第76話 五日遅れのバレンタイン
第七十回全日本大学選手権大会が終わり、恭平が所属する南横浜大学サッカー部は、近隣の学校との練習試合に向けた特訓に励んでいた。
次期キャプテンへの引継ぎも済み、恭平たちサッカー部員は、新たに編成されたチームに早く慣れようとしている。四年生が引退してフォワードの人数が大幅に減った中、恭平は攻撃の起点として重要な役割を担うことになった。
小学生の頃からJリーガーを目指してサッカーに夢中になっていた恭平だったが、高校の三年間ではプロチームからのスカウトもなく、その夢は絶たれたようなものだった。それでもサッカーから離れきれない恭平は、南横浜大学への進学後もサッカーを続けていた。
五歳から始めたサッカーの技術はなかなかのものだが、それはあくまでアマチュアとしては優れているという程度に過ぎず、プロとして通用するレベルには到底かなわなかったということだ。さらに、部活にいそしんでいたために勉学の方はてんでダメで、いつも補習を受けていた。それは中学高校、そしてここに入ってからも変わらず、三年に進級できるのかさえ怪しい雰囲気が漂い始めている。
すこし前までは、和真がいたからそれでもよかった。互いに冗談を言い合いながらなんとか勉強もがんばり、毎年ギリギリではあったが、留年を免れながら生きてきた。
大学に入ってからは裕介という新しい友だちもでき、三人で過ごす大学生活を、和真もそれなりに楽しんでいたと、恭平は思い返す。
一方の和真は小学生の頃から漫画を描きはじめた。和真の周りにはいつもたくさんの男子児童がいて、早く和真の漫画が読みたくて待ちきれない者たちは、和真が登校してくると周囲を囲んで催促し、休み時間になれば少しだけ描き進んだ和真の漫画を取り合った。
その中でいつも一番に読ませてもらえるのは、幼なじみである恭平の特権であり、恭平の自慢だった。
いつだったか、誰よりも先に和真のサインをもらったことがあった。図工で使う画用紙に和真が自分で生み出したキャラクターを描き、そこに今思えばダサいサインを入れてくれたのだ。
あの時はそれが本当に嬉しく誇らしく、そのサイン入りの画用紙は、和真がいなくなった今でも、恭平の部屋に飾ってある。
それぞれの夢を語るとき、和真はいつも瞳をキラキラと輝かせ、恭平はそれを見ると、その夢は絶対に叶うと確信したものだ。
だが和真は、その夢に負けてしまった。
「恭平、いったぞ!」
はっと我に返り、仲間からパスされたボールを恭平が右足で受け取る。相手チームのディフェンダーは三人。他のポジションの部員たちも、急いで恭平を止めようと戻ってくる。恭平は猛スピードでドリブルをする。ディフェンダーは右、左、中央に分かれ、どの方向からでも跳ね返せるよう、声をかけあっている。すると恭平は、右に視線を固定させたまま、一旦山崎にボールを返した。
「恭平のマーク外すなよ!」
「進路塞げ!」
恭平にはセンターバックの杉野とサイドバックの土本がつき、ボールが渡らないよう厳重に警戒される。
恭平は前方がよく見えず、自分がうまく攻撃の中心になれないことに歯がゆさを感じるが、それでこそサッカーはおもしろいとも思えているのだ。
山崎がゆっくりとドリブルを開始する。恭平がディフェンダーを振り切って走り出す。
相手チームの陣地まで進むと、両チームほとんどの部員が戻って来て、ゴール前が混戦状態になる。そして山崎の左サイドからのパスを受け取った恭平は、シュートすると見せかけ、ディフェンダーに押されて倒れながらも西にパスをした。西のシュートは一度は防がれる。ボールは宙に浮き、まだ誰の手に渡るかもわからない中、恭平は立ち上がり、ディフェンダーから必死に逃れようとしていた。
西の二度目のシュートのこぼれ球を相手チームが拾い、恭平たちの赤チームは切迫した状況に陥ったが、青チームのゴール前にいた恭平が脅威の脚力でロングパスをカットし、再び攻め入る。
