第32話 寒椿
合わせていた手のひらをほどいてゆっくりまぶたを上げると、そこにはやはり、指でピースをしながら笑っているカズマがいた。
十六年間ずっと見てきたはずのその顔に、恭平は怒りと、どうしようもない悲しさをおぼえる。
隣に座る裕介は、手を合わせたままずっと泣いている。
四十九日の法要は、納骨後に近親者のみでひっそりと食事会を行う予定とのことだ。
「恭平くん、裕介くん、コーヒーと紅茶どっちがいい?」
リビングに設置された祭壇の前にいるふたりに、幸代はキッチンから声をかけた。
「あ、お母さん、俺たちすぐに帰るから、いいよ」
「ゆっくりしてってよ。恭平くんが家に来てくれるの、久しぶりよね。葬儀のときは会場でお別れしたし……。和真ったら、自分の部屋に閉じこもりっきりでお絵描きばっかりしてたでしょ。友だちともだんだん遊ばなくなっていって、バイトもしなけゃ学校もいい加減で。ほんっとに……、最期まで自分のことしか考えないバカな子で」
幸代は写真に写った和真の笑顔を呆れ顔で見つめ、肩をすくめた。
和真とは幼稚園時代からの長い付き合いをしていた恭平は、幸代になんと声をかけたらいいかわからずに俯いた。
「お母さん、遺書の中に俺たち宛てのメッセージもあったって、それ見せてもらってもいい?」
恭平の言葉に、やっと泣き止んだ裕介が顔を上げて幸代を見る。
恭平と裕介も参列した和真の告別式で、死因が家族の口から発表されることはなかった。和真とはあまり会うことのない遠い親戚筋には、病気か事故を匂わせるようなことを話していたらしい。どちらか選んではっきり伝えなければ、余計な憶測を生むのではないかとも思われたが、どちらを死因として伝えたところで、どのみちそれは事実ではないのだから、嘘をつくのは幸代も耐えがたかったのだ。なんとなく濁しておいて、あとは察してくれと、それでいいと思ったのかもしれない。
恭平も裕介も、和真は交通事故で死んだのかと初めは思っていた。だが、棺の中の和真と対面したとき、その体に外傷の痕跡などは見当たらず、とても綺麗だったこと。そして決定的だったのは、和真の首に違和感があったことだ。首の皮膚が不自然なくらい血色がよく、なめらかに見えたこと。それで二人は、こっそりと幸代に訊ねた。幸代は、信頼している二人には本当のことを話してくれた。
自室で首を吊った縊死だったこと。明らかな自殺でも、他殺の可能性をゼロだと証明するため、一旦は警察に運ばれて検死がなされたこと。自殺と断定されて遺体が戻ってきたときは、首に食い込んだロープの跡がくっきりとついていたため、葬儀社の専門の人に頼んで首の皮膚に加工してもらったこと。
幸代はなんと表現すればよいのか、恭平にはとても言葉が見つからないような顔でそれらを説明したが、恭平はつくづく和真にはがっかりさせられたと感じた。
幸代の顔を見て、恭平は訊いたことを後悔したが、「本当のことを言える友だちが和真にいて良かった」と幸代は涙を流しながらも嬉しそうだった。
幸代は無言で頷くとその場を離れ、和真の部屋の抽斗から遺書を取り出した。そしてリビングに戻ると、それを恭平に手渡す。
「読んであげてちょうだい。和真のことだから、ふざけたことばっかり書いてあるのかもしれないけど」
受け取った恭平は、裕介と顔を見合わせ、頷き合ってから封を切った。
『恭平・裕介へ
先立つ不孝をお許しください。
突然こんなことになって、ふたりはきっと驚いてると思う。
俺も、昨日まで一緒にいたお前らに何の相談もなく死ぬことを決めたなんて、自分でも信じらんねえよ。
いや、相談されたって困るよな。それに、金の問題ばっかりはいくらお前らにだって頼ることはできねえもん。
