第60話 かりそめの家族
鍵穴に差し込んだキーを回すと、ドアの内側に何かが動く気配を感じ、ユイは微笑んだ。
ゆっくりドアを開けながら、少しずつ広くなる隙間の中に黄色い毛皮が見えるのを確認し、土っぽい匂いを吸い込む。沓脱に入って、きちんと脚を揃えてお座りをしているシャードネルの頭を撫でると、並んで室内にあがった。
「起こしちゃったかな?」
夜の間、おそらくシャードネルは元の家族を探して走りまわっているのだ。
安息の場所を失い、空腹と捨てられたのかもしれないという悲しさと怒りで、身も心も疲れ果てていたであろうシャードネルが窓から飛び込んできたのは二週間前のことだ。
シャードネルが来るようにってから、出窓の鍵はいつでも開けっ放しにしてある。ユイ、カズマ、四條の三人が出払っている時でも、そこから入って寛いでほしいという願いからだが、防犯上はあまり良くないことだと三人とも理解はしている。
鍵のかかっていない出窓から侵入するのは、シャードネルだけではないという危険性もあるからだ。だから、ユイが一人で帰宅することは極力避けるようにしようと、三人で話し合っていた。
「カズマよりあたしの方がきっと強いのにね」
シャードネルの目を覗きこんで言うと、ユイはくすくすと笑った。
この部屋に引っ越してきた日、おいしいフードの匂いにつられて、出窓から飛び込んできたシャードネル。
初めは警戒していたものの、もうすっかり馴染んで、ひのまるや雪風と身体を密着させて眠るまでになっていた。
特にカズマにはよく懐き、まるでカズマがガーディアンであるかのような振る舞いを見せることもある。
熱いタオルで汚れた身体を拭いたり、フードのバリエーションを増やしたりして世話をしているのは自分なのに、納得できないとユイは不満に思う。
おそらく元のガーディアンは、ヴェルト教団に洗脳され、シャードネルを手放してしまったのだろう。
大切な家族であるはずのモンスターを詐取されたとも知らず、別の棟で仲間たちと楽しく暮らしているという嘘を信じたまま、自分たちも修行に励んでいるに違いない。
ここにいることで、人間に対して懐疑的だったシャードネルの気持ちが少しは和らいだのなら、もういつでもこちらの準備は整っている。この家の子になって、三人のうち誰かのパートナーとして暮らしてほしいと、みんなで思っているのだ。
だが、シャードネルはいまだに「通い」としてここを利用している。この部屋で夜を明かしてくれたのも、数日前の一度きりだ。
ユイは、蒸しタオルでシャードネルの手足を綺麗にしてあげながら、それにはまだかかりそうだと溜め息をついた。
「うにゃにゃ」
「え? なにか気になる匂いする?」
金色に近い黄色の毛皮を持つその手をタオルで包んでいたら、急にシャードネルが近づいてきて、ユイの手や顔の匂いを熱心に嗅ぎはじめた。
サロンのバイトから帰ったからだと気づき、ユイは普段カズマや四條には決して見せない、やさしい顔でシャードネルに話しかける。
「わかる? いい匂いでしょう。今日はね、ピアリーシャのお手入れをしたの。十二にゃんの仲間の匂いがするのかな」
「にゃん」
そうだという返事の代わりに鳴いたシャードネルは、甘えるようにユイの手に何度も頭突きをする。
カズマがいなくてよかった。こんな仕草をしてくれたシャードネルを見たら、きっと強烈に喜んでうるさいか、喜びを表すのを我慢するあまり、かえっておかしな表情をしてシャードネルに不信感を抱かせてしまうか、どちらかだろうから。
キッチンに入ってフードボウルを確認すると、きれいに空になっていた。今はお腹いっぱいね、と判断したユイは、部屋着に着替えるために自室へと向かった。
異世界ヨコハマに詳しいJKという「設定」上、ユイが着るのはほとんどセーラー服だ。だが、それにもよそゆきと部屋着くらいは分かれており、部屋着として選んだセーラー服は、少し大きめで、ジャージーニットの室内でも動きやすい素材で作られている。
「はあー、お疲れさま、あたし」
大きく伸びをして、凝り固まった肩を揉みながらデスクにつくと、シャードネルもしなやかな身体を優雅に動かしながら部屋に入ってきた。
足元に来て、じっと見上げるシャードネルの顔を見て、ユイは嬉しくて微笑む。
約二週間前の出逢いの日を思いだすと、信じられないほど距離が縮まったと実感する。
シャードネルの美しい切れ長の瞳を見つめ返すと、そこに迷いは感じられなかった。
「カズマと四條さんが帰ってくるのは、夜になると思うわ。それまでいてくれる?」
