第四.五章 第五話
翌年三月、斯波実森は京都に移住し、立誠館大学の英語科講師に着任した。また、その地で三男二女(長女:尚子、長男:義矩、次男:義茂、三男:義祐、次女:篤子)を儲けた。生活は安定したが、その頃から彼のリベラルな思想が露わになる。
昭和初期、それは軍部の台頭の時代であった。1931年には満州事変が勃発、そこから大陸への進出を本格化した。その結果、欧米諸国との軋轢を生み、1933年には国際連盟から脱退した。また、1932年には海軍若手将校が主導する五・一五事件で当時の犬養毅首相が暗殺され、それ以降は政党政治、言い換えれば民主主義的な『憲政の常道』が機能しなくなった。
斯波実森は、アメリカへの留学経験があり、更に現地でプロテスタントに入信してもいた。そのことが大きく影響してか、彼の思想はキリスト教的な平和主義・民主主義の色が濃いものであった。彼は授業中の雑談で、時折自分の思想を語ることがあった。
その最たるエピソードがある。ある時、生徒から天皇陛下についてどう思うか聞かれたとき、彼はこう返答した。
「私の妻は陛下と同い年なんだ。確かに威厳はある方だが、私にとってはその二点しか思うところが無いね」
彼のそっけない返答に、その生徒が驚いたのは言うまでもない。
ただ、英語教師としての能力と人望はとても高かったのだろう。彼はちゃっかり、政府から従七位の位階に叙されている。ただ、あのねちっこい軍人なら、こう推測しただろう。
「どうせ、かのお殿様が陛下に推薦したんだろう」
尤も、そんな証拠はどこにもないのだが。
ともかく実森は、不穏さに満ちていく日本国内外の情勢を憂いながら、実森は教壇に立ち続けた。
一方その頃、楠木正武は立派な共産主義者になっていた。しかし彼は、労働党には所属していなかった(なんと、あの蘇我和成が委員長を務めることになる労働党は、この時代から存在していた!)。確かに、ソ連留学をし、共産主義思想を身に着けたとはいえ、唯一疑問に思っていた点があった。
「本当に『天皇制』を倒していいものなのか?」
これは南朝の名門、楠木家の末裔というアイデンティティーがあるからこそ、浮かんだものであった。確かに今の世の中は格差が大きい。資本家が暴利をむさぼっている。しかし、それは本当に天皇制のせいなのか?いや、それは違う。確かに天皇をはじめとした皇族の方々は上流階級と親しいし、それによって地位を確保している。上流階級も、天皇と親しくすることで、地位の安泰を図っている。しかし同時に、天皇は万世一系の神聖な存在として、国民に認識されている。
そもそも共産主義は労働者解放のための主義である。労働者や農民が、庶民層の多くを形成している。そして国民の大半が庶民である。その庶民も敬愛している天皇を打倒することは、果たして日本人民の為なのか?正武は、どうしても天皇制打倒、そしてそのほぼ唯一の手段と言える『革命』を唱える気にはなれなかったのである。それゆえ、彼は日本帰国後も、かつての同志達に誘われても、労働党に入党しなかったのであった。