ま、心配すんな。借金はけっこうな額になってるけど、大樹の兄貴に入らされた保険金でバッチリ返済できるからよ。
それよりも俺がいなくなったあと、たまには母さんに顔見せてやってくれ。
先に死んでくからって、なんだかんだと頼むのも気が引けるんで、そろそろ終わりにするわ。
悲しまないでくれな。
情けねえヤツだって怒っていい。でも俺と友だちで良かったって、そう思ってくれたら嬉しい。
俺は、お前らと出会って良かったし、恭平とは十五年以上の変わらない付き合いで、裕介とはそんな長い間じゃなかったけど、でも三人でいるのは楽しかったし最高な時間だった。
約束守れなくてごめん。お前らが来るのは何十年も後だろうけど、先に行って待ってるわ。
だから、ふたりともどうかいい人生を送ってくれ。お前らの成功を祈ってる。じゃ』
和真らしさ満載の遺書を読み終え、恭平は幸代がそばにいるとわかっていながらも、大きなため息をつかずにはいられなかった。
その便箋を開いたまま裕介に渡すと、自分の言葉を待っているだろう幸代に、恭平は言う。
「絶対漫画家になるって、小学校の頃に約束したんです。俺はJリーガー。裕介とは大学に入ってから知り合ったから、そういった夢については何度か語った程度だったけど、俺はずーっと、十年以上毎日のように聞かされてたようなものだった」
「そう……。恭平くんは、信じてた? 和真が漫画家になれるって」
幸代の目からは、母親として子どもの可能性を信じて疑わない強さが感じられたが、同時に誰かにそう言ってほしいと、すがるような脆さもうかがえた。
「正直、あいつの性格と作風じゃあ、時代に置いてけぼりにされるとは思ってた。でも、和真は本当に絵が上手いし、受ける要素だって十分にあった。たとえ作風が今っぽくなくても、意地でなんとかするのが和真だろって、インターハイでスカウトされなかった俺がどの口で言うんだって話だけどね」
長年「友だちのお母さん」として接してきた幸代には、実の母親には言わないようなことでも話せる時がある。言い終えると恭平は目を閉じ、またひとつ溜め息をつく。
「私たち家族はね、和真の夢を応援してあげられなかったの。ううん、お父さんだけは和真の気持ちを理解してたかな。私は、和真を叱ったことが何度もあった。お願いだからちゃんとしてってね。和真が家族に相談できなかったのは、きっと母親である私が原因なの」
「お母さん……」
幸代もまた恭平と同様、和真には言えなかったことを恭平たちに聞かせていた。
「家族って、いちばんの理解者でいてあげられるはずなのに、どうしてかいちばん追い詰めてしまうのよね。ただ子どもの幸せを思うだけじゃなくて、世間体とかなんだとか、そんな雑音ばかりが重要な気がしてしまって」
和真の葬儀が終わってから帰宅した紀之に、「お前のせいじゃないのか」と責められた幸代は、ずっとそのことを考えている。和真と真帆の見ている前で、幸代に暴力を振るっていた本人が言うことではない。だが、紀之は父親というよりは友だちのように和真と関わっていたふしがある。大人になりきれない父親と、そんな父親に逆らえない母親を見続けてきた和真は、とっくに両親に失望していたのかもしれない。
後悔しても和真が戻ってくるわけではない。だが、もっと母親として出来ることがあったのではないかと、そう思わずにはいられないのだ。
「お母さん、あんまり無理しないでね。自分を責めちゃだめだよ。俺たちだっていつも一緒にいたのに、和真の力になれなかったんだから」
恭平が幸代の肩に手を置く。幼稚園時代から、何度この手に助けられただろう。幼児の頃は、あまりに和真と一緒に遊んでばかりいたせいで、幸代のことも自分の母親だと思い込んでいた時期さえあった恭平に、こんな形で慰められる日が来るとは想像もしていなかった。