「きゅうーん……」
しょんぼりと耳を垂らすシャードネル。やっぱり私だけじゃだめなのね、とユイが寂しい気持ちになると、シャードネルはそんなユイを励ますように鼻先をユイの手に押し付けた。
「ありがとう、シャードネル。じゃあふたりでお留守番しようね」
シャードネルはシャードネルで、カズマと四條がいる時には決して見せない顔をしている。
これはきっと、私だけに見せる甘えの表現なのだと、ユイは嬉しくなった。
「のんびりしてて」
シャードネルの頬を両手でやさしく包み、ユイはベッドの脇にある大きなクッションを指した。シャードネルはその上で二周ほど身体を回すと、ゆったりと丸くなって目を閉じる。
安心したようなその姿を確認してから、ユイは思い立って「異世界ナチュライフの会」の公式サイトにアクセスしてみた。
異世界ナチュライフの会。ヴェルト教団は自然派の集まりを装い、この異世界に住まう人々を騙しているはずだ。
「ヴェルト教団」で検索しても、何らかの力が働いているためか、ほとんど情報を得られないが、「異世界ナチュライフの会」のセミナーへの参加レポートは数多くヒットする。
毎月行われているセミナーだが、今日は祝日ということもあり、過去最大級の参加者を擁する大イベントが開催されているらしい。
トップページの上部に、「LIVE中継」という赤い文字が点滅しているのを見つけたユイは、おそるおそるその文字をクリックした。すると、ミーチューブのページへのリンクが開かれ、映像が流れ始める。
「カズマ……?」
そこに映っていたのは、今まさにバトルを開始しようとしているカズマだった。ピアノの発表会などで、自分の出番直前の小学生男児のように、カッチコチに緊張している姿を見て、ユイは思わず吹き出した。
「やだカズマ、あんた何やってんのよ!」
画面の中のカズマがひのまるを呼び出す。相手の男性は、もったいぶるような顔で笑っていたが、土属性のミミズバーを出現させると、すぐに試合が始まった。
実況の女の言うことから察するに、教団幹部の持つプランシャとのバトル権を賭けてトーナメントをしているようだ。
それにカズマが立候補し、そしてひとまず一回戦は勝利をおさめたらしい。
うっかり見逃してしまうほどの瞬殺ぶりに、ユイは、カズマとひのまるが確実に強くなっていると感じる。いや、今のバトルは相手が弱すぎたのだろうが、カズマは案外優れたガーディアンになるのかもしれないと思う。
「ほんっとにバカね……」
人の気もしらないで、とユイは爪を噛んだ。
これがシャードネルを救うことを念頭に置いた作戦のうちなのだとしたら、あまりにも遠回りすぎる。
おそらく教団に囚われている多くのモンスターのことまで助け出そうと画策しているのだろうが、教団内部のことなど何も知らないくせに、いきなりこんな場所で幹部たちと接触するなんて。
自分たちの手の届く範囲さえ把握していないはずだ。確実に得た情報を元に動くのでなければ無謀だし、危険なのだ。
やっぱり私がいなければカズマはダメなんだ。
ユイの中にはますます親心のようなものが芽生えたが、だからこそカズマには、四條と、そしていま一緒にいるオタクの人とがんばってほしい。そして成長した姿を見せれば、シャードネルはきっとカズマを認めて、仲間になってくれると信じていた。
でも、とユイは思う。それは矛盾していないだろうか。
シャードネルを元の家族のところへ帰してあげたいなら、あまりにもカズマに懐いてしまったあとでは、お互いに寂しいだろう。かといって、このまま知らんぷりできるような性格でもないはずだ。
カズマたちの、ヴェルト教団からモンスターたちを救いだすという野望。
もしも「その時」が本当に来るとしたら、カズマは、そしてシャードネルはどうするのだろう。
元の家族よりも、カズマのことを選んでくれるのだろうか。
「さーて、シャードネル、おやつにしようか」
「にゃあ!」
無邪気に喜ぶシャードネルを手招きし、ユイはキッチンの吊戸棚からちゅ~るを取り出す。切り取り線からパッケージを破いて鼻先に持っていくと、早く舐めたいと瞳を輝かせるが、ユイが手に持ったままでは舐めてはくれない。
「やっぱり、まだだめか……」
ふっ、と寂しそうな笑顔を見せてから、ユイはその中身を小さなお皿に移す。するとシャードネルは、それをぺろっと平らげた。
かつての家族と幸せな日々を過ごした記憶を呼び起こすシャードネルは、ユイとのやさしい時間に癒されていた。




