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南興の赤星  作者: KKKI
序章
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序章 戦後編

 戦後、南興島は米軍占領下におかれたが、米国政府にとって、この島は厄介そのものであった。まず外地であり、日本に復帰させるのは論外であった。しかし、アメリカ統治下に置くのは、1896年南興独立革命の世代が生き残っていることなどの住民性を考慮すると難しかった。かといって、近隣のフィリピンやインドネシアに吸収させるのも、民族的に不可能であった。こうした考慮の結果、米国政府は、南興島を独立主権国家とすることに決し、1948年9月、南興島は『南興共和国』として独立した。因みに当初、独立準備委員会は王国としての独立を望み、宇喜多秀一元枢密院議長を、南興国王に推戴することについて、米国政府に許しを請うたが、A級戦犯に一時期挙げられ、当時公職追放中であることを理由に拒否されてしまい、やむなく共和制に舵を切った。しかし実情は、前述の出来事から、マッカーサーは南興島自体に嫌悪感を抱いており、『宇喜多王朝』の拒否も、本来心情的なものに、いかにも真っ当な理由を付け加えたようなものであった。

 それはともかく、1948年8月、米軍監督の下、南興共和国の大統領選挙が執り行われ、開票の結果、宇喜多家家老の末裔にあたる花房成人が当選した。また、同時に行われた共和国議会選挙(定数60)では、花房率いる南興自由党が23議席、楠木正武率いる南興労農党が22議席と、左右の勢力が拮抗した。花房は、メスティーソ系住民が組織したFrente Grandista(グランデ戦線)と、民族主義政党の独立党に、閣僚ポストの一部を渡すなどして抱き込み、どうにか政権をスタートさせた。しかし、この選挙結果自体に、南興労農党が反発、労働者によるストライキやデモを裏で操って、花房政権を妨害した。

 1951年、日本の労働党において、武装闘争路線が採択されると、早速労働党は武器を大量に仕入れ、その3割を南興労農党に密輸したのである。同じ日系であり、尚且つ『米帝』によって無理やり切り離された弟分を、見捨てるつもりは毛頭なかったのである。労農党は、その武器を使って、1952年晩秋から各地で武装蜂起を始めた。花房大統領は、何とかしてこれを鎮圧しようとしたが、日に日に労農党軍(後に南興人民軍)の勢いは増していき、とうとう1月下旬には、南興島南部の殆どを制圧される事態となった。ここに及んで1月27日、南興労農党委員長の楠木正武は、『南興社会主義人民共和国』の建国を宣言した。

 これに伴い、南興共和国政府は、首都であった高松(興城のやや北西に位置する。独立時、労農党が強い南部と、自由党が強い北部の中間地点として、首都が置かれていた)から、北部の軍港である岡豊に避難した。しかしその直後である2月11日、共和国軍によるクーデターが発生し、花房大統領は殺害され、以降1990年迄、北南興は軍事政権が続くことになる。

一方、今回の物語の主軸である南南興こと、南興社会主義人民共和国は、楠木正武大統領と南興労農党の領導の下、重農主義政策をとった。元から食料生産力が高く、農業の専門家を一定数抱えていた労農党は、北朝鮮(正式名:朝鮮民主主義人民共和国)のような更なる飢餓・貧困に陥る事態を、避けることができた。但し、工業の発展に関しては今一つで、沿岸部に中規模の工業地帯を持つにとどまった。それでも、東側諸国の中では東ドイツ(正式名:ドイツ民主共和国)に次ぐ『優等生』として一目置かれ、1961年にはソ連のフルシチョフ第一書記による興城及び周辺の農業地帯の視察を受け、絶賛されるほどであった。

 ただ、そのころから中国とソ連との関係が悪化し始めた。中国としては、南南興を太平洋における友好国としてとらえており、そこがソ連側に付けば、軍事的脅威を海からも受けることになりかねなかった。ソ連にとっても、南南興が中国側に付けば、太平洋での影響力をほぼ完全に失う事態になりかねなかった。そのため、中ソ両国は、南南興を自陣営に取り込むべく、あらゆる手を尽くした。

