あれが過ぎると申します 面
引戸を開けると、薄暗い北向きの部屋の窓際に古びた大きな木の机があって、その机に向って家人が肘掛も背凭も無い粗末な腰掛に引懸るように座っている。こちらからは俯いている頸筋や肩、背中が見える。
何をしているのだろうか?
近付きかけた途端に、はっと振向き、
「いけません」と片手を衝立にして拒むと、机上に広げてあった、何やら大きな画集のようなものを、ばたんと閉じた。
「これは怖ろしいものです。臆病なあなたにはお見せするわけにまいりません」
引締った表情でぴしゃりと極付けられた。
大いに面食らったが、そう言われてしまったからにはすごすごと引下るより外に法は無い。
普段から心中含むところのものが、改めてむくむく脹れ上がるようにも思われたが、そっと戸を閉めて自分の書斎に引込んだ。
翌日、家人が外出したすきに、北向きの部屋に入ってみた。
古机の上には、あの時のものと思しき、大きな書物が置いてある。縦が一尺半にやや足らぬかその位、横は一尺ほどで、表は樺色の布張となっている。厚みは一寸ばかり、或いはそれに少し満たぬやも知れぬ。
「これは怖ろしいものです。臆病なあなたにお見せするわけにはいきません」
あの時、そう言い放った、きっぱりとした声の調子と顔付とをありありと思い出した。
窓の、表面に少しく歪みのある硝子を通して自然光が机上に射込む。昨日もそうだったが、もう初夏だというのに寒々とした光――
その初夏の昼過ぎにしては乏しい薄明りが、樺色の表紙に青い闇を伴いつつ纏綿する。
そこには題辞も含めて何も記されてはおらず、ただ粗い布目のみが整然と並んでいる。
机の厚い天板。その上にずしりと勿体ぶって鎮まった様子に、何だか狷介なる禅坊主に対しているかのような、畏怖にも似た厭な逡巡を覚えた。
そのまま部屋を出て行こうかとも思ったが、臆病だと侮られていることが、何とも口惜しい。
家人ばかりでなく、無想無念たる書物にまで――
厭忌を催す胸の裡とは裏腹に、却って挑むような心持で机に近付き、腰掛に尻を宛がうと、徐に表紙に手を伸ばした。
触れて、はっとなる。何やらじっとりと湿っているような――
濡れている?
触覚としてはまずそのように感ぜられた。思わず、手を引いて指先を改めてみる。しかるに、特段水分の痕跡が認められるわけでもない。
一体どうしたものだろうか?
もう一度、触れてみる。やはり、そこはかとない湿潤の気が伝わってくる。
どうも厭な感じがしてならないが、思い切って表紙を開いた。
表紙の裏紙は漆黒。
恐る恐る更にめくると、能楽の面がずらりと並んでいる。次の頁も、又その先もずっと。
一つの頁を縦に二列、横三段に分割し、都合六つの能面の写真が載っており、それぞれの脇には小さな文字で、面の名称と簡単な説明とが記されている。
一番初めの見開きは、女面である。いかにも能という芸能にふさわしい、似たような顔付が左右あわせて十二面、揃って並んでいる。
小面、深井、增女、泣增、小姬、若女、孫次郞、松風、村雨、万媚などと名付けられた、一見すると似ているようで、よくよく見るとどこか違う雰囲気の顔、顔、顔――
いずれも正面を向いており、それら瞳の部分は、無論、穴の開いた空洞ではある筈なのだけれども、じっと眺めていると、何やらこちらとあちらとで目が合うような心持にもなる。
こちらの心の裡までをも、閑かに見透かされているようにも思われる。その数と無言による威圧は、決して良い心持ではない。
ただ、それでもあの時、「臆病なあなたなんぞにお見せするわけにはいきません」と家人から脅されたほどのものには思われなかった。
しかし、なぜこのようなものがここにあるのだろうか? 家人に能楽の趣味があったとは全く知らない。
それに、昨日はあれほど見てはならぬと拒絶しておきながら、今日は無防備にもこの本をほったらかしにして外出してしまう料簡にも合点が行かぬ。
ひょっとすると、家人は敢てこれを机上に放置して、むしろこちらをおびき寄せんと企図したのではないか――ふと、そんな疑念も起った。
