透明人間として扱ってこられた私が公爵様に気に入られた途端、周りが慌て始めたのですが。
昔、透明になってしまった人の物語を見た事がある。
その物語の主人公は悪さをした末に神様から罰を受けて体を消されてしまっていたけれど、そんな彼の事を『まるで私みたいね』と私は思った。
ローナ・グリフィス。それが私の名前。
けれど家でその名を呼ばれる事はまずない。
グリフィス伯爵家には且つて、現在の伯爵夫人とは違う女性が籍を入れていた。
私の母だ。
母は現伯爵である父と政略的な結婚をし、そこに愛はなかったようだ。
母は上位貴族の女性としての品格や義務を重んじる方だった。一方の父は感情的になりやすく、厳格さを嫌う方だったので、折り合いも悪かったようだ。
母が病に倒れてからも、父は見舞い一つにすら顔を出さず……逆に外出が増えた。
あとから考えれば彼は後の継母――浮気相手の元へ足を運んでいたのだろう。
母は私の教育に関しても手は抜かず、厳しい方だったけれど晩年にはそれを悔いているような姿が多々見られた。
「ごめんなさいね、ローナ」
不器用な人だったと思う。自分にも厳しい人だったから、甘やかす事と律する事を同時に行う術を持てなかったのだろう。
けれど言動の端々に見え隠れする愛情を私は確かに感じていた。だからこそ私もまた母を愛していた。
「貴女を守ってあげたかったのに」
母は私の頬を撫でながら目を潤ませた。
何度も謝罪をする母は、自分がいなくなった未来で私がどんな目に遭うのかを悟っていたのだと思う。
ただこの頃の私は何も知らない少女だったので、ただ母を慰めなくてはと笑っていた。
「大じょうぶです、おかあさま。わたしも、おかあさまみたいに、つよい人になりますから!」
それを聞いた母は堪えていた涙を溢れさせる。
私はその顔をハンカチで拭ってあげたのだった。
母が亡くなってすぐに、家には新しい母とその娘――義母と義妹がやってきた。
それからすぐに、私は父の命令によって部屋を義妹へ渡し、離れの物置小屋へと押しやられる。
父は母によく似た容姿の私を嫌い、元々心を通わせていた義母とその娘である義妹を寵愛するようになったのだ。
本邸には父からの呼び出しがあった時しか入れず、使用人達との接触も禁止。
私が命を落とせば厄介な事になる事が明白であるからという理由と、上位貴族と婚約を取りつけられれば家から追い出せる上に政界での我が家の地位を確立できるという考えから、生かされているに過ぎなかった。
食事は使用人が食べるものにも劣る程質素なものではあったが三食、扉の前に置かれた。
あまりに痩せ細っていると、怪しまれたり貰い手がなくなる恐れがあるからなのだろう。
使用人が直接私へ渡さなかったのは、きっと父の命令。
元から彼の判断だったのか、義母や義妹の意図が汲まれたものだったのかはわからないが、私の味方が万が一にもできないようにと徹底されたものだったのだろう。
貴族として最低限の教養を積ませるべく、稀に本邸に呼び出されて家庭教師から学ぶことはあったが、義家族も使用人も、すれ違う際に一言挨拶を交わすどころか私と目すら合わせようとはしなかった。
学園へ通う年齢になっても私は倉庫へ閉じ込められたまま。
その一年後は学園の制服に身を包んで家を出る妹を遠目に見る事しかできなかった。
そうして、まるで透明にでもなった様な生活を人生の半分以上送った頃。
私は手紙で結婚相手が決まったと明かされた。
ゴドフリー・ソーンヒル侯爵。
虐待を疑われない為の工作基、私を独身の貴族と引き合わせて結婚の話へ漕ぎ着けるべく参加させられた夜会で、彼は私を気に入ったのだとか。
既に齢四十を超えた、非常に肉付きがよくふくよかな男性。
彼の傲慢で横暴な性格は社交界でも噂の的となっていた。
そもそもボロを出さない為、夜会では殆ど口を閉ざしていた私を一目で気に入ったなどというものがまともな訳もない。
結婚した先でも、私はろくでもない未来を歩むだろう事くらいはすぐに理解できた。