 しかし、南南興がとった手は、『独自路線』であった。南南興は、半鎖国路線に転じたのである。農業面で順調な南南興は、飢餓の心配があまりなく、強いて言えば工業面がやや貧弱であった。だが、後者の心配はすぐに消えた。東欧ルーマニアで、ニコラエ・チャウシェスクが指導者に就くと、かの国も西欧寄りの独自路線をとった。1968年の『プラハの春』でも、ソ連からの軍の派遣要請を拒絶している。それが功を奏し、西欧との通商関係を築くことに成功していた。とはいえ、ルーマニアとしても、唯一友好的な社会主義国が隣国のユーゴスラビアのみとなっており、かの国としても、他の東側の友好国を欲していた。南南興としても、工業的に順調であり、石油も出るルーマニアとの友好関係は願ってもないことであった。こうして、南南興とルーマニアは急接近した。その関係に北朝鮮も加わり、事実上社会主義陣営が、ソ連派、中共派、ルーマニア派の3つに分割されることになった。

 楠木正武とチャウシェスクは、個人的にも意気投合しており、互いの国を各々4回訪問している。そしてその度に、マスゲームなどの手厚い歓待を受け、公的な会見においても、お互いを『親友』と呼んだ。その影響は、チャウシェスクの統治方針にも及び、社会主義国では珍しい親族優遇体制(息子への世襲も検討)を築くに至った。

 その影響の元となったのが、北朝鮮である。北朝鮮では長らく派閥抗争が続いており、1950年代以降、これを金日成委員長が次々粛清したという経緯があった。これに本人のみならず、側近たちも懲りており、安定な政権維持のために、息子の金正日への世襲を決定していた。これと同様に、南南興でも1976年に、No.2で戦友であった菊池源太郎副大統領(党副委員長)を粛清して(北南興への通謀容疑をでっち上げた)、後任に正武の息子である正光を就けた。テクノクラートでもあった正光の奮闘もあり、1980年頃から工業面で徐々に成長を見せるようになった。

 しかし、南南興にも挫折の時が訪れる。1988年、後継者に決定していた楠木正光が、父に先立って急死してしまった。一旦は、正光の長女の舅である岩松英純が次期党委員長候補に挙げられたが、彼はそれを辞退した。そのため、再度世襲路線に舵を切り、翌年5月に、正光の長男である正興が、弱冠29歳で中央委員会政治局員に選出された。これ以降、国内で正興が後継者である旨のプロパガンダが多数制作されている。

 そして、追い打ちをかけるように、同年12月、正武の盟友であった、ルーマニアのチャウシェスク大統領が、革命勢力により捕えられ、夫婦もろとも処刑されてしまった。この一報を聞いた正武は、ショックのあまりその場で卒倒したと言われる。これ以降、正武は急速に体調を崩し、1990年11月、82歳で逝去した。

 跡を継いだ楠木正興は、祖父の半鎖国路線を放棄し、全方面外交に転じた。理由として、米ソ冷戦が終結していたこと、友好国であったルーマニアが民主化したこと、同じく友好国であった北朝鮮が経済的に低迷していたことが挙げられる。米国との関係は好転しなかったものの、日本との関係は改善し、1994年には国交も樹立された。共に日本語圏である両国での観光客の行き来は急増、国交樹立5年後には、南南興への観光客が、北南興のそれを上回ることになった。21世紀初頭には、観光立国としてその地位を確かなものとした。その一方で軍事力強化にも取り組み、中国製の武器を購入している。また、日本などからの企業誘致を行い、市場経済を一部導入することで経済成長を果たした。中国では、『社会主義市場経済』を導入したことで、貧富の格差が拡大したが、南南興ではそれが限定的であり、貧困家庭への支援も怠らなかったため、格差拡大も最低限に抑えることができた。

 しかし、そのような経済の好調を一気に暗転させる出来事が起きた。それが、2008年のリーマンショックである。アメリカから発生した世界的大不況は、南南興にとっても無関係ではなく、外国企業の一部が撤退したため、失業者が発生した。更に、一部金融機関も倒産したために、経済も混乱状態となった。そのため、一時的に統制経済に戻すことで、2年半で混乱を収束させたが、経済は横ばい状態となってしまった。

 そんな中、同じ『社会主義国』であった中国と、西側の盟主であったアメリカが対立を深める『新冷戦』が始まっていた。武器の輸入などで中国との友好関係を維持していた南南興であったが、影響力拡大をもくろむ中国へ、次第に警戒を強めるようになった。しかしアメリカに対しても、第二次世界大戦からのしこりが残っていたり、資本主義国家であったりすることから、友好関係を模索しようとする労農党幹部はごく少数であった。2010年代、南南興こと、南興社会主義人民共和国は、岐路に立たされていた。

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