青チームの誰もが恭平がシュートするものとみて走ったが、実は恭平が最も得意とするのは、同じフォワード選手への、連絡なしのパスなのだ。
ベストな位置でボールをゲットした西。ゴールキーパーは、向かって右にジャンプしてシュートを封じようとしたが、予想に反して西が中央に放ったボールは、ネットを大きく揺らした。
「西~っ!」
山崎が西に全身で抱きついて得点を喜んでいる。西は恭平にハイタッチをし、次々に押し寄せる仲間と笑い合う。
「ナイスパス」
「ナイスシュート」
試合のその後は恭平も得点し、3-2で恭平たち赤チームが勝利した。
高校でも大学でも、常にスタメンの恭平だが、ずっとそれぞれの場所で頑張ろうと、そう誓い合った和真がいない今、趣味ともいえる状態でサッカーを続けるべきか否か、恭平は悩みはじめていた。
二月十九日、寒い一日だった。サッカーの練習が終わった恭平は、裕介に「帰りに会おう」と連絡を取り、校門付近のベンチに座って雑誌を読んでいた。
「あの、間中くん、ちょっといいかな」
声をかけられてそちらを見ると、いくつかの講義で顔を合わせたことのある女子学生が立っていた。
その女子のずいぶん後ろの方から、裕介がのんきにこちらに向かって歩いて来るが、恭平が女子と話しているのをみとめると、慌てて繁みに隠れようとしている。
「……え、と、ごめん誰だっけ?」
「ああ、そっか……私、渡辺美幸です。小説研究Aと家族論の講義で一緒の」
「あ、そう、だっけ。うん、どしたの?」
聞かなくてもなんとなくわかっていた。この空気は告白のあれだ。
恭平は小学生の頃から、サッカー部のエースというだけでかなりモテる。
高校二年の時、何度も告白してきた女子と一度だけ付き合ったことがあるが、結局彼女のことを好きなのかどうかもよくわからないまま、向こうから別れを告げられてしまった。
「あの、間中くん。よかったら、これ受け取ってほしいんだけど……」
差し出されたのは、デパ地下で売っているような箱入りのチョコレートだった。恭平はその包みを持ち上げると、なんだかおかしくて笑ってしまった。
「渡辺さん? バレンタインは過ぎちゃったけど、これってそういう意味のチョコレート?」
恭平が微笑んで見上げると、美幸は恥ずかしそうに肩をすくめながら答える。
「あああ、ごめんね。そういうイベントに合わせたくなかったって言うか、そうじゃなくてずっと前から間中くんのことを見てて、その……、好き、です……」
まっすぐに向けられる、無垢と言ってもいいまなざしから、雰囲気は決して悪くない子だと恭平は思った。だが、付き合うとなると話は別で、やはり無理だと感じてしまう。
「あのさ、俺がいつも一緒にいた友だちって見たことある? そんでそいつのこと憶えてる?」
恭平は座っている位置から少しずれてスペースを作り、そこに腰を下ろすよう美幸に促した。
「えっ? えぇと……、滝沢くん、だっけ?」
やや離れた隣に腰かけながら、美幸は裕介のことを思い浮かべているようだったが、恭平が聞きたかったのは和真のことだ。
「いや、そうじゃなくて、もうひとりいるんだ。俺たちの友だちはね……」
恭平が黙っていると、沈黙に耐え切れなくなった美幸は、辺りをきょろきょろと見回し始めた。そしてやや引きつった笑顔を見せて言う。
「わかった! もうひとりって、宮本くんでしょ? そういえば間中くん、最近宮本くんと一緒にいないんだね。宮本くん、学校来てないの?」
和真の顔を思い浮かべているのか、恭平の「友だち」を言い当てた美幸は、心なしか得意げな表情をしている。
恭平はわずかに目を見開き、そして息を止めた。
それを見た美幸は、自分は何か悪いことを言ったのかと慌てている様子だ。
たった二つの講義でしか和真を見かけることもない美幸が、それを知らないのは無理もなかった。だが恭平は、和真の存在はその程度だったのかと悲しくなった。
