表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

45/77

第45話 真帆の想い

 和真の通夜と葬儀を執り行った斎場には、少人数向けの法要を行える場所がいくつか用意されている。

 その中でも一番小さな部屋に設えた祭壇の前には、この日初めて顔を合わせた若い僧侶が座っていた。

 左手に数珠をからめ、右手では磬子(けいす)を叩くための(ばい)を軽く握り、般若心経を唱えている。

 その僧侶の背中をぼんやりと眺めながら、普段は無宗教なくせに、どうして日本人はこんなときだけお寺に頼るのだろうと、真帆は思っていた。


 和真の死に方だけに、親戚やお世話になった人を呼んでの四十九日の法要は行わないと幸代から聞いたとき、あんなお兄のためなんかにそれ自体やる必要はないと言ったのだが、幸代は寂しそうに笑うだけで黙っていた。


 親戚や知人には、明確な死因も伝えていない。こちらが伝えないということは、病気や事故ではなく、人には言えないような死に方だったのではないかと、おそらく遠い親戚たちは噂していることだろう。


 もともとそれほど交流もなく、和真や真帆の幼少期に、正月に数度訪問したことがある程度の疎遠な親戚ばかりだ。本当のことを告げられた方が困ってしまうだろうし、和真の尊厳を守りたい、と幸代と紀之が相談したようだ。


 大学もろくに行かず、多額の借金を作って自殺。死亡保険金は支払われない。そんな兄にどんな尊厳があるのかと、真帆はいまだに勝手に死んだ和真を許すことができず、それどころか和真を恨んでさえいるが、幸代は和真を許しているし、生きていた頃よりも愛情を持っているようなので真帆は何も言えない。事業に失敗して自暴自棄になり、幸代に当たっていた紀之は、和真の死をきっかけに、いくらかまともに働き始めたようだが、すべてが遅いのだと、真帆は白けた気持ちでいる。


 読経が止み、僧侶は絢爛な刺繍が施された分厚い座布団の上でこちらに向き直った。袂をさばきながら両手の間で数珠を揉むように動かし、そのつるりとした顔にはやわらかな微笑みを貼りつけている。

「故人様が極楽浄土へ行かれますよう、心を込めて唱えさせていただきました……」

 日々多くの「仏様」の家族に対して寄り添う言葉は、真帆にしてみれば何の意味もない音声でしかなかった。


 僧侶は、そのあとも何やらたくさんの言葉を並べていたようだったが、真帆は少しも和真の生涯に想いを馳せることはできなかったし、たった一人の兄・和真を懐かしむことも、寂しいと思うことさえできなかった。


 ふと隣の幸代を見ると、和真が作った借金の返済に追われ、つい先日もあれほど不快で恐ろしい思いをさせられたというのに、口許にハンカチを添えて嗚咽している。そして、それまでの態度から家庭に居場所がなく、外で酒を飲んでばかりだった紀之は、腕を組んでむっとした顔をしているが、それでも目尻に涙を浮かべているのだった。


 自分だけが違う気持ちでいる。死んだ人間は、生前にどんな風に生きていたとしても、死ねば「仏」になるのだろうか。それとも父や母は、遺されたことが悲しいのだろうか。死んだ兄・和真は、長男だから両親にとってこんなにも大切な存在として、心に残るのだろうか。

 真帆は膝の上に揃えた手をぎゅっと握り、わずかに俯いた。


 じゃあ真帆が死んだら? お兄が死んだのとどっちが悲しい?


