第2話 怠惰な天才は布団の中にいる
翌朝、俺は予定通りに動いた。
世界が終わった翌日にまで予定通りも何もないが、そうでもしないと、頭の中まで終わりそうだった。昨夜のうちに書いたメモを見て、水、食料、工具、その順に優先順位をつける。まず水だ。だが水だけでは暮らせない。雨風を防ぐ場所も、そのうち必要になる。さらに言えば、電気も物流も死んだ世界では、最終的にものを言うのは、備蓄より設備だ。缶詰は一つ開ければ一つ減る。けれど、バケツや樋は、つないでしまえば雨のたびに働く。世界が終わって一晩、俺はそんな貧乏くさいことばかり考えていた。
で、その設備の材料がいちばん揃っていそうなのが、駅前から少し離れたホームセンターだった。
開店時間を待つ必要はない。世界に営業時間はもうない。俺は折りたたみの台車を一つ引いて、朝の冷えた道を歩いた。空は昨日より白っぽかった。晴れているのに、どこか機嫌の悪い色をしている。風も乾ききっていて、季節感が一枚剥がれていた。
途中、手押しポンプのある公園へ寄った。幸い、水は出た。濁りも今のところ少ない。飲用にするなら煮沸か濾過が要る。そこで俺は、今日の回収品目に「浄水用品」と「大型容器」を加えた。
こういう時、希望とか友情とかを優先する人間はきっと天国へ行ったんだろう。地上に残った俺にあるのは、チェックリストだけだった。
*
ホームセンターの自動ドアは、案の定、半開きで死んでいた。
中は薄暗く、昨夜のうちに人が入った形跡はあるが、荒らされ方は中途半端だった。食料品コーナーの乾パンやカップ麺は減っていたが、工具、配管、園芸、木材、寝具、そのあたりはほとんど無傷だった。世の中は案外わかりやすい。腹が減った時、人はまず明日の家より今日の菓子を取る。
俺は入口近くの平台車を三台見つけて、ロープで連結した。われながら卑しい発想だと思う。だが、こういう卑しさは生存率に直結する。悪徳のなかにも実用性の高いものと低いものがあるなら、〈貪欲〉は相当に優秀な部類だ。せめてそう信じたい。
最初に回ったのは工具売場だった。ハンマー、釘、のこぎり、手斧、ロープ、ブルーシート、軍手、ポリタンク、バケツ、浄水用のフィルター材に使えそうな活性炭、塩ビパイプ、ジョイント類。目につくものを片端から台車に載せていく。独身会社員の慎ましい買い物ではない。文明の死体から、次の暮らしを剥ぎ取る作業だった。
園芸コーナーでは種子も回収した。トマト、豆、芋類、葉物。正直、今すぐ畑を作る予定はない。ただ、いずれ必要になる。種は軽い。軽くて未来に化ける。投資対象としては悪くない。
そんなふうに、上機嫌で略奪――いや、戦略的回収を進めていた時だった。
違和感のあるものを見つけた。
*
展示用テントの一角に、「生活感」がある。
ホームセンターという場所には、客をその気にさせるための擬似空間がある。ウッドデッキ風の売場とか、庭のある暮らしコーナーとか、家族でキャンプを楽しもう、みたいな胡散臭い展示だ。そのうちの一つ、ベージュの大型テントの入り口に、スリッパが揃えて置かれていた。
世界が終わった翌日に、だ。
俺はとっさに周囲を見た。気配はない。息をひそめて近づき、手斧を握り直す。布の隙間から覗くと、中には驚くほど完成度の高い「部屋」があった。
折りたたみベッドの上にマットレスが二枚、その上に敷きパッド、さらに羽毛布団。電池式ランタンが三つ。周囲にはスナック菓子、ペットボトル、ティッシュ、携帯扇風機、抱き枕まである。ひどく快適そうだった。避難生活というより、文明が四畳半に濃縮されている。
で、その文明の真ん中で、女が寝ていた。
だぼだぼの灰色の上下。髪はぼさぼさ。寝袋に半分埋まって、顔だけ出している。大学生にも見えるし、無職にも見える。どう見ても無職だろうなと、起こす前から思った。
右手の甲が見えていた。
〈怠惰〉
なるほど、と俺は静かに納得した。
「……おい」
返事なし。
「おい、起きろ」
「……んー……」
顔を布団に埋めたまま、死にかけた小動物みたいな声を出す。
「世界終わってるぞ」
「……知ってる……」
「じゃあ起きろ」
「……終わったなら、なおさら寝かせて……」
たしかに理屈としては一貫している。だが感心している場合じゃない。俺はテントのポールを軽く蹴った。がしゃんとランタンが揺れて、女はようやく片目を開けた。
その目は、眠いのとは少し違った。なぜ自分は目を開けているのか、まだ納得していない顔だった。俺を見る。俺の持つ手斧を見る。台車を見る。そして欠伸をした。
「……強盗?」
「違う。先にここを見つけた回収業者だ」
