第34話 捨てられた、にゃん。
一月十六日深夜──。
マルバノキのハート形の葉の間から、何ごとかと目を覚ましたチュピッチが顔を出した。
突風が吹き抜け、葉を集めて作った巣が大きく揺れたからだ。
だが、これは自然現象によって発生した風ではなく、モンスターが走り抜けたために巻き起こったものだとすぐにわかった。吹き抜けていった空気のあとを追うように、金色に輝くモンスターの体毛が数本漂っていたからだ。
夜目の利かない鳥属性のモンスターであるチュピッチは、暗い場所では二十秒以上視力を保つことが出来ない。そのため走り去る空気の匂いを小さな鼻孔から吸い込み、それを憶えてから満足そうにふたたび眠りについた。
先週まで家族で暮らしていた家は、飛び出した教団施設から十五キロ程度の位置にあったが、シャードネルの鼻と脚があれば、辿り着くのは容易だった。
だが、思い出の詰まったスイートホームはすでにもぬけの殻で、灯りの付いた部屋は一つもなかった。
家族はみな、ヴェルト教団のグルであるサガラに洗脳され、モンスターを手放したまま施設内で集団生活を送っているのだ。
シャードネルのガーディアンであった一家の父は、人間と同様、モンスターも家族として迎えてもらえるという約束を信じ、教団にシャードネルを預けた。
集団生活に慣れ、家族ごとに小屋を与えられるようになれば、それぞれのモンスターもそこで一緒に生活できるようになるはずなのだ。シャードネルの家族は、一日も早くそうなれるよう、サガラの教えに忠実に毎日を過ごしていた。
この家族だけではない。異世界に転生した多くの者が、ヴェルト教団に騙され、モンスターを手放している。
家族と引き離されたあとのモンスターが、どのような扱いを受けるのかも知らず、金儲けの道具にされるなどとは夢にも思わず、自分たち人間と一緒に家族として生きてきたモンスターも、真に解放されるのだと信じて疑わずに。
満足げに去ってゆくガーディアンの背中を見てから、何日が過ぎたのだろう。
『私たちはサガラ様にお仕えして、きっと素晴らしい人間になって戻ってくるからね。またすぐに会えるから、それまでいい子で待っててね。大丈夫、心配いらないよ。モンスターたちのことも大切にしてくれるから』
シャードネルの頭に手を置き、そう言って微笑みながら言ったガーディアンは、いまどこにいるのだろう。
その言葉を信じて、家族との再会を願って、狭いケージに閉じ込められても耐えてきた。
だがそれが嘘だったということを、シャードネルは家族と別れた数日後に知る。
積み上げられたケージの中は狭すぎて、満足に伸びをすることもできない。それどころか、毛づくろいをするために姿勢を変えることさえ難しいほどだ。食事は粗末で不味いモンスターフードだけ。担当の人間は、水が空っぽになっていても気づきもしない。
押し込まれたケージの扉には、厳重な鍵がかかっている。なんのためにそんなことをするのだろう。一体、家族はいつになったら迎えにきてくれるのか。
こんな扱いを受けたのは初めてだ。家族は、ガーディアンのあの父は、こんな状況になると知っていて自分を教団に預けたのだろうか。
シャードネルの胸に、わずかな不安が芽生えた。
このまま、この先もずっとここで生きてゆかなければならないのだろうか……?
