、鉦が鳴るのを待つのだけれど、キヨドコロへ進む時間になっても彼の死体は消えない。わたしは取り乱して、それを引きずって先へ進む。東杢比野家の方が介抱してくださるかもしれませんけれど、わたしはすっかり錯乱していて、まともな受け答えも出来ない。もちろん、貴方に手引きさせたことなんて話さないわ」
松実はかすかに唇を噛む。
「うーん、駄目……、やっぱり、あと一歩ね。もう少し巧妙にしないと、あの子は食いつかないかもしれない。それは、これから考えないと……」
そう言うと、松実はにっこりと笑みを浮かべて、残りの串焼きを布巾ごと太白に差し出した。
「では、その間に、貴方はここに並んでいる酒瓶を全部割って、鍵を取り出してくださる?」