「今日はこれで帰るけど、また和真に会いに来るから」
恭平が裕介を振り返りながら幸代に言う。
ほんの十分程度の滞在だったが、幸代は恭平の顔を見られただけで嬉しかった。玄関先まで二人を見送り、手を振って別れる。
ドアが閉まったあとは、和真のことを思いながらも、お腹を空かせて帰ってくる真帆のために、夕食の準備を始めた。
恭平の家は、和真の家から徒歩十分のところにあった。
幼稚園からずっと仲良く、まるで兄弟のように過ごしてきた恭平にとって、和真がいなくなった世界をあらためて実感すると、まるで自分の半分が欠けてしまったような空虚な感覚にとらわれる。
和真は、恭平がいない世界に飛び出してゆくのを怖いとは思わなかったのだろうか。
そんなことを考える余裕もないほど、切羽詰まった情況だったのか。
和真は、確かに漫画を描くのが上手かった。小学校低学年の頃からきちんとコマ割りをした自由帳にキャラクターを描きわけ、豊かで瑞々しい表情と動きのある様子、それぞれが話すセリフは活き活きとして心にしみる漫画を描いた。
そんな和真の漫画はクラスの男子から絶大な支持を受け、誰もが早く読ませろと和真の机の周りに群がったが、和真はいつも「まず恭平からだ」と言って、出来たばかりの「原稿」を一番に恭平に見せた。
中学、高校と、漫画を続けてゆくことで和真が傷つくことが増えていった。それは、自分の描きたいものを描く喜びと自由よりも、「より受け入れられるもの」との間には大きな乖離があると気づき始めたからだった。
受けるモノ=売れるモノで、社会が求めているのは和真ではなく「売れる作品を描く漫画家」なのだった。
傷ついて方向性を見失ってゆく和真を心配しながらも、自分も部活が忙しいからと、親身になってあげられなかったことを、恭平は悔やんでいる。
そしてそれは、小さなころから漫画を描くのが上手く、いつでも人気者だった和真が自身の表現に迷い、挫折し、苦しむ姿を見ている時に感じた、微かな後ろめたさを伴う優越感、ざまあみろという意地の悪い快感を自覚した時に、恭平の心にも鋭い棘のように刺さった。そしてその棘は、和真が実際に命を絶ったあとにも、恭平の胸をジクジクと苛みつづけている。
「裕介、うちにも寄ってくか?」
恭平が横にいる裕介を見ないまま訊くが、裕介は黙っている。まだ喉をひくひくさせて、泣き止んでいないようだ。
誰かに見られたら気まずいと思ったが、どんな言葉をかければ裕介の悲しみを止めてやれるのかわからない。
「裕介、俺がゲイの彼氏を泣かしてるみてえじゃん。痴話げんかしながら歩いてるゲイカップルに見えんじゃねえか?」
ははっ、と恭平が笑うが、裕介は手の甲で顔を拭いながら怒ったように言う。
「いや、俺が攻めだから!」
泣き笑いの裕介の顔が、最後の飲みの夜に見た和真の顔と重なり、恭平まで泣きたくなった。滲んできた涙を人差し指で押さえ、恭平も黙って歩いた。
「俺さ、お前に嫉妬してたんだ」
やっと、裕介が気持ちを出した。
「サッカー上手くてイケメンだからか?」
「ちげえよ。俺は大学で和真と知りあって、一年も一緒にいられなかったけど、お前は十六年。それって人生のほとんどじゃん。三人で遊んでも、どこか超えられない壁っていうか、入っていけない感じがしてて、でも、それが何なのか自分でもわかんなかった。あいつがいなくなったいま、やっと正直になれるよ。俺はお前が羨ましかったんだって」
裕介が恭平の瞳をまっすぐに見て言った。
裕介は大切な友だちだが、和真と同列に考えられていたかと思うと、そうではなかった。だからこそ恭平は苦しかった。和真のことは、全部知ってると己惚れていた。何を言っても、幼馴染だから許されると安心していた。