そう思ったとき、教団員たちが「モンスター保管室」と呼んでいるこの部屋の扉が開いた。入ってきたのはいつも食事を運んでくる人間とは違う。シャードネルは思わず身構えた。
『この後ろのケージだと思うわ。ちょっとどけてみて』
一人の女が、男をふたり従えて進んでくる。命令された男たちは、シャードネルが入ったケージを乱暴に持ち上げ、床に置いた。
「ぐるるるる、シャーッ!」
その衝撃に思わず威嚇の声を出したシャードネルを一瞥し、女は一列うしろに積まれたケージを指す。
『あぁ、それね。シマトネリコ。複数体いるはずだから、三匹出してちょぅだい。まとまった注文が入ったのよ』
女の指示に、男のひとりは言いにくそうな声を出した。
『アイン様、一匹はどうも枯れているように見えますが……』
ケージの中にいるモンスターの姿を確認しながら男が言う。
『死んでる? 困ったわね。サガラ様になんて言えば……。世話係は誰だったのよ! じゃあそっちの壁際に花を付けてるのがいるでしょう? それでいいわ。死んでるのは速やかに焼却してちょうだい』
ずっと人間と暮らしてきたシャードネルには、言葉がある程度は理解できた。そして、言語自体がわからなくても、声音や言葉のオーラを見れば、それが喜ばしいことではないとすぐにわかる。
人間に連れられてきたモンスターは、もう家族に会えることはないのだろうか……。
それ以来、シャードネルはここから抜け出すチャンスをうかがっていた。
家族は、もう家に戻っているのかもしれない。
早くここから出て、家族の待つ家に帰るんだ。
家族が教団に洗脳されているとは知らず、先に家に戻っていると信じていた。
だが、脱走して必死に走ってきた懐かしい我が家には、もう誰もいない。
「きゅう~、ぐるるる」
シャードネルは、凍てつく空に浮かぶ細い三日月に向かって啼いた。
あの月を家族と並んで眺めた夜。嬉しくてゴロゴロと喉を鳴らしながら背中を撫でられた朝。一緒に遊んだ日々は、きっともう二度とこないのだ。
シャードネルはそう理解した。家族が呼んでいた自分の名前も、もう忘れてしまった。
とその時、人間の気配を感じたシャードネルは、家の屋根の上にぽーんと跳び上がった。
「チッ、気づかれたか!」
シャードネルに向けて捕獲用の道具を放ったアインは、悔しそうに舌打ちをする。
ここでミニュルかゲレーヴを出してシャードネルと戦わせるのは得策ではない。
深夜の住宅街で家を破壊するようなバトルに発展すれば、ヴェルト教団の信用にかかわる問題となり、自分は解雇されてしまう恐れがあるからだ。
幸いなことに、先週も商品となるモンスターが大量に入ったため、サガラはまだその数や種類のすべてを把握していない。つまり、ここでシャードネルを奪還することにこだわるよりは、そこそこの金額で売れるモンスターを新たに捕獲して帰り、檻に閉じ込めておけばよいのだ。だが、そううまいこと代わりが見つかるだろうか。
アインがシャードネルと睨み合っていると、部下から通信が入った。
『アイン様、ヨコハマ洞窟の入口にて、ギュルーシュを発見いたしました。まだ生まれたばかりのようで、捕獲は容易かと思われます。如何いたしましょう』
『強力なモンスターね。そのまま放っておくと付近に災害を及ぼす危険性もあるわ。速やかに確保し、帰還の準備を』
『了解しました!』
ミニュルをワープさせ、洞窟内のギュレーシィを持ち帰ることも考えたが、一度は手を引いたギュレーシィをなぜ捕獲したのかと、サガラに問い質されたら見抜かれてしまう。あの時は敗退したのだと。それを報告しなかったことを咎められるだろう。
とにかくサガラに見捨てられることを怖れるアインは、シャードネルに執着せず、その場を離れることにした。タブレットでギュルーシュのステータスを確認し、部下のサポートに回ろうと、シャードネルに背を向ける。
「ラッキーだったわね。あなた、自由に生きられるわよ」
人間にゲットされたモンスターは、ガーディアンの質次第では不幸にもなり得る。
モンスターの強さを自分の手柄とはき違える者、バトルで勝ち続けることしか頭にない者など、挙げたらきりがない。
ヴェルト教団は、入団した信者からだまし取ったモンスターを転売していることは事実だ。だが、そういった程度の低いガーディアンにモンスターが渡らないよう、あえて言うなら、モンスターを守っているのではないかと、アインは思っている。
実際、自殺して転生してきた人こそ、身勝手で我がままな割合が高い。
せっかく現実には存在しなかったモンスターと出会ったのだから、二度目の人生くらい楽しくしようと、モンスターを道具のように扱うガーディアンを、アインは多く見てきた。
なぜ、ヴェルト教団だけが悪と言えるのだろう?