「もっと悪いじゃん」
「寝床ごと全部持っていく前に確認してやってる。親切だろ」
女はのろのろと上半身を起こした。年は俺と同じか少し下くらいだろう。顔立ちは悪くないが、およそ鏡を見ることに興味がないタイプだ。手の甲の〈怠惰〉が、朝の薄い光の中でやけに似合っていた。
「……何時」
「知らん。スマホが死んでる」
「じゃあまだ朝ってことにしよう……」
そう言ってまた横になろうとしたので、俺は布団の端を掴んで引いた。
「待て。寝るな。状況確認だ」
「労基に訴えるよ……」
「神様が先に店じまいした」
「……あー……そっか」
そこでやっと、女は少しだけ真顔になった。ぼんやりした視線のまま、自分の手の甲を見て、肩をすくめる。
「起きたらこれあったし。石碑も見た。落ちたんだなって。まあ、でしょうねって感じ」
「悔しくないのか」
「悔しいっていうか、だるい。天国なら永遠にゴロゴロできたかもしれないのに」
本気でそう思っているらしかった。悲壮感がない。開き直りというより、最初から期待していなかった人間の口ぶりだった。
「名前は」
「ナギ」
「一人か」
「今のところ。そっちは?」
「カイト」
それだけ言って、俺はテントの中を見回した。菓子の空袋はあるが、散らかっているようでいて、不自然なほど整っている。必要なものが全部、寝たまま手の届く位置に置かれていた。水、灯り、非常食、道具、毛布。布団の横には簡易テーブルまで組んである。
テントの奥に、場違いなものがあった。
*
園芸用のラックに塩ビパイプが組まれ、その下にバケツ、砂利、砂、活性炭、布が順番に重ねてある。さらに上部には雨樋みたいな受け皿がついていて、昨夜の雨でも集めたのか、ポリタンクに水が半分ほど溜まっていた。
俺は思わず近寄った。
「……これ、お前が作ったのか」
「ん」
「浄水装置?」
「簡易の。完璧じゃないけど、煮沸すればいける。水道止まってたし、喉乾いたから」
「喉乾いたから、で作るレベルじゃないだろ」
ナギは布団に座ったまま、面倒くさそうに頭を掻いた。
「だって、作ったほうが早いし。売場の部品で足りたから」
「何者だよ」
「元・工学部。中退。以後、実家で長期休暇」
「長期どころか永眠寸前じゃねえか」
「そこを目指してた」
冗談みたいな口調だったが、装置は冗談じゃなかった。接続も雑に見えて要点を外していない。寝床の快適さも異常だ。必要なものを見抜いて、最小限の労力で最大限の快適さに変える。その一点だけで言えば、侮れない。
そのとき俺は、ひどく下品なことを考えた。使える、と思ったのだ。人に向かって使えるも何もないが、水と屋根のことを考えると、そういう勘定だけはやけに早かった。
こういう人材を一人で寝かせておくのは損失だ。労働力という意味じゃなく、もっと広い意味での損失。水、住居、設備、衛生。人間が快適に生きるための基盤を作れる奴は、この世界じゃ食料と同じくらい価値がある。俺は寄付には一円も惜しんだくせに、こういうところでは判断が早い。価値があるとわかれば、手放す理由がない。
「ナギ」
「やだ」
「まだ何も言ってない」
「働けって言うんでしょ」
「半分当たりだ」
「却下」
「最後まで聞け」
*
台車はうるさく、ナギはその横でうるさく文句を言い、俺は少しだけ安心していた。そういう安心の仕方は、たぶんあまり立派ではない。
俺はしゃがんで、浄水装置を指で軽く叩いた。
「俺は今、拠点を作るつもりでいる。食料の在庫を管理して、水源を押さえて、雨風を凌げる場所を確保する。いずれは畑も必要になる。つまり、インフラだ」
「言い方が嫌」
「だが必要だ」
「必要なのはわかる。めんどい」
「お前の技術が要る」
「やだ」
「報酬を出す」
「……何」
その一瞬だけ、目が開いた。
俺は確信した。釣れた。
「寝床の保証だ」
「具体的に」
「最高級とは言わないが、この店にあるものの中で最上級の寝具を優先的に確保してやる。マットレス、毛布、枕、遮光、虫除け、できる限り全部だ」
「……ふむ」
「さらに、一日の労働時間は最小化する」
「何時間」
「必要な時だけ使う。常勤じゃない。要所だけだ」
「曖昧」
「じゃあ四時間」
「多い」
「三時間」
「二時間」
「ふざけるな。三時間半」
「刻むなあ……」
「その代わり、成果はきっちり出してもらう」
「成果主義きらい」
「でも快適な生活は好きだろ」
「大好き」
そこでナギははじめて、少しだけまともに俺を見た。眠そうな目の奥に、計算の色が出る。面白い。こいつもたぶん、俺と同じで、善意より条件のほうが話が早い人間だ。
「最終目標は?」とナギが言った。
「何が」
