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第1話 昨日、世界は合格発表だったらしい

 世界が終わった朝ってのは、もっと派手なものだと思っていた。


 地震とか、火の雨とか、空いっぱいのラッパとか、そういう、いかにも終末らしい景気のいい演出があるものだと思っていた。

 少なくとも、安アパートの薄いカーテン越しの朝日に目を細めて、寝不足の会社員みたいな顔で起きるものじゃないはずだった。


 なのに、俺は普通に目を覚ました。


 いや、普通じゃない。静かすぎた。


 隣の部屋の目覚ましも鳴っていない。上の階のバカみたいに重い足音もしない。通りの車の音も、コンビニの搬入トラックも、遠くの救急車もない。

 耳が詰まったみたいな静けさだった。

 時計の秒針だけが、妙に場違いな顔をして、こつ、こつ、と鳴っていた。


 嫌な感じがして、枕元のスマホを掴んだ。


 圏外。


 Wi-Fiも死んでる。ニュースは開かない。メッセージは当然ゼロ。充電は三十一パーセント。

 こういう時、頼りになるのは人間関係じゃなくてバッテリーだ。そこだけは昔からよく知っていた。


 テレビをつけたら砂嵐だった。

 水道は、蛇口をひねると一度だけ咳みたいな音を出して、それきり黙った。

 冷蔵庫だけがぶうんと低く唸っていたが、その音も、長くは保たない気がした。


 窓を開ける。


 路上に車が何台か、中途半端な向きで止まっていた。事故ってほどでもない。運転してた奴が、途中で急に車を捨てて消えた、そんな置き方だった。

 向かいのマンションには洗濯物が干されたまま揺れている。


 晴れているのに、世界全体が留守みたいだった。


 俺は顔も拭かずに、財布とエコバッグを掴んで外へ出た。


 こういう時に真っ先にコンビニへ向かうあたり、我ながら夢がないと思う。

 でも正直、世界が終わったかもしれない朝に、感傷なんて腹の足しにならない。まず水と食い物だ。泣くのは在庫を見てからで十分だろ。


  *


 徒歩三分のコンビニは、自動ドアが半分開いたまま止まっていた。


 薄暗い店内に入ると、レジに店員はいない。品出し中のカゴが途中で放り出されたままになっている。

 棚は半分空だった。水、パン、カップ麺、乾電池、そのへんだけが綺麗に減っている。夜のうちに、勘のいい奴らがもう漁った後らしい。


 俺は舌打ちした。出遅れた。


 レジはつかない。ATMも黒い画面のまま沈黙している。

 俺はそこではじめて、少しだけ笑いそうになった。笑える話じゃないのに、笑いそうになった。

 あれほど大事にしていた数字が、たった一晩で置物だ。口座残高も積立NISAも、世界が一歩ずれた途端、ただの記録に成り下がる。


 皮肉としては上出来だった。


 俺は手近な缶詰とビスケットを袋に詰めた。

 盗みかどうかは微妙だ。払う相手がいないなら、取引は成立しない。そういう理屈をすぐ立てるあたり、たぶん俺はもう駄目なんだろう。


  *


 店を出て、商店街を抜けたところで、人を見た。


 電柱にもたれて座り込んでる女だった。

 泣いてるのか、笑ってるのかわからない顔で、自分の右手を見つめている。その手の甲に、焼き印みたいな文字が浮かんでいた。

 遠目にも読めた。


 〈嫉妬〉


 俺は足を止めた。向こうもこっちを見た。

 目が合った瞬間、女は反射みたいに手を隠した。


 俺も、なぜか自分の右手を見た。

 そこにはまだ何もない。少なくとも、その時の俺はそう思った。


  *


 大通りへ出た時、ようやく、世界のほうから説明に来た。


 道路の真ん中に石碑が立っていた。


 昨日まで絶対になかった。そんなもん、見落とすはずがない。灰色の一枚岩をそのままぶち込んだみたいな、ふてぶてしい石碑だった。

 周りには何人か立っていたが、誰も近づかない。近づいたら、認めることになるからだろう。


 俺もそうだった。


 でも見ないわけにはいかなかった。


 石碑には、金色の文字が刻まれていた。


『最後の審判は終了しました。合格者は天の国へ召されました。残留者は各自の刻印を確認してください。――管理局』


 しばらく意味が入ってこなかった。


 管理局、って何だよ。


 世界の終わりにまで、お役所みたいな名前を出してくるな。審判なら審判で、もっとこう、神々しくやれよ。合格者とか残留者とか、まるで試験の結果発表じゃないか。

 こっちは人生ごと落第させられてるのに、言い方が妙に事務的で、それがかえって腹立たしかった。


 背後で誰かが短く悲鳴をあげた。


 俺は釣られて右手を見た。


 刻まれていた。


 火傷の跡みたいに皮膚がわずかに盛り上がり、金属を押し付けたみたいな色で、たった二文字。


 〈貪欲〉


「……は?」


 声に出た。


 違うだろ、と最初に思った。

 いや、違わないのかもしれない。違わないのかもしれないが、よりによって〈貪欲〉はないだろう、と、俺はそんなところでまだ言葉づかいに腹を立てていた。

 罪そのものより呼び名にむきになるあたり、もう充分に見苦しい。


 俺は別に、人の金を盗ったことはない。詐欺も横領もしてない。税金だって払ってた。遅れたことはあっても、払ってはいた。


 ただ、寄付は嫌いだった。コスパが悪いからだ。

 募金箱に小銭を入れるぐらいなら、その金を投資に回したほうが未来の自分を助けられる。会社のボランティア活動も断った。休日を潰して他人の役に立つなんて、損失でしかない。