(……潮時ね)
無関心ならば耐えられた。生きていくのに困りもしなかった。
しかしきっと、この先は無事では済まない。
そう悟った私は、母の後を追う事に決めた。
深夜。私はグリフィス伯爵邸を抜け出し、とある教会へ赴いた。
亡くなった母が埋葬された墓を最期に見ておこうと思ったのだ。
墓石の前で手を組み、深い謝罪をする。
そうしてから私は母の墓を綺麗にしてその場を去った。
(どうやって死のうかしら)
そう考えた私が夜道をふらふらと歩いていると、馬車の走る音と、こちらへ近づく大きな影に気付く。
そして私は、「ああ、今この瞬間に轢かれるのも良いかもな」と思ったのだ。
相手からすれば迷惑極まりない話なのですが、自分の死に方なんて考えるのは非常に疲れますし、ここで他者を巻き込む形で自死すれば、もしかしたら父や義家族の私に対する扱いが浮き彫りになり、彼らが罰せられる未来があるかもしれないとも思った。
生きる事に疲れてはいたが、今の家族への嫌悪が消えたわけではなかったのだ。
そう判断して私は馬車へ飛び出した。
しかし――残念ながら暗闇では馬車との距離感を正確に推し量る事が難しく。
私は早くに飛び出し過ぎてしまったようだった。
馬車は慌てて急停車し、私の前で完全に動きを止めてしまった。
自らの失敗を悔やんだのも束の間。
馬車から一人の青年が下りて来る。
「何事だ」
御者にそう問うた彼だが、馬車の前で座り込む私を見てすぐに事態を察したのだろう。
紫に光る冷たい瞳を私に向けた。
黒髪に紫の瞳。
精巧な顔立ちでありながらも、愛想を微塵も感じさせない冷ややかな面持ち。
私は彼を知っていた。
ウォーレス・エイヴォリー公爵。
社交界でも指折りの有名人の青年だ。
「馬車の前に立ちふさがる事が罪に問われる夜だ。自身の失態を充分に理解しろ」
ウォーレス様は、私が馬車の前に座る理由を偶然の産物と考えたらしい。
忠告はするが罰する事はしないという判断を下したようだ。
今鉢合わせたのが暴君の様な貴族だったのであればこの場で処分でもしてくれたかもしれないが、馬車を停めたくらいで得られる罰と言えば精々鞭打ち位のものだし、明らかに理性的な彼へ過激な罰を求めたとしても望んだ結果にはならないだろう。
「申し訳ありませんでした」
残念に思いながらも別の方法を考えようと、考えを切り替えた私は立ち上がり、道の脇に逸れる。
もしかしたらがっかりしている事が顔に出ていたのかもしれない。
ウォーレス様は怪訝そうな顔で私を見ていた。
そして私を観察していた彼はふと、目を見張り、息を呑み――
「ローナ・グリフィス……?」
――私の名を呼んだ。
私は耳を疑う。
何故彼が私などの名を把握しているのだろう。そう思った。
確かに何度か同じ夜会に出席はしている。
しかし彼とは挨拶を交わす以外に接点などなかったし、私は夜会では目立たないよう息を潜めていた。
そんな人間の事を、何故。
そう思った私の困惑を汲むこともなく、彼は何かを考えるように顎を撫でる。
それから、自身の馬車を顎で示した。
「乗れ。公爵家の馬車を停めたんだ。何故ここにいるのかくらい説明をくれたっていいだろう」
私は動き出した馬車に揺られながら窓の外を見る。
馬車はグリフィス伯爵邸とは異なる方角へ進む……となれば、目的地はこの馬車の所有者の家だろう。
「……あの」
「真夜中の路地で突っ立っていようが他人の家に上がり込もうが大した差ではないだろう。それから……」
私の言わんとした事を悟ったウォーレス様が言葉を遮る。
「――今すぐに命を絶とうが、先に秘密を吐こうがな」
やはり私の目的には気付いていたようだ。
その上で、暗に事情を話せと促してくる。
けれど彼の言う通り、私が何を話そうが、どうせ死ぬならば何の問題にもなりはしない。
ならば彼に打ち明け、相手の様子を窺うのもいいだろう。
もしかしたら彼の良心や正義感が私の家族を罰してくれるかもしれない。