初めの見開きにある十二の女面を、一つ一つその印象を比べながら眺めつつ、つらつら考えごとを巡らしていると、がらりと玄関の格子戸が開いた音がした。
家人が戻ってきたに違いない。こうしてはいられない。
慌てて本を閉じ、元のとおりに慎重に置き直すと、そっと部屋を出て書斎に逃げ込んだ。
その夜。
漆黒の空間――
暫くして、そこに何やら白い楕円が浮び上がる。
女の顔――
よくよく見ればそれは能面で、恐らくは、最も一般的な小面であろうかと思われる。
刹那、光だか表情だかが意味ありげに閃いたと思ったら、忽ち一筋の罅。
眉間から鼻梁を通り顎にかけて、縦に一筋の罅が走ったのである。
はっとすると同時に、ぱんと衝撃のような振動が四囲の空気に生じた。亀裂はみるみる顔中に広がり、白い面は粉々に砕けて雲散霧消。
後にはどこまでも深い漆黒の闇。
その闇がこちらの様子を窺っている――
そう思ったところで、どうしようもない怖ろしさに駆られた。喉から意図しない声が叫びとなってわき上がる。
いや、叫ぼうとしても全身が凝り固まったように身動きが取れない。
声も出ない。
自らに内在する力によって我と我身とが縛られている。体の芯から震えが起こる。
殊に、顎や膝ががくがくと震え、喉の奥から絞り出てくる、獸じみたうなり声。
その「聲」が声帯から舌先を吹抜ける乱気流となって、がたがた震え続ける口腔から跳び出していく――
うなされている己のうめき声を自ら聞いて、はっと夢から覚めた。
まだ夜は明けぬらしい。
ただ、幸いなことに、明け方近くの薄明かりがほんの少しばかり感じられる。
ふと、襖を隔てて隣の部屋で寝ている家人のことが気になった。あんなに大きな声を出したのだから、起こしてしまったに違いない。そう思ったのだが、隣は鎮り返っている。
しかるに、その閑けさは無防備な熟睡を示していない。閑けさには明らかに意思がある。そうして、こちらの気配を執念深く窺っている気がする。
その日も、十時過ぎ頃になると、家人は何も言わずに普段著の上に余所行きの羽織を著て出掛けて行った。
表の格子戸越しに、洋傘を差して歩いていく影が消えたあと、堂島の下駄の音が聞こえなくなるまで息をひそめて見送った。もうよかろう、昨日と同様に北向きの部屋に入った。
操られているように、何の疑いも躊躇もなく、机の前に腰を下し、表紙を開く。最初の見開きに現れる女面の数々。
それを見て、はたと朝方の夢を思い出す。
そうだ。今朝は、うなされて目が覚めたのだった。
あれほど怖ろしい夢だったというのに、不思議なことに、この写真集を開くまでそのことをすっかり忘れていた。
そんな経緯もあって、似たような女面の飽和には厭悪を感じ、その先の頁へと進んでいく。
翁、尉、中將、喝食、俊寛、姥、般若、瘦男、武惡、猩猩、白藏主、賢德、空吹などなど。
仮名が振られていなければ、何と読む名かも判らないものが少なくない。これらが能や狂言において、老若男女、人間は勿論のこと、人ならぬ獸、虫、鬼、怨霊、精霊、神仏までを表すと言う。
見ていて気付いたのは、般若などの面からは、思いのほか、それほど怖ろし気な印象が伝わってこないということである。殊に、鬼や天狗を表すとされる、赤鬼、黑鬼、癋見、顰などからは、むしろユーモラスな善性すら感じられる。
しかるに、そうして頁を繰り続けていくうちに、途中から少し様子が変じてきた。
それまでの頁では、今でも現役として使われているような、きれいな面が並んでいたものが、だんだんと朽ちたような古い面へと変って行ったのである。今では到底人が被らぬような、塗も剥げ、罅や欠けなどで傷んだ面が顕れてきた。
この本では、時代を遡る形で新しい面から順に古いものへと掲載されているのだろうか。
それら古い面からは、新しい面よりもはるかに、位や格からにじみ出る威圧のような、一種の佇まいが強く顕れ出ているように感じられた。何かを訴え掛ける強い情緒のようなものも伝わってきた。
掲載の写真はいずれも着色されてはおらず、白黒ばかりなのだが、古い面には、本来の色合いまでもがありありと映り込んでいるように見えた。