恭平の家は、角を曲がると見えてくるこじんまりとしたマンションの中にある。ふたりは歩く速度を緩めながら、互いの顔を見つめ合った。裕介の鼻に、雨粒がぽつりと落ちた。恭平の手の甲にも落ち、少しずつ濡れるふたりは雨の冷たさにすがり、罪の許しを乞うように顔を空に向けた。
「……和真を死に追いやったのは、俺かも知れないんだぞ」
恭平がぽつりと言う。
「なわけあるか。だつて和真、すげぇ楽しそうだったじゃんか」
三人がいつも行っていた居酒屋「たまらんね」は、アラフォーの夫婦がふたりで切り盛りしている小さな店だ。チェーン展開しているところのようにメニューが豊富なわけでも、チューハイの値段が驚くほど安いわけでもないが、安心な素材で丁寧に手作りされた料理はどれも美味しく、適度にオシャレな店内は三人のお気に入りだった。
『あー、やべぇ。マジやべえよ。俺ってやっぱ、才能ないのかな』
何杯目かのジョッキを開けたあと、和真がいつになく弱気な言葉を吐いた。
『キャズマ、いきなりどしたんだよ。お前の才能は俺らがちゃーんと認めてんじゃん!』
和真の肩を抱き、恭平が言う。
『この前持ち込んだ原稿って、そう言えばどうなった?』
裕介が訊くと、和真はテーブルに突っ伏し、それから顔を横に向けてぼそっと答える。
『ボツ! もうボツよ! 俺の描きてえもんは今どきの読者には受けねえんだとよ! なんでも異世界・異世界で、俺の漫画みてえに主人公が頑張ったり努力したり挫折したりっていうのは、読者にとってストレスなんだってよ! 「ストレスフリーの作品にチャレンジしてみたらどうかなぁ? 宮本君は絵も上手いし構成力もあるんだから。いっそのこと、他の先生に原作お願いしてみる? その通りに絵だけ描けるなら、あるいは生き残れる可能性も無きにしも非ずかもしれないよ」って言いやがってあのブタ担当! 誰かの話を俺が絵だけ描くぅ~? そんなんつまんねえじゃん! 俺には俺の世界があんだよ!』
弱っている時は、いつもの量でもアルコールの回りが早いのか、和真はチーズと小海老のフライの皿に指をかけたままテーブルに伏して黙ってしまった。
『……借金も、なんか知らねえうちに膨らんじまってよぅ、もうどっからいくら借りたのかもわかんねえんだわ。借りた覚えのない請求書まで来るし、そのせいでかあちゃんには怒鳴られるし、クソ親父は見て見ぬ振りだし、妹からは完無視だぜ。家にいたくねえの当たり前っしょ』
ははっ、と笑う和真に、恭平はほんのノリのつもりで言った。
『もうお前、死ぬっきゃねえじゃん』
一瞬、和真たちのテーブルを静寂が包み、その直後三人は爆笑した。
『おー、恭平くんグッドアイディア! 死んだらもう悩むこともねえし、家族の冷たい態度にビクビクしながら暮らすこともねえ。いっちゃうか、やっぱ目指すはストレスフリーだよな!』
「あの時俺が和真にそう言ったって、和真のお母さんには言えなかったよ。お母さんが自分のせいだって、あんなに苦しんでんのに。俺、つくづく自分に失望したよ。こんなに卑怯なヤツだなんて知りたくなかった」
和真がいない世界で、友だちがひとり欠けた学生時代をこれから恭平と裕介は過ごしてゆくのだ。
ふたりは改めて和真の存在の大きさを想い、そして和真の描く絵や漫画の才能が永久に失われたことを惜しいとも思う。
「もう一度、会いてえな」
どちらからともなく言い、ふたりは俯いた。
「あいつ、天国で何してっかなぁ」
「漫画描いてんじゃね?」
言いながら、裕介がオートロックのドアを開ける。雨はさっきよりも強く降り、しばらく止みそうにない。
一月の冷たい雨に、寒椿の赤が鮮やかに映えている。
あの赤を、和真ならどんな風に描くのだろうと、ふたりは無言で同じことを思っていた。