……いや、今も仏頂面を保ち、ぶっきらぼうに言葉を投げる彼に限ってそんな事はないような気もするが。
とにかく、私は素直に自分の事情を明かすことにした。
ウォーレス様は私の話に静かに耳を傾けていたが、私が受けて来た冷遇の詳細が明らかになっていくと、流石に目を見開き、驚きの表情を見せた。
「あの家で貴女がまともな扱いを受けていないとは踏んでいたが、まさかそんな事が」
平民の家でも信じられないような扱い。それを決して低くはない地位を持つ貴族が行っている。
その事に彼は驚いたようだ。
そんな彼の様子を見ていた私はふと、ある疑問を抱く。
「踏んでいた?」
ウォーレス様は以前から私を認知していたかのような物言いをした。
その事を聞き返せば、彼は頷きを返す。
「ああ。家族と共に夜会へ参加した時の貴女の様子や貴女と接する時の家族の振る舞い……それらを見ていればある程度は察することが出来るだろう」
「いいえ、そうではなく。……何故、私のような何もない娘の事などを覚えてくださっているのかと」
先程も抱いた疑問を投げかける。
するとウォーレス様は薄く笑みを浮かべた。
「何故だと思う?」
わからないから問うたというのに、彼はあろう事か私に聞き返して来た。
しかしそれは裏を返せば、明白な理由があるという事。
私は考えを巡らせる。
そして一つの結論へ至った。
「政敵だからですか。我が家が」
ウォーレス様は答えなかった。
けれど代わりに深められた笑みが正解を物語っている。
そう。我が家グリフィス伯爵家とエイヴォリー公爵家は政界での派閥が異なる。
我が国は丁度今、第一王子と第二王子が王太子の座を奪い合っている最中である。
グリフィス伯爵家は第一王子派であり、尚且つ爵位はまずまずながらその派閥の中でも大きな発言力を有していた。
一方のエイヴォリー公爵家は第二王子派――それも、ウォーレス様は第二王子の学生時代のご学友に当たる。
家柄と個人的な関係性。その二つを鑑みても、エイヴォリー公爵家の影響力は第二王子派の中で最たるものであると言えるだろう。
そのような対立関係にあるからこそ、ウォーレス様は我が家の者達を意識していたのだろう。
「さて。今すぐにでも命を捨てそうな貴女を試させてもらおう」
ウォーレス様はそう言うと目を細める。
挑発的な眼差しだった。
「ここに、若くして家を継いだばかりに婚約者を決め損ねた公爵がいる。一体どのような婚約相手が向いているだろうか」
彼の言いたい事、そして求めている事を私は完全に理解した。
故に返答を躊躇う。
『正解』を返した後、私の未来はどうなるのだろうかと考えたのだ。
もし、彼のお眼鏡に適った事であの家を出ることが出来たのなら。
……私はまだ生きていたって良いと思えるのだろうか。
そんな期待が僅かに生まれていた。
私は意を決して答える。
「そのお相手、私に頂けませんか」
「ほう。国で指折りの大貴族との結婚は確かに、自身を冷遇する家から出るきっかけとしては充分だな。目立った悪癖の噂もないという点も安心材料とはなり得る。確かに貴女にとって私のような人間は都合がいいだろう。では問うが……貴女を選ぶことで、私にはどのような利益が得られるのだろうか。家でいないものとして扱われているような少女に利用価値があるとは到底思えんな」
つらつらと白々しい嘘を。と私は思った。
彼はそれが見えているからこそ、私へ話を振ったのだ。
私は彼の瞳を見つめ返しながら微笑む。
「誰もが私を見ようとしない。そんな立場だからこそ出来る事もございましょう。……グリフィス伯爵家の内部の情報を抜き取り、横流しする事くらいならば容易いかと」
顎を撫でていたウォーレス様の手が口元を隠す。
その下には意地の悪そうな笑みが湛えられていた。
「良いだろう。交渉成立だ。私は貴女の家を中心に第一王子派の貴族の地位を奪い取る。貴女は家を出て公爵夫人という高い地位を得る。これで問題ないな」
「ええ」
