第1話 沈む日常
夜の都市は冷たく、ビル群を照らすネオンの光が無機質に路面を濡らしていた。
藤崎亮は、鉛のように重い足を引きずりながら、虚ろな瞳で歩く。
スーツは皺にまみれ、緩んだネクタイとすり減った靴底がその疲弊を物語っていた。
「……また終電を逃したか。」
耳に残るのは上司の罵声とタイピング音。
そして、『お前みたいな愚図は何をやらせてもダメだな』という冷徹な言葉。
積み重なる残業、破れそうな心。
モチベーションなんてものは、新卒時代に上司に連れまわされた飲み会で、生ぬるいビールと一緒に腹の底に沈んだきりお目にかかっていない。
共に耐えていた同期たちは、30歳までには転職をしたいと口々に言い出し、気づけば同期で最後の残留者となってしまっていた。
「ちょっとなんか買って帰るか」
この数年間で聴き馴染んだコンビニの入場音を聞き、ホットスナックを横目にまずおにぎり売り場に行くことがルーティンだ。
(そうだ、あの漫画の新刊、今日発売だったか)
雑誌売り場へと向かい、探していた新刊を見つける。
(この漫画も俺が新卒の時からだから、結構長い間連載してるんだな)
自分の社会人生活と照らし合わせて、なんだか少し切ない気持ちになりつつ手に取った。
ふと目の前のガラスに映る自分が見える。
そこには覇気を失い、目の下の隈だけが深く刻まれていた、見た目は40代後半ぐらいだろうか。
シャツの襟はくたびれており、少し黄ばんでいる。
清潔感という言葉とは縁遠く、自分が新入社員として描いていた30歳のイメージからはかけ離れてしまっていた。
人の糸が切れる時は一瞬で、ふとしたきっかけなのだと思う。
「何のために……生きているんだろうな。」
そこからの記憶は虚であまり覚えていない。
気づいた時には既に自宅アパートの目の前に着いており、街灯が細々と照らすおかげで微かに見える階段を登り自室へ向かう。
鍵を開けると、室内は散らかり、床には空のペットボトルや食べかけの弁当パックが転がっていた。
冷蔵庫はほぼ空で、残るのは賞味期限切れの豆腐だけ。
亮はジャージに着替え、缶ビールを無造作に開ける。
苦い炭酸が喉を焼き、一瞬だけ心が麻痺する。
天井の染みを見つめ、まぶたがゆっくりと閉じる。
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——ピンポンパンポーン♪
耳に届いたのは、いつもの構内放送のチャイム。
目を開くと、そこは最寄駅のホームだった。
そこにいつもの喧騒は無く、次の電車時刻を示す電光掲示板も動いていない。
冷たい空気が頬を刺し、スーツの隙間を容赦なく吹き抜けて、思わず身を強張らせてしまう。
遠くから聞こえる電車の車輪が軋む音——見慣れたはずの日常のような非日常。
突如、視界がぐにゃりと歪んだ。
色が滲み、音が遠のき、足元の感覚が消失する。
重力から解き放たれ、無限の深淵へと沈んでいく錯覚。
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「ようこそ、迷い子よ。」
その声は冷ややかでありながら、どこか人間味を含んでいた。
視界が徐々に晴れ、漆黒のローブを纏った男が立っていた。
「私の名前はアレクシス。」
脳内に響く声が亮を緊張させる。
「君は今、限界に立っている」
社会に消耗し、無価値な日々に沈んでいた心を鋭く突く。
「お前は……何者だ? ここは何なんだ?」
かすれた声が喉を震わせる。
「私は“導く者”。ここは、この世界とあちら側の狭間だ。」
「あちら側の....狭間....?」
「君の人生にきっかけあげよう。これを生かすも殺すも君次第だろう」
その言葉と同時に、胸の奥が熱を帯びた。
骨の髄を焼くような灼熱が駆け抜け、手のひらが青白い輝きを帯びる。
「あ゛ぁぁぁあ」
脳内に洪水のように流れ込む未知の言語と“理”の片鱗
——世界の根源、“魔力”の概念だった。
「覚えておけ。この力は道を拓くが——代償を必ず求める。」
その言葉は、呪いのように胸に刻まれた。
引き戻されるように現実世界が視界を侵食していく。
「——っは!」
目を覚ますと、そこは見慣れた自室の天井だった。
だが、心臓は激しく脈打ち、汗がシャツを重たく染み込ませていた。
「夢……だったのか?」
そう思い、視線を落とした瞬間——。
手のひらの上で、青白い光が螺旋を描いていた。
それは、現実が日常の殻を破り、非現実へと侵食を始めた証だった。