「交渉。ゴール設定しないとやる気出ない」
俺は少し考えてから言った。
「お前が一日中ベッドから出なくても、だいたい生活が回る環境を作る」
「…………」
「水がある。飯がある。雨風を防げる。寒くない。暑すぎない。必要な作業は極力減らす。お前は設計して、仕組みを作れ。俺は維持と配分をやる」
ナギは黙った。
さすがに虫が良すぎたかと思った時、そいつは布団を抱えたまま、ぼそっと言った。
「その計画、ちょっと好きかも」
「だろ」
「でも私、体力ないよ」
「見ればわかる」
「あと、やる気にもムラある」
「刻印見ればわかる」
「途中で寝るよ」
「使う時だけ起こす」
「最悪……」
「最高の寝具を用意してやる」
「……もうちょっと詳しく」
交渉成立の瞬間ってのは、たいてい感動的じゃない。握手も拍手もいらない。相手が条件を飲み、こちらが採算を確認する。それだけだ。だが、その無愛想な成立が、不思議と心強く感じられる時がある。
俺はテントの外にある平台車を指した。
「とりあえず今日、持てるだけ持ち出す。寝具も工具も、お前の装置もだ」
「装置は分解しないと」
「何分」
「十分」
「早いな」
「寝るためなら本気出すから」
*
そう言って、ナギはようやく布団から抜け出した。
立ち上がってみると、思ったより背が高い。だが、頼りない。風が吹いたら少し飛びそうなくらい薄い。こんな奴が、この完成度の浄水装置を、ホームセンターの部品だけで一晩で組んだのかと思うと、世の中の配分はやっぱり少しおかしい。
ナギは眠そうな��のまま、しかし手だけは驚くほど速く動かした。ジョイントを外し、パイプを長さ順に揃え、フィルター材を袋に詰め、必要な部品だけを手際よく選り分けていく。寝具の畳み方にすら無駄がない。怠け者というより、努力の方向を徹底的に限定している人間だった。
「なあ」と俺は言った。
「ん」
「なんでそんなもん作れるのに、今まで何もしなかった」
「疲れるから」
「終わりかよ」
「あと、人とやるのが無理。褒められるのも期待されるのもだるい。作ってもどうせ"すごーい、役立ててね"ってなるし」
「役立てろよ」
「いや」
「即答だな」
「でも、自分が楽になるなら作る」
潔い。ここまでくると、むしろ信用できた。
*
俺たちは昼前までに、相応の量を台車へ積み上げた。工具、寝具、浄水用品、タープ、ロープ、バケツ、簡易コンロ、園芸資材。食料も少し。さすがに一度では運び切れないが、まずは十分だ。
店を出る時、ナギが振り返って、自分の作った即席ベッドルームを一瞬だけ見た。
未練があるのかと思ったが、違ったらしい。
「次はもっと良くできる」と、独り言みたいに言った。
俺はその言葉を聞いて、少しだけ笑った。
世界が終わった翌日に、「次」を考えている。しかも、より快適な寝床の話だ。たいした女だと思う。本人は褒め言葉だと思わないだろうが。
*
坂道を下りながら、ナギはすでに文句を言い始めていた。
「重い」
「まだ始まったばかりだ」
「契約違反では」
「労働時間に運搬は含まれない」
「ブラック……」
「最高の羽毛布団」
「うう……」
ちょろい、と言うと失礼だが、扱い方は見えた。
握手も拍手もない。条件が噛み合って、それで終わり。
だが、その素っ気なさが、かえって確かだった。
ホームセンターを背に、台車ががたがた鳴る。空は昨日より少し曇っていた。風の向きも安定しない。世界そのものが、どこへ傾くか決めかねているみたいだった。
その不安定な空の下で、俺は新しく手に入れた戦力を横目で見た。だぼだぼの服、眠そうな目、最低限の返事、最悪の勤労意欲。だが、こいつがいれば、たぶん水回りと住環境は一段上へ行ける。
つまり、俺の生活が良くなる。
結局そこに戻るあたり、やっぱり俺は〈貪欲〉なんだろう。
それでいい、とその時は思った。
善人で落ちるより、悪徳を使いこなして生き延びるほうが、よほど理にかなっている。
*
ナギが欠伸まじりに言った。
「ねえカイト」
「何だ」
「その交渉、あとで書面にして」
「なんでだよ」
「口約束って信用できないし」
「〈怠惰〉のくせにそういうとこは細かいな」
「怠けるためには、先に制度設計が要るの」
名言なのか駄言なのか判断に困ることを言う。
俺は呆れながら、少しだけ感心していた。
この世界で最初に組む相手が、寝たまま文明を再建しようとしてる女になるとは思わなかった。だが、悪くない。一人で在庫表を睨んでいた昨夜よりは、ずっとましだった。
〈貪欲〉と〈怠惰〉。
神様が聞いたら頭を抱える組み合わせが、ホームセンターの園芸コーナーで成立した。