ウォーレス様に手を差し出され、私はそれを受ける。
「では改めて。よろしく頼む、ローナ・グリフィス嬢」
「こちらこそ。ウォーレス・エイヴォリー様」
こうして私達の協力関係は成立した。
***
ある日の昼下がり。
私はグリフィス伯爵邸の本邸へ足を踏み入れた。
元よりいない扱いを受けている私。これまで、父からの呼び出しがある時のみここへ訪れていた私が勝手に本邸を歩き回っていようと不審がる使用人もいなかった。
皆勝手に『ああ、旦那様がお呼びしたのだな』と考えていた事だろう。
勿論この行動を誰かへ漏らすこともしない。
この家の者にとって、私は『いないもの』なのだから。
私が警戒すべきは家族の動向だけだった。
父や義母妹がいない機会を窺い、執務室や三人の部屋などを調べる。
また、家族が揃っている部屋の壁に聞き耳を立て、その内容を確認するなどもした。
バレたらどうしようなどという恐れは今更ない。
元々捨てようとした命だ。例え私の行いに勘付かれ、今より酷い仕打ちを受けようとも耐え切れないと思えば命を絶てばいいだけの話である。
故に私は迷いなく、積極的に情報収集を行った。
そして一週間が経った頃。
グリフィス伯爵邸にウォーレス様が訪れた。
突然の訪問はマナー違反だが、一伯爵が公爵へ文句を言う事も追い払う事も出来やしない。
父はウォーレス様を応接室へ案内した。
そして用件を聞いた事だろう。
そこで彼は言う『ローナ嬢と婚約させて欲しいのだが』と。
父は大層驚いたはずだ。
何故ならば私と彼に接点などはなかったはず。おまけに愛しい娘(私の義妹)ならまだしも、一切目を掛けていない方の娘に縁談などと、と。
更にウォーレス様は言う。
『ところでローナ嬢は一体どちらにいらっしゃるのだろうか。是非彼女にも同席して欲しい』と。
そして父は大慌てで私を本邸へ呼びつけ、また使用人達に華やかな装いをさせるよう指示を出した。
こうして着飾った私は父とウォーレス様の前に姿を見せる。
「ご機嫌よう、ウォーレス」
「ああ、久しいなローナ」
互いを呼び捨てで呼び合い、これ見よがしに親しさをアピールする。
これは事前に二人で打ち合わせした通りの動きだ。
「今、貴女との縁談についてお父君に提案しているところでね」
「まぁ、嬉しいですわ。きっとお父様も喜んでくれることでしょう。だってお父様、私をお家から追い出したくて仕方がなかったと思いますから」
「ッ、お前!」
父は顔を赤くして私を睨んだ。
私は首を窄めながらウォーレス様の隣に座る。
「まあまあ、グリフィス伯爵。お二人の不仲については私も小耳にはさんでいますが、それに関してこちらからとやかく言うつもりはありません。私はただ、愛する人と共にいられればそれでよいのです」
愛する人? 馬車であのように私を試したお人がそんな事を仰るなんて。
そんな笑いが込み上げそうになるのを私は懸命に堪えた。
「ですからどうか、今噂されている侯爵ではなく、私を彼女の婚約者に選んで欲しいのです」
「まぁ、ウォーレス様。どうか婚約だなんてもったいぶらないで。私は今すぐにでも結婚していただきたいのに」
『結婚』。
この言葉を聞いた途端、ウォーレス様の顔色が変わる。
彼は僅かに目を瞬かせたあと、妖しい笑みを浮かべた。
そして口の動きだけで私にこっそりとこう言う。
『よくやった』
これは、私達の間で取り決めていた合図だ。
要は――『全て、事が上手く運んだ』という意味。
これの有無によって、私達のこの先の行動は変わる事になっていた。
「まさかローナがそこまで私との結婚を真剣に考えてくれているなんて思ってもいなかったな。……グリフィス伯爵、どうだろうか。婚約と言わず、どうか彼女を今すぐに嫁にくれないか」
「な……い、今すぐ……!?」
とんだ馬鹿げた茶番だ。
婚約もしていない相手と今すぐ籍を入れようなど――それも政敵の家の者と。
気が触れたと思われても仕方ない。
もうこの頃には私は笑いを堪えるのが大変で、唇を噛んで俯いてしまう。
