小学生編・第2話 「母の味噌汁と涙」
教室での一日が終わり、ランドセルを背負って帰る途中、しゅんは何度も後ろを振り返った。
誰かにつけられているような、夢の中を歩いているような、不思議な感覚が続いていた。
頭の中で何度も浮かぶのは、今朝見えた【〇】【×】の選択肢だ。
選んだのはただの「元気に挨拶する」という些細なこと。それだけで、周りのクラスメイトが笑顔を向け、休み時間に声をかけてくれる人が増えた。
以前の人生では、同じように教室に入っても、誰にも気づかれず、自分も誰とも話さずに座っていた。それが当たり前だった。
(やっぱり、この力は本物だ……)
深呼吸して、しゅんは空を見上げた。小さな雲がいくつも浮かび、風に流されている。
胸の奥から、今まで味わったことのない高揚感が湧き上がってきた。
これからは、人生のすべてをやり直せる。正解を選び続ければ、母に、家族に、もっと幸せを見せられる。
足早に家の玄関を開けると、台所からカタカタと包丁の音が響いていた。
「おかえりー。手洗いうがいしてね」
母の声だ。
思わずしゅんは、その背中をじっと見つめた。
細くて、少し猫背で、それでもどこか凛としている。
彼が二十代の頃に病気で亡くなったはずの、その母が、今は目の前で野菜を刻んでいる。
「……ただいま」
思わず声が震えた。
「どうしたの? なんか変ね、声が」
母が振り返り、不思議そうな顔をする。
いつもより笑顔が優しく見えたのは、きっと久しぶりにこの姿を見たからだろう。
「な、なんでもない」
洗面所で手を洗いながら、しゅんは鏡の前で深呼吸した。
まだ涙が出そうになる。何十年も前に見たはずの光景なのに、なぜか懐かしくて、胸が痛い。
居間に戻ると、ちゃぶ台にご飯が並べられていた。
白いご飯、味噌汁、サバの味噌煮、きんぴらごぼう、卵焼き。それは、かつて母が毎朝作ってくれた献立とまったく同じだった。
「今日は仕事、早く終わったの?」
「うん、少しね。しゅんも、ちゃんと勉強頑張ってる?」
「うん……」
母はにっこり笑って、お椀に味噌汁をよそってくれる。
それを受け取ったしゅんは、手を合わせて「いただきます」と言った。
レンゲで味噌汁をすくい、口に運ぶ。
昆布と鰹だしの香りがふわっと鼻に抜け、優しい塩気が舌に広がった。
「あ……」
思わず声が漏れる。
母は首を傾げた。「どうしたの?」
「おいしい……。すっごく、おいしい」
それは、もう何年も味わえなかった味だ。
便利なインスタント食品や外食の味とは、まるで違う。
温かくて、ほっとして、胸がいっぱいになる。
涙が、一粒、味噌汁の中に落ちた。
母が目を丸くする。
「……しゅん?」
「ごめん……。なんか、すごく懐かしくて」
母は困ったように笑いながらも、「もう、変な子ね」と言って、彼の頭を撫でた。
その手が、また懐かしくて、心がほどけていく。
(もう一度、この温もりを守りたい。母さんを、家族を……)
母に隠れてこっそり涙を拭うと、しゅんはちゃぶ台の向こう側に座る弟を見た。
弟はまだ幼稚園児で、小さな手でおかずをつまんでいる。
そうだ。家族はみんな、まだここにいる。これからなら、何でもできる。
食事を終えると、母が食器を片付ける間、しゅんはランドセルからノートを取り出した。
まだ小さな手で、震えながら一行書き込む。
「やり直し開始。正解を選び続ける」
これから先の人生、もう二度と後悔しないように。
この小さなちゃぶ台から、未来を変える戦いが始まるのだ。
しゅんは深く息を吸い込み、ノートを閉じて立ち上がった。
——人生二周目、ここからが本番だ。