第四章 第六話
(2018年2月17日、宇喜多邸。南興楠木家と斯波家が、南北朝時代から七世紀弱ぶりに邂逅していた…)
「ご存じかと思いますが、私(宇喜多秀和)の先祖である秀家の正室が、前田利家の四女である豪姫でございまして、かなり遠いですが親戚にあたります。その縁で現在でも付き合いがあります」
「なるほど…。しかし、斯波家と前田家の関係は…?」
纏めるとこうである。戦国時代、前田家は織田弾正忠家の家臣であり、その弾正忠家の主君・本家である織田家は、斯波家の家臣であった。しかし、斯波義銀の代で織田信長(織田弾正忠家出身ながら、色々あって既に織田家を滅ぼしていた)によって尾張を追放されてしまった。その長男:義康の子の親康は、父親が亡くなった後に生まれ、放浪の末山形に流れ着いたものの、直ぐに当地の藩主だった最上家(実は斯波家の分家の一つ)が改易となってしまい、その煽りで種子島に追放されてしまったのである。
その後、明治期の当主である義寅がアメリカに渡って、新聞社を興すなど一定の成功を収めた。その末弟:実森も、立英大学卒業後、彼を追ってアメリカへ渡った。しかし、その頃には既に排日移民法が制定され、日系人への迫害が強まっており、実森は数年で帰国を余儀なくされた。その際実森は、アメリカに残ることを選んだ義寅から、斯波家に僅かに残っていた貴重な資料や武具等とともに家督を譲られている。尚、義寅は太平洋戦争中、『敵国人』としてマンザナールの強制収容所に送られ、そこで没しており、以降アメリカの斯波家とは音信不通状態となった。
さて、斯波家当主として帰国した実森であったが、これまで生活費や渡航資金など、諸々の費用がかさんでしまったために、経済的に苦しくなっていた。そんな彼に救いの手を差し伸べたのが、前田利為侯爵。何を隠そう、彼こそが大正~昭和前期の加賀前田家当主であった。当時、陸軍のエリート将校であった彼は、とある人物から斯波家の窮状を聞いたのである。その人物の名は、斯波忠三郎。実は、彼の先祖は津田正勝といい、斯波義康の弟にあたる。正勝は、関ヶ原の合戦後に加賀藩の家老として迎えられていた。そして、明治維新に際して斯波に復姓(以降、加賀斯波家と称する)、更に日本一の大大名の家老家ということで、男爵に叙せられたのである。既に加賀斯波家は、社会的地位では斯波家を優に超えていたが、それでも忠三郎氏は『本家』のことを放っておけなかったのである。
利為侯は、無償で実森に、一時的な生活資金と簡素な一軒家を提供した。更に、実森の高い英語力を評価して、京都の立誠館大学の講師に推薦した。実森は京都に移って、教職に精勤した。それが評価されて、政府から位階も授与された。しかし、戦争が激化すると、戦火を逃れるため、大学講師を辞して下関に移住した。そこで高校教師に任用され、定年までその職にあった。それ以降の話は、第一章などで述べた通りである。
「本当に、波乱だったんですね…」
斯波家の歴史は、南興楠木家以上に激動なものだった。そう、沙織は感じた。
「加賀の分家の存在、そして前田家の支援が無ければ、私の家がここまで存続していなかったと思っています。そして、南方へ渡った南朝の子孫と、こうして会えることも無かったでしょう」
「私こそ、斯波さんと今回会えたこと、何か運命を感じてしまっています」
「既に、私の家の実情は、宇喜多さんから聞いているとか…?」
「はい、一通りは…」
「私は本来当主になるはずではなく、姉が家を捨ててしまったために、急遽私が継ぐことになってしまって。しかし、恥ずかしながら、私は元々人づきあいが苦手でして。なので、他の名家とのつながりが薄くなってしまっています。私の力不足なのは分かっているのです」
「そんな…。斯波さんは頑張っていらっしゃると思いますよ」
「そんな中で、加賀の分家と前田家だけは、私の家を気にかけてくれていまして。しかし、それでも親族の一部が私に反発していまして…。それを、頑張って隠居している父:義矩と甥:芳彦が抑えている状態です」
「なるほど、大変ですね…」
「それで、我が宇喜多家も、何か助けられることは無いかと、模索しているのですがね…。ただまあ、一先ず今日は顔合わせということで、雑談を交えながら、色々意見交換なりできればと思っておりますが、皆さんどうでしょう?」
そう、宇喜多秀和が言うと、その場にいた三人は賛同した。
こうして四人は、午後まで各々の信条や伝統、そしてその他個人的なことまで、じっくり語らったのであった。