するとそんな私の笑いを誤魔化すようにウォーレス様が私の肩を抱き寄せ、顔を隠してくれた。
「確かに私達は支持する相手が異なる立場だ。だが、何も互いの家で対立する必要はない。そうだろう?」
グリフィス伯爵家とエイヴォリー公爵家が衝突することで立場が危ぶまれるのは勿論グリフィス伯爵家だ。
いくら政界で影響力を持つとはいえ、爵位による上下の差は埋められない。
しかし血の繋がりを持つことが出来れば、双方の関係は同盟としても機能する。
グリフィス伯爵家がエイヴォリー公爵家に攻撃される未来は防げるという訳だ。
父の顔色を窺うに、ウォーレス様の提案に乗る方向に考えが傾いているようであった。
だが。
「か、畏まりました、エイヴォリー公爵閣下。しかしですな、公爵ともあろうお方にお勧めするには、ローナは聊か不出来過ぎまして。もしよろしければ、もう一人の愛娘を――」
その時だ。
バタン! と応接室の扉が開け放たれる。
そうして中へ飛び込んで来たのは私の義妹ヨランダだ。
「ウォーレス様!」
彼女は猫なで声でウォーレス様へ近づく。
「私、ヨランダ・グリフィスと申します。ローナお義姉様の妹です。私……ずっとウォーレス様の事を遠目から見てお慕いしておりましたの。どうか、私を選んでくださりませんかぁ?」
どうやら彼女はウォーレス様の訪問の話を聞いて応接室前まで駆け付け、聞き耳を立てていたようであった。
遅れて義母も駆け付け、この場には私とウォーレス様、そして家族が集う形となった。
父が笑顔で言う。
「ヨランダもこう言っております。いかがでしょうか? 我が自慢の愛娘を是非結婚相手に――」
「……自慢? 愛娘?」
低い声が部屋に響く。
そのあまりにも冷たい声に父もヨランダも震え上がった。
「これがか?」
ウォーレス様はヨランダを睨みながら鼻で笑う。
「立場の差もわきまえず、異性となれば所かまわず媚を売る尻軽。おまけに客人の会話を盗み聞く無礼で浅はかな人間。ローナより質の良いドレスとアクセサリーで着飾っておきながら彼女に見劣りする品性がその顔立ちからも滲み出ている。ローナとは比べ物にもならない――こんな奴を私に押し付けようと?」
ヨランダは言葉を失う。
カッと顔を赤くし、羞恥から目に涙を溜めて震える事しかできずにいた。
「なぁ、グリフィス伯爵。もう一度問うが――」
「ヒッ」
「ローナとの婚姻に承諾してくれるのか? しないのか? 一体どちらだ?」
さて、ウォーレス様の凄みに完全に怯え切った父は勿論その場で頷きを返した。
それからその日の内に私達は籍を入れに行く。
ヨランダは大きな声で泣きじゃくり、使用人へものを投げたり殴ったりと八つ当たりをする始末。
そんな彼女を宥める義母は視線だけで殺すつもりかというくらい鋭い目つきで私を睨んでいた。
そんな二人を置いて私や父、そしてウォーレス様は婚姻届と契約書に署名をする。
こうして晴れて、私はグリフィス伯爵家の者ではなくなった。
その日の内にエイヴォリー公爵邸へ引っ越そうというウォーレス様の提案も承諾され、私は荷物を纏める為に自分の居住区である倉庫へ戻る。
勿論ウォーレス様には本邸のエントランスでお待ちいただく。
私が倉庫に閉じ込められていた証拠を父たちは見せたくなかったのだろう。
父に命じられ、私は一人で荷物を纏めたが……そもそも持ち出す程のものが殆どない。
生活必需品などは全てウォーレス様が用意してくれるようだったので、私は数少ない母の形見を持ち、それから――部屋の隅に隠していた山のような紙束を持って倉庫を離れた。
「お待たせしました。ウォーレス」
「ああ、おかえり。……なんだ、随分と大荷物だな」
「ええ」
紙の山を抱える私を見て家族は怪訝そうな顔をしている。
それを横目に、私はウォーレス様へ紙の山を渡した。
ウォーレス様はそれを受け取ってから父たちへ一礼する。
「此度は突然の訪問失礼した」
「い、いいえ」