 和真の法要の場で、不謹慎なことを考えているのはわかっている。だが真帆は、死んでからの方が存在感を高めた和真に、嫉妬にも似た感情を抱いている。思春期真っ只中の真帆にとって、和真の死はタイミングが悪すぎたようだ。




 斎場まで僧侶に来てもらい、小さな部屋で法要を行ったことは、予算的な問題でもあった。紀之が無事に定職に就くまで、お寺に親戚を呼んでの法事をするには費用がかかりすぎる。幸い檀家として特定の寺院に世話になっていたわけではなかったので、斎場で僧侶の手配までしてもらうことができた。


 真帆はそれを、『仏教大学の学生のバイトでしょ? そんなのありがたくもなんともないじゃん』と言っていたが、幸代が問い合わせた際の電話では『きちんとしたお寺の住職が来られます』と斎場の職員は言っていたそうだ。


 本来ならお寺で法要を営んだのち、墓地へと移動して納骨を済ませるはずだが、宮本家では先祖代々の墓を持っておらず、紀之も幸代もまだ若かったため、墓を購入することなど考えたこともなかった。ましてや、いまは小さな納骨堂でさえ購入する余裕もないのだ。


 家族で何度も話し合ったり、ネットで調べたりした結果、散骨という選択をした。

 海への散骨は、いくつかの家族がクルーザーに乗り合わせる「合同葬」と、一つの家族だけで船を借りる「個人葬」があるようで、場所も横浜在住であれば横浜港や相模灘などを選べるそうだ。

 肝心の費用は、合同葬が十五万円。個人葬は二十五万円で、合同葬では一家族につき立ち合い人数が五名なのに対し、個人葬では二十名まで乗船できるということだった。

 今の季節ではまだ、船で沖合に出るのは寒いから、春になってから「お別れの会」を開くことになった。とはいえ、それに参加するのは家族の他には二名だけだ。それは親戚の誰かではなく、和真が物心ついた頃から一緒に過ごした恭平と、大学で知り合い、行動を共にしていた裕介だ。




 二月十一日午後一時。真帆たち三人がレストランの前に着くと、恭平と裕介が先に来て待っていた。幸代は、普段着のカジュアルな服装でいいと伝えていたが、ふたりは濃いグレーの準喪服のようなスーツに、暗色のネクタイを着けて頬を緊張させていた。


「お母さん、今日はお招きいただき、ありがとうございます」

「こちらこそ、恭平くん、裕介くん、来てくれてありがとう」

「真帆ちゃん、こんにちは。久しぶり」


 真帆が恭平と会うのは、和真の告別式以来だ。やさしい笑顔で声をかけてもらったにもかかわらず、素直に笑顔を返すことはできなかった。


「……どうも」


 頭を下げるのではなく、あごを突き出すようなみっとみない会釈をした真帆を、幸代がたしなめる。


「真帆、ちゃんと挨拶して」


 その時、入口が開いて中から二人連れの客が出ていった。客を見送っていた店員が五人を見つけると、店内にいざなう。


「一時にご予約の宮本様ですね。五名様で個室のご用意ができております。ご案内いたします」


 自分たちのテーブルに向かう途中、大部屋に同じく法事と思われる団体客がいるのが真帆の目に入る。顔を赤くして酒をあおる中年の男、叫びながら走り回る幼児、ビール瓶を持って勧めて回る女性は、幸代と同年代のようだった。


 くだらない、ばかばかしい……。


 真帆は、自分も和真の葬儀の際に、ああして親戚連中に酌をしてまわったことを思い出して胸がムカムカしてきた。真帆自身も、自分の感情を持て余しているのだ。何が気に入らないのか、何に苛立っているのかうまく説明がつかない。


 和真を許せないのは確かだが、むかし遊んでくれた恭平にまて当たるのは間違っている。それはわかっているのだ。お兄の告別式の時は、もっとちゃんとできたのに、と真帆は妹の自分よりも和真と近かったような恭平にも、嫉妬を覚えているのかもしれない。