歳月を経た什器には、霊性が宿ると言われるが、これらの面からもまさにそのような、形而上的な気と言おうか、念と言おうか、そうした面の意思のようなものが伝わってくるようで、それにまともに相対しようとすると、どうも、臆するような、敬しつつも避けたいような、忌々しさを覚えた。
かかる古い面の一つに、白式尉と書かれた翁の面がある。
本来は一面に白い塗料が塗られていたのだろうが、歳月の経過ですっかり剥がれている。名とは裏腹に、全体の色合いはむしろ黒々としているのである。
ただ、幾重にも刻み彫られた皺の奧にはまだ白い塗料がしっかりと残っており、凹凸の並びがだんだら模様になっている。それも、本来は光が当たって明るい筈の、皺の峰の方が黒、蔭になっている筈の谷が明色の白という、あべこべの配合になったことで、何やら写真の陰画を見せられたような感があり、何とも怪しげである。
小飛出なる面は、しゃくれた顎、無理に見張ってせり出した金色の目玉、上唇の両端を吊り上げ、下唇はへの字に歪めて開いた口、黒ずんだ歯、赤黒い舌という、見るからに何とも厭らしい表情であるが、それはもとより、塗料がまだらに剥げているさまが、皮膚病のはたけなどを思わせて痛々しい。
鼓惡尉という面にも目を引付けられた。
まず、眉根を寄せた表情もそうだが、妙に小さな耳が尋常な位置よりもかなり上の方、こめかみ辺りに付いているのが奇異である。肌の色は汚く黄ばんだような灰色、口の中は赤黒く、歯も黒ずんで汚らしい。口の周りは、髭として植え付けられた、何の毛であろうか、棕櫚の繊維のようなものが、すっかり古びてあちこち擦り切れたり抜け落ちたりしている。
目を剥き、鼻を広げて威嚇するような顔付なのだが、惨憺たる己の落魄れ具合を恨む、ひねたような気分が伝わってくる。
近江女という面を見た時には、思わず「うわ」と声を出さずにはいられなかった。
これも、目の周り、鼻やあごの先など、あちこち塗料が剥げて木の地肌が覗いているのだが、特に、左の額から頰にかけて大きく剥がれた部分には、面を作る際、全体に色を塗る前に書き込んだものであろう、墨の文字が露出している。何と書いてあるのか、ちょっと読めないが、経文のようにも見える。
小泉八雲による耳無芳一の怪談話が髣髴され、何とも気味が悪い。
更に先に繰って行くと、面の表と裏の対比の写真が出てきた。頁の右の列に面の表側、左の列に裏側の写真が載っている。
面の裏側には漆でも塗るのであろうか、いずれも黒々としている。目の穴や、鼻や口の位置は分るものの、最早人の顔ではなく、何とも厭な怖ろしさを覚える。
これは何だろうと考えていて、やはり写真の陰画を見せられた感じかと思った。
或いは――
或いは、焼けて黒焦げになった屍の顔と言った方が適当な気もする。
そう気付いた途端にぎょっとして、又思わず声を上げてしまった。
その先の頁に進むと、見開き一杯に面の裏側の、黒々とした写真ばかりがずらりと出てきて、何枚も同様の頁が続いている。
まさに、黒焼きになった屍の顔ばかりが――
何とも言われぬ忌諱の念が催して来る。それにしても、能役者はこの屍じみたものに自らの顔を宛がうのである。現世と冥境との交接こそ世阿彌の能の真面目とされるが、それにしても、生ける演者と死せる面と、生死が顔と顔とを突合わせて舞っているのだと考えたら、慄然と怖気を振るう感があった。
これ以上は眺めていられない。
「これは怖ろしいものです。臆病なあなたなんぞに見せるわけにはいきません」と家人がひどく脅したその真意はこれだったのかと、ようやく合点が行く気がした。
ばたりと本を閉じる。
その刹那――
突然、後ろの戸がばんと開いた。びくっと全身の筋肉が収斂する。
「何をしているのです」
家人の声がつけつけと問いただす。
声の方角に恐る恐る頭を回すと、部屋の入口の薄暗いところに立っている影。
家人に間違いないと思うが、表情がはっきりとしない。
表情どころか、目鼻立までもが一切判然としない。
ただ、小面のような輪郭に無辺際の闇が、ぽっかりと穴を穿っている。まるで、能面の漆黒の裏側を見ているようにも思われる。
その黒焦げになった屍のような闇が、ぴたりとこちらに意識を据えて、ひたひたと見つめている。
<了>