「これで失礼する」
ウォーレス様が玄関扉を潜り、私もその隣を歩く。
そして玄関扉が閉まる直前。
「ところで、ローナ。具体的にどんな情報を仕入れてくれたんだ?」
「ええ、上から順に私の虐待に関する記述、そして他の第一王子派の上位貴族から横流しされた国家機密情報、あとは家族単位での隣国の者との密会と機密情報の横流しに関する発言のメモ、それと……」
「な……ッ!?」
「ヒッ」
「おい、その馬鹿を止めろ!!」
ギィ、と扉が軋む音に負けない大きな声が聞こえた。
それから、バタバタと忙しない足音が複数、私達へ近づいて来る。
ウォーレス様が私を見て口角をつり上げる。
私もまた、つられるように不敵な笑みを浮かべた。
「走るぞ、ローナ嬢」
「っ、はい!」
あまりにも愉快爽快な結末。
私達は声を上げながら笑い、後方からものすごい形相で追って来る家族達から逃げ出した。
そして何とか馬車に飛び乗り、グリフィス伯爵家を飛び出してから――
――私達は顔を見合わせ、また一層大きな声で笑ったのだった。
「よくやった、ローナ嬢。あとの事は任せて欲しい」
充分過ぎる情報量の紙束に目を落としていたウォーレス様が顔を上げる。
私がかき集めた情報を基に、ウォーレス様が第二王子殿下に掛け合い、グリフィス伯爵家、そして情報漏洩やその他悪事を働いた第一王子派の貴族達へ調査隊を派遣させるとの事だ。
これにより私の家を含めた殆どの関係者の家が政界から名を消し、その分第二王子が優位に立つはずだ。
私は一息吐く。
漸く緊張の糸が解け……同時に私は思い出し笑いをしてしまう。
「なんだ?」
「いえ。ウォーレス様が父の前で心にもない事を並べたものですから。愛してるだのなんだの」
「まあ、柄ではないだろうな」
「んっ、ふふ」
くすくすと笑う私の声を聞きながらウォーレス様は肩を竦める。
「だが利害関係とはいえ、わが家に引き込んだからには、こちらとて努力はする。……幸い、貴女は充分に愉快な女性だ。私を楽しませてくれるという点では好感を持てる」
紫の瞳が私を映す。
そこには柔らかな光が宿っていた。
「まだ死を望むか?」
私は目を瞬かせる。
そういえば、と思った。
私は元々いつ死んでも良いと思っているはずだった。
しかし彼と一世一代の悪だくみを決行し、笑い合っている内、そんな考えは完全に消え失せていたのだ。
「……いいえ」
「そうか」
整った顔が優しい微笑を浮かべた。
じわじわと顔が熱くなる。
「なら精々自分らしく生きてくれ。どうせもう二度と――そう思う日は来ないだろうからな」
『生きてくれ』。
誰かに生を望まれる言葉を受けたのは初めてだった。
どんな顔をすればいいのかわからずに困り果ててしまう。
するとウォーレス様がくつくつと喉で笑った。
「なんだ、悪だくみをしている時も、私を説得する時も常に冷静だったくせに」
鼓動が高鳴る。
そんな私をよそに、ウォーレス様は私の頬に手を伸ばす。
「そんな様子では、努力する間もなくなりそうだ」
「っ、か……勘弁してください…………っ」
ただでさえ他者からの愛情不慣れな私は、ウォーレス様の距離感に耐え切れず、目をかたく瞑る。
そこへ、触れられていない方の頬に柔らかな感触を感じたものだから、私の脳は完全に停止してしまった。
「ヒ、○×△◇※★~~~ッ!?!?!?」
「ッ、ハハハッ! これからよろしく頼む。……我が愛しの妻?」
私は声にならない声を上げながら目を回して卒倒するのだった。
こうして透明人間だった私はローナ・エイヴォリーという名と、私を決して見逃しはしないだろう旦那様、そして――
――人としての幸せを手に入れたのだった。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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それでは、またご縁がありましたらどこかで!