 同僚の送別会も、義理の香典も、被災地支援も、だいたい全部、計算した。


 老後資金のシミュレーション表を毎晩見直して、必要額が増えた減ったで一喜一憂していた。

 趣味のオーディオ機器にだけは、妙に気前よく金を使った。自分の耳は裏切らないからだ。


 悪いことはしていない。少なくとも、ニュースに名前の出るような真似はしていない。

 そういう言い方をした時点で、もう怪しいのだが、それでも俺はずっと、その程度の無罪を握って生きてきた。


 でも、石碑は俺の自己申告なんか聞いちゃいない。

 お前は〈貪欲〉だ、と、それだけで片づけた。


  *


 周りを見た。


 男が一人、自分の手の〈臆病〉を見てしゃがみこんでいた。別の中年女は〈虚栄〉の文字を爪で引っかいていた。スーツ姿の男の手には〈傲慢〉。

 泣いてる奴、笑ってる奴、呆然としてる奴。


 全員、不合格者だった。


 天国行きの切符をもらえなかった連中が、道路の真ん中で自分の不採用通知を読まされてる。


 地獄っていうより、最悪の合格発表だった。


 しかも性格の悪いことに、落ちた理由まで手の甲に貼りつけられてる。隠しようもない。取り繕いようもない。

 たぶんこれから先、誰かと出会ったら、名前より先にそれを見られる。


 ――お前は何で落ちた?


 その問いを、もう誰も誤魔化せない。


  *


 俺は石碑から目を逸らして、元来た道を戻った。


 帰る途中も何人か見たが、誰も声をかけてこなかった。俺もかけなかった。

 助け合いだの励まし合いだの、そういう温かい反応が自然に出てくるほど、みんなできた人間じゃないんだろう。手の甲がそれを証明してる。


 むしろ変に人間臭くなくて、そこだけは公平だった。


 部屋に戻ると、俺はすぐに在庫確認を始めた。


 米、残り二キロ弱。パスタ一袋。レトルト三。缶詰六。水六本。卵六個。ベーコン一。冷凍食品いくつか。カセットコンロはある。ガスボンベは三本。


 ノートを開いて消費ペースを書き出す。

 一日二食に落とせば十四日。かなり締めれば十七日。

 水道は死んでるから、水の確保が先だ。近くの公園の手押しポンプを確認する必要がある。電気が落ちる前に、冷凍庫のものから片づけたほうがいい。


 計算しているうちに、少しだけ落ち着いた。


 笑える。天国に行けなかったショックより先に、食料の棚卸しで平静を取り戻している。

 俺という人間は、本当にどうしようもなく俺だった。


  *


 夕方、窓の外の空を見た。


 赤い。けど、普通の夕焼けじゃない。

 色が濁っていた。薄い膜を一枚剥がしたみたいに、空気がむき出しで、ざらついて見える。初夏のくせに、風も変に冷たい。


 世界をうまく回していた何かが、昨夜まとめて撤収した。

 そんな感じのする空だった。


 俺は右手の甲を見た。


 〈貪欲〉


 見れば見るほど腹が立つくせに、見覚えがありすぎて反論できない。


 お前は自分のためにしか蓄えなかった、と言われて、完全に違うとまでは言えない。

 俺はただ、将来が怖かっただけだ。貧乏も老後も病気も、人に頼るしかない状況も、全部嫌だった。だから貯めた。人付き合いを切って、善意を節約して、自分の安心だけを積み上げた。


 それが不合格の理由だというなら、ずいぶん趣味の悪い審判だ。


 ノートの端に、明日の予定を書いた。


 一、水の確保。

 二、近隣店舗の物資回収。

 三、運搬手段の確保。

 四、当面、一人で生きる前提で動く。


 そこまで書いて、少し考えてから、四を線で消した。


 一人で生きる前提、は違うな。


 利用できるものは全部使う。人間も含めて。


 書いたあとで気分が悪くなったが、だからといって線を引いて消すほど、俺は善人でもなかった。

 そう書き直した。気分は悪かったが、正直ではあった。


  *


 遠くで何かが倒れる音がした。


 世界は終わったのに、後始末だけは山ほど残っているらしい。

 天国に行った連中はいまごろ拍手で迎えられてるのかもしれないが、こっちは留年した生徒みたいに地上へ残されて、しかも補習の時間割まで自分で組まなきゃならない。


 最悪だ。


 けど、最悪だからって、死ぬほど落ち込む気にもなれなかった。

 どうせ落ちたんなら、もうやることは決まってる。残ったもんを数えて、足りないもんを取りに行って、使える奴がいたら使う。それだけだ。


 ――まあいい。とりあえず、俺の食い扶持は俺が確保する。それだけだ。


 右手の甲の〈貪欲〉が、夕陽の中で鈍く光った。

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