「あいつさぁ……、死んじゃったんだよ、去年の年末に。まったく、迷惑なやつだよな」
足元に視線を落として言う恭平に、美幸はただ「えっ……?」と問い返すことしかできなかった。
「俺と和真ってさ、まだ幼稚園に入る前、三歳の頃からの付き合いだったんだ」
ぼそっと、小さな声で語り始めた恭平に、美幸は自分の目的を忘れて耳を傾けた。
「家がすぐ近くだったから、お互いの家を行き来しながら毎日一緒に遊んでた。幼稚園でも小学校でも、中学になってからもね。それで、いつしかお互いの夢を語り合うようになってさ。俺はJリーガー……って、ダメダメだったんだけどね。で、和真は漫画家。すげえ上手かったんだよ、和真の漫画って、小学校の時から大人気だった。だから俺、こいつは本当にプロになれるかもって思ってたんだけど、それもダメでさ。長年ずっと、一緒にがんばって、泣いたり笑ったり、励まし合ったりして。だから俺ね、まだ和真のいない毎日が信じられなくて、なんていうか、戸惑ってる。もちろん裕介も大事な友だちだよ。でも、いまはっきりわかったよ。和真は俺の特別だったんだって」
「あ、あの、間中く……」
美幸は、『俺の特別』という言葉に、なんと答えればよいかわからずにオロオロするばかりだ。これはもしかしたら、間中くんがゲイだとカミングアウトしているのだろうか、と。
「渡辺さんは俺のどこが好きなのかな? サッカーやってるから? それとも、週に何度か一緒になる講義のとき、なんか俺のいいところを見つけたの?」
立て続けに質問され、美幸は混乱して泣きそうになっている。自分が告白したことで、恭平は和真を失った悲しみに耐え切れなくなってしまったのかもしれない。
「ご、ごめんなさい。私、何も知らなくて、あの……」
勇気を出して自分を好きだと言ってくれる、そんな女子の気持ちを思いやれないほど感情的になっている自分に、恭平はなにが起こっているのかと混乱した。
「いや、俺の方こそごめんね。渡辺さんの気持ちはすごく嬉しいんだけど、でも俺は、和真を置いて自分だけ幸せになるなんて考えられない。本当にごめん」
和真が死のうと決断したきっかけは、もしかしたら自分が作ったのかもしれないのだから。恭平はそれを美幸に言うことは出来なかったが、そのことはずっと心に引っかかっている。
「おーい、裕介―」
これで話は終わりだと言わんばかりの恭平に、美幸は振られる以前の問題だと苦笑する。相手にもされなった。だって間中くんの恋愛対象は女じゃないから。
色とりどりのポピーが植えられた花壇の後ろに、なんとか隠れているつもりらしい裕介に恭平が声をかけると、裕介は大げさに肩をびくっと震わせて驚いたとアピールした。
恭平は立ち上がり、美幸にチョコレートを返そうとしたが、美幸は両手を突っ張って首を振る。
「ううん、市販のものだし、よかったら滝沢くんと食べて。それでもいらなかったら捨ててもいいから」
「わかった。ごめんね、ありがとう」
「もういいよ、みじめになるから、何度もあやまらないで。私の方こそ、ありがとう間中くん。気持ちを伝えることができてよかった。それから宮本くんのこと、無神経に聞いてごめんなさい」
ぺこっと頭を下げ、美幸は本棟の方へ走り去った。途中で裕介とすれ違ったが、気まずそうに肩をすくめたのは裕介の方だった。
「いや、なんか俺、ホモだと思われたかも」
感情的になって美幸に和真のことを話してしまったと、恭平は少し後悔していた。
「だから俺が攻めだからな」
「ばーか、相手はお前じゃねえよ」
笑顔の裕介と合流した恭平は、その肩を抱いて目を細める。
「えーっ! じゃあ誰なんだよ」
肩に回された腕を振り払い、責めるような顔でふざける裕介に向けて微笑みながら、恭平は思う。
和真に会いたい。和真に会いたい。
自分の毎日には、和真がいて当たり前だったのだと、恭平は和真の面影を求めるように遠くを見た。