 小さな個室に通されると、丸いテーブルには人数分のグラスや皿がセットされていた。


「いい部屋ですね。和真がいたら喜びそうだ」


 中華街にあるこのレストランは、和真がまだ小学校低学年の頃に何度か来たことがあった。平日の飲茶が評判で、和真は色々な種類の焼売と餃子を好んで食べていた。

 真帆は当時まだ二歳くらいだったので、記憶には残っていないだろう。

 紀之が会社を辞めて事業を始めたいと言い出したのもその頃だ。

 子どもがふたりになって、会社員よりも時間を自由に使えると思ったのかもしれない。だが、そんなに甘くはなかった。



「和真の写真、持ってきたの。テーブルに置いてもいい?」


 幸代がふくさに包んだ写真立てを出しながら恭平と裕介に訊く。


「もちろんですよ! なんか俺、嬉しいな」

「一応コースで注文んであるんだけど、何か食べたいものがあったら言ってね」


 幸代は、恭平と裕介の顔を交互に見て言った。和真の親友たちと一緒にテーブルを囲むことで、和真もそこにいるような気がしているのだろうか。


 棒棒鶏やクラゲを盛り合わせた前菜を持って、ウエイトレスが入ってきた。


「お飲み物はビールでよろしいですか? それから紹興酒と、お嬢さまはジュースかウーロン茶になさいますか?」


 ややイントネーションに癖があるが、外見からでは中国人なのか日本人なのか判然としない、不思議な容貌の女性だった。


「恭平くん、裕介くん、紹興酒飲んでみる?」

「はい、お願いします」


 真帆は烏龍茶で、それ以外の四人はビールで献杯したあと、前菜を取り分けた。


「回るテーブルのある店って、子どもの頃憧れでした」


 自分の分を取り、中央のテーブルを裕介の前まで回した恭平は、和真の写真を見つめながら言った。


「子どもはみんなそうよね。和真もここへ来ると必要以上にくるくる回してたわ」


 「ねぇ、」と和真の写真を覗きこみながら幸代が微笑む。だがその顔は寂しそうだ。

 スープが運ばれ、その他の料理がいゆきわたった。

 恭平は子どもの頃と同じように紀之に話しかけるが、紀之は言葉少なに気まずそうに顔を背けてしまう。


「お母さん、和真のお墓って……」


 それぞれがくつろいだ表情を見せはじめた頃、恭平が幸代に小声で訊いた。真帆がぴくりと顔を上げ、裕介も恭平の横顔を見ている。


「和真ね、お墓には入れないことにしたの。海に散骨するのよ。あの子は横浜の海が好きだったからね」


 和真の骨でさえ、何一つ残らない。お墓に埋めるなら、その下にいつまでも骨があるが、海に撒いたらどこへ行ってしまうかわからないではないか。

 真帆は複雑な想いを抱えながら黙っていたが、恭平は寂しそうに頷いた。


「そっか。お母さん、俺たちにも手伝えることがあったら、なんでも言ってね」


 紀之は、無言のまま手酌でビールを何本も空けていた。

 真帆は、ここにいる誰とも解りあえないような寂しさを感じていた。




 食事のあと、恭平と裕介が和真に会いたいというので、一緒に帰ることにした。

 五時を過ぎるとあたりはもう真っ暗で、突き刺すような寒さが身にしみた。


「おかえりなさぁい」


 声を聞くより先に、タバコの煙に気づいていた。暗がりとなった玄関前にしゃがんでいたのは、先日から幸代を困らせている金貸しのふたりだった。


 紀之と、後ろにふたりの若者がいることに気づいた金貸しは、一瞬ためらうような素振りも見せたが、いつものようにニタニタと笑いながら幸代に絡みはじめた。


「宮本さん、今月の集金ですけど、五十万円いけますよね? それ以下だと利息が膨らんじゃうんで、お願いしますよ」

「……わかりました」


 さっさと帰らせたい幸代は、「無理だ」とは言わなかった。一体いつまでこんな怯えるような生活を続けなければならないのだ。


 だが、幸代は和真が借りたお金なら、親である自分たちが返すのは当然だと考えているようだ。


「おっ、お嬢ちゃん、今日はまた一段といい女じゃない。これならすぐにでも稼げそうだねぇ~」


 ねっとりした視線を向け、その小さな肩に腕を回そうとする金貸しの前に、恭平が真帆を守るように立ちふさがった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