理想的なガーディアンではなく、下劣な人間の持ち物としてゲットされてしまったら、そのモンスターは諦めて受け入れるしかないのか?
少なくとも私たちは、サガラ様の指示のもと、家族として大切に扱う人たちにモンスターを売っている。その購入者が、将来的に低レベルなガーディアンにならないという保証はないが、販売する際には適正な相手を選んでいるのだ。
「にゃあっ」
アインに攻撃する気がないとわかったのか、シャードネルは威嚇をやめた。
肩の上で手を振りながら去ってゆくアインの、寂し気な横顔を見つめるシャードネルは、果たして「自由に生きられる」という彼女の言葉をどう感じたのだろう。
それからの日々、シャードネルは食料確保に明け暮れた。ねずみや鳥に似たモンスターは、常に肉食のモンスターから狙われているからか、決してシャードネルの爪が届かない小さな隙間の奥深くへ逃げてしまう。
獲物を探すのに夢中になっていると、突然襲撃されることもあった。自分のモンスターをけしかけてきたガーディアンだったが、その行動がなにを意味するのかシャードネルには理解できず、ただ不可解で恐怖を感じることばかりだった。
野生で生きてゆくことの厳しさを実感したシャードネルは、身を守るため、目立たなくするために、自分の身体を泥で汚し、闇に溶けるように深夜に行動した。夜行性のモンスターが街に出てくる時間だったが、それらも空腹のシャードネルを嘲笑うように、素早く巣穴へ潜ってしまう。
気づいたとき、シャードネルはふたたび家族と暮らした懐かしい家の前に来ていた。固く閉じた門の前に座り、細い声で長く鳴いた。塀を飛び越え、庭に降りる。リビングルームのカーテンは閉じられたままで、ガラスの向こうにも闇が広がるばかりだった。
家族の顔を思い出し、シャードネルは首を垂れた。もう会えない人を想うのは、とても苦しかった。
冷たい朝が開け、マートルの木の下で休んでいたシャードネルは、屋根に跳び上がって自分が生きてきた「家」を眺め下ろした。長いあいだ暮らしていた場所に別れの挨拶をし、想いを振り切るように勢いよく飛び出す。
すでに空腹と疲労感は耐えがたいものとなっていたが、何ものにもとらわれない、何者でもない自分、ただひとつの「命」であるという自分の存在が誇らしく思えた。
地上を歩いていたのでは目立つ。ガーディアンと一緒に行動していないと、すぐに誰かにモンスターをけしかけられるので、心が休まるときがない。
少しの木の実や葉を食べ、その命をつなぐという現在の毎日は、いつまで続くのだろうかと心細くなる。
そんな時、ふと仲間の匂いを感じた。それを辿っていくうちに、美味しそうなフードの匂いが混じっていることに気づく。
この匂いが出ているところにいけば、仲間がいて、食べ物にもありつけるかもしれないと、シャードネルは走り出した。
いくつもの屋根を飛び移り、道路を渡り、時には地上も走った。そして、いよいよ匂いが近くなってくると、わき目もふらずにそこを目指した。
仲間の匂いとともに人間のそれが感じられることに戸惑いもあったが、あの教団の保管室よりも酷い場所はないだろうと、屋根の上を跳ぶ。
とうとう匂いの元を見つけた。大きな窓はこちらを向いて開いている。
見えてきた。人間もいるが、そんなこと気にしてはいられない。
さあ、あの窓へ飛び込もう。これからは自分のために生きると決